syuの日記・気まま旅

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戦争シリーズ その2

2012-07-13 | 諸々日記

アメリカ軍、東京無差別爆撃、1944年11月、品川方面、渋谷方面、12月杉並、京橋方面、翌年4月本郷方面、中島飛行機武蔵野方面、麹町方面
5月三田方面、などで回数100回以上、中でも大爆撃が、1945年3月10日の人口密度の高い下町爆撃である。
死者推定一夜にして10万人以上が、火災地獄に襲われた。
アメリカ軍「B29」から焼夷弾約2000tを投下した。焼夷弾は、油脂、着火剤の黄燐デルミットで殺傷能力は無いが火災能力に優れ、木造の日本家屋に適し
、見る見るうちに大火災を起こし、10万に以上の死者は火の海で亡くなられた。
全て焼夷弾ではない、ベトナム戦で使用したナバーム弾も混じっており、右に逃げた者、左に逃げた者で、運命が分かれたという。

その8月15日終戦、私は国民学校1年生、夏休みであったが疎開先の学校にいた、小学校で、宿舎の駐留していた兵隊さん達と一緒に校舎で、
天皇陛下の「玉音放送」を聞いた。当時の教育で、まだ一年生だったが、やがては自分も兵隊さんの後を次いで、戦いに行くのだと心に決めていた。
「玉音放送」の内容は理解できずに家へ帰った記憶がある。


アメリカ軍の東京下町無差別爆撃
  

 炎の街、焦土にした焼夷弾
  

日本、ドイツ、イタリアの三国同盟であったが、日本はロシアを加え四国同盟を考えていた。四国であれば状況が変わっていた。

三月亀戸両国などの下町、五月渋谷など山の手「東京大空襲」
    


江東区北砂1丁目ー「東京大空襲・戦災資料センター」とは、東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、
4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センター。2002年の3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館している。


館内展示場                        子供を守り母親像
  

3月10日の下町大空襲から、その後も東京への空襲は続けられた。4月13日には王子・赤羽地区を中心とした城北地域が、翌15日には大森・蒲田地区を中心とした
城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、約22万戸もの家屋が焼失した。さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に
470機ものB29が来襲した。

皇居も被災し宮殿が焼失した。これにより死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。
また当時、東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死している(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)。

3月-5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また多摩地区の立川、八王子なども空襲の被害を受けている。
その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。

5月25日の山の手空爆で我が家屋(大田区千鳥町)は、灰になっている。

東京を焼野原にした爆弾
  

東条英機自決失敗、
現職の陸軍大臣阿南惟幾が割腹自決し、宇垣纒海軍中将が玉音放送後に特攻するなど、指導層の自決が続いていた。
東條の娘婿で宮城事件の首謀者のひとりであった近衛第一師団の古賀秀正少佐も自決した。
東條は隣家の医師に頼んで心臓の位置を教えてもらい、心臓部分に墨で黒い印をつけてもらっていたが自決には踏み切れなかった。身辺を整理はしていたようである。

焦土の動物の骨        孤児となった子供達
  


ビルも崩れ落ち焼け焦げた東京         夜間空襲
  

 
焼け焦げた死体                     焼け跡の絵
  

路上に散らばる死体               焼け爛れた都電


A級戦犯容疑者として100人以上が逮捕されたが、うち28人だけが極東国際軍事裁判にかけられた。

インドのパール氏は、「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。
“裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”という判断をした。


空襲被害を受けや街並み



共産党員活動 徳田球一
「フアシズム及び軍国主義からの世界解放のための、連合国の日本進駐にとって日本における民主主義革命の端緒が開かれ度ことに対して我々は感謝を表す。
米・英及び連合国を支持、我々は天皇制を打破して、人民共和政府の樹立にある。天皇の宮廷、行政官僚、貴族、寄生的土地所有者及び資本家の結合体を一掃する」
と街頭演説。


民族の驕りが戦争に、その3に続く。