syuの日記・気まま旅

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薩った峠と三保の松原

2012-10-10 | 気まま旅
富士川に沿っての旅に戻ります。

「薩った峠の戦い」薩った山の戦いは、南北朝時代の1351年、薩った峠にて、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦。
「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂。

直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年、直義は、
「桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る」
尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、「仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した」

直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩った峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(小田原市)などの戦いでも直義勢を破り1352年、直義は尊氏に降伏した。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月に急死する。病死とされているが、「太平記」は、尊氏による毒殺であると記している。

「甲相駿三国同盟」は、1554年に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつ。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもので、締結時に3者が会合した
という伝説から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し1568年には同盟を破棄し、駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。武田軍は京都を目指した。


海側の下道と、ここ中道の薩った峠      昔の石塔          合戦案内板            
    

薩った峠は、真の宿本陣、西沢一里塚跡、~興津川一里塚跡の国道一号線バイバスを「下道」といい、東海道本線の山よりを「中道」その上の山道一部通行不能を
「上道」で、旧東海道は、「中道」をさすようだ。「薩った峠の合戦」は、狭い道でどのようにして戦ったのか想像する。

東海道旧道          鰻の寝床の街並みが             中道から下道の水路
    

さった峠の名は、海から引き上げられた「地蔵菩薩・薩った」を祀ったことからという。広重が描いた富士の絵は、中道からと思える。
東海道五十三次でもここだけが、今でも感じ取れるという。この道以外は、波打ち際の危険な「下道」を抜けたという。ここでも「親不知、子知らず」の道と呼んでいる。

狭い旧道の中道                 興津川・広重はこの辺から
  

「御穂神社」は、三保の明神さんと親しまれ、奉納の舞いである「羽衣の舞」は雅楽「東遊び駿河舞」にその原形があると言われ、地元の保存会が伝承している。
三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説で名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。
樹齢200~300年の松の並木が500mほど続く「神の道」と呼ばれる参道がある。神の道を進むと、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、羽衣の松に着く。

春になると境内は山桜、かすみ桜など22種220本の桜で満開になる。駿河国三宮、創建は不詳、御廬神社とも記され、「日本三代実録」元慶3年に
「駿河国従五位上の御廬神に正五位下、下総国正六位上の子松神に従五位下を授ける」とあり、879年に正五位下の神階を授けられている。

松原神の道の入り口神社           鳥居               境内
    

重要文化財・ 太刀、 無銘、鎌倉時代の作。鎬造。糸巻太刀拵が付属する(市指定文化財)。本殿、 江戸中期の建立。入母屋造り。
その他・ 羽衣の裂 羽衣の笛 三保古絵図ねど。

神社前                                    本殿
  

 
鬱蒼とした境内内                      三保の松原神の道松並木
    


「神の道」は、御穂神社から羽衣の松までを結ぶ松並木を云う。清水港から駿河湾に突き出した半島が三保。東岸に広がる三保の松原は万葉の昔から知られた景勝地で、
霊峰富士を仰ぎ、松林の緑と打ち寄せる白波、海の青さが織り成す風景は、今も変わらない。

歌碑の立て看板が            並木
    

昔から親しまれている三保半島の南側に広がる松の古木の景勝地。総延長7km、5万4千本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。
 
風雪で曲がりくねった古松が             松並木のトンネルを
    

1980年代から三保の松原の砂浜は、波の浸食により消失の危機に見舞われている。
原因は、1960年代に安倍川により流された土砂を大量に採掘したため、土砂の需給バランスが崩れたことと考えられている。
現在、静岡県は海岸から百メートル程の地点に消波ブロックを点在して設置し、砂を補給するなどの養浜対策を講じている。
また「羽衣の松」を含む多くの松林が徐々に枯死する症状も進行している。静岡県などが対策に乗り出しているが、根本的な解決策が見つけ出せずにいるのが現状。

並木を抜け砂浜海岸へ
  


日本新三景の一つ三保の松原は、天女の羽衣の松が樹齢650年。晴れていれば、老松林越しに見える富士山の姿も絶景。
江戸時代には三保全体が松林に覆われ、清水湊を挟んだ対岸の江尻宿からは、海にぽっかり浮かんだ松林が見れたという。


羽衣伝説の三本松の一本が枯れかけている  自然のバランスが崩れ浸食
  

静岡茶摘み、
          夏も近づく八十八夜
                    野にも山にも若葉が茂る
                         あれに見えるは
                               茶摘ぢやないか
                                  あかねだすきに菅の笠


次回は、日本平から