syuの日記・気まま旅

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東京駅の復元、今昔

2012-10-25 | syu散歩
東京駅が改装なったというので、久し振りに都内散歩に出かけた。

改装なった東京駅、レンガも鮮やかに落ち着いた雰囲気。ライトアップも楽しみ、これは次回に。


1914年(大正3年)に創建された東京駅丸の内駅舎は、辰野金吾により設計され、その堂々たる姿で、多くの人々に愛されてきた。
しかし、1945年(昭和20年)戦災により南北のドームと屋根・内装を焼失。戦後、3階建ての駅舎を2階建て駅舎に復興した。

今回の「保存・復原工事」では、外観を創建時の姿に忠実に再現するのはもちろんのこと、さらに、未来へ継承するため、鉄骨煉瓦造の下に地下躯体を新設し
、機能拡大の工事を行い、巨大地震にも耐えうる建築とするため、「免震工法」で施工した。


新橋―横浜間に初めて鉄道が敷かれた際、東京日々新聞、明治5年に「明治天皇は、直衣をまとい、4等立ての御馬車で、「新橋駅」に到着した。
開業式は、9月9日の予定だったが、雨のため12日に延期されていた。当日の飾りつけは、英人スメドレーが鉄道寮の委託で請負い、緑葉を持って柱を巻き、
万国旗を廻らせた西洋式の飾りつけは日本初めての試みであった。
「新橋駅」前には、大アーチが建てられたが、このアイデアは、鉄道頭井上大臣によるものであった。10両編成の列車は、新橋駅をスタート・・・・
一時間後「横浜駅」に到着した。」とある。昔の「新橋駅」は、汐留駅」を云う。

鉄道院総裁「後藤新平」は、三菱ヶ原(軍練兵場を、三菱創設者、岩崎弥之助が明治23年に8回払いで買わされている)の中央に、ルネッサンス式の
「東京駅」総工費280万円、レンガ、760万個、ロシアを抜く世界一の駅を目指して大正3年に完成。一日乗客数 9600人と記録されている。



昭和22年頃、電車に乗り東京駅へ、トンボ捕りに遠征していたのを思い出す。特に雨上がりにになると大発生、おとり(同種の牝トンボを糸につけ、回して、
誘い寄せる方法)で、ギンヤンマ(銀ちゃんと云っていた)、オニヤンマ、サナエなど、面白いように獲る事が出来た。
今は、地下26m、日本一の乗降客のマンモス駅である。



赤レンガの外観で親しまれてきた「東京駅丸の内駅舎」。
幾多の文人にも愛されてきた東京ステーションホテルも、駅舎の保存・復原工事に合わせて全施設を改装し、3日に開業。この巨大な建築物の耐震改修には、
免震工法が採用された。

浜松町駅止まりとなっている「東京モノレール」を新橋駅か東京駅へ延伸する計画がある。完成すれば成田エクスプレスとの乗り換えが便利になり、
羽田・成田両空港間の移動時間が短縮される。

駅構内も明るくモダンに改装されている。
    

「原首相暗殺現場」の碑 
大塚駅の転轍手であった「中岡艮一」は、以前から「原敬首相」に対して批判的な意識を持っていた。
艮一の供述によれば、原が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。
その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司の「橋本栄五郎」の影響を受けたことなどもあって、艮一は原暗殺を考える。
1921年11月、原は京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていたが、午後7時25分頃、突進してきた艮一に
短刀を右胸に突き刺された。原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。
突き刺された傷は原の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

  

「浜口首相遭難現場」
南口改札付近。昭和初期、緊縮財政や金解禁といったフレーズで語られる事が多い首相で、「ライオン宰相」と呼ばれていた。原は刺殺されたが、浜口は銃で狙撃された。
1930年11月、岡山で開かれる陸軍大演習の視察に出掛けるため、浜口は東京駅に、午前9時発の特急燕に乗車するため、書記官長、法制局長官や民政党幹部らと共に、
東京駅駅長に案内されて第4ホームを歩いていた。

浜口らが乗車する予定であった一等車の付近で銃声が響いたのが、8時58分。狙撃したのは佐郷屋留雄という右翼の青年。
この時佐郷屋と浜口との距離は3m程しかなかったという。至近距離から撃たれたため、弾丸は腹部に命中。
ホームは大混乱に陥り、周囲に「大丈夫だ、大丈夫だ」と洩らすほど、撃たれた浜口本人は気丈だったという。



「平将門・首塚」は、神田明神同様、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた地。
地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来。

関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で
噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、
不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。
 
    

「平将門」~940、東国桓武平氏の一人、京都藤原忠平に仕え、下総に帰郷し、武蔵国の官人と土豪の争いに介入後、東国国司を追放して、
新皇と称したが、平 貞盛・下野藤原秀郷に討たれる。将門の首は、京都へ送られ晒首に、その首が飛んで大手町に落ちたという。

       

「酒井家上屋敷跡」でもあるここは、酒井雅楽頭の中庭、歌舞伎の「先代萩」伊達騒動の場の、原田甲斐殺害された所であるようである。
山本周五郎「樅の木は残った」の、原田甲斐(1619-71)伊達家の重臣原田宗資の嫡男、伊達宗勝(正宗の末男)仕え、政敵の伊達宗清等の陰謀で、
不正を訴えられ対決していく、最後は、酒井忠清に謀刹される。歌舞伎とは違うようだ。


   
 
東京駅丸の内口は大きく変貌している。左東京郵便中央局も、再開発され、JRビルと結ばれ高層ビル「JPタワー」に、皇居外苑の馬場先濠、桔梗濠、
大手門、内堀通り、三菱ビル、大手町の周りもビルラッシュの工事中。

次回は、有楽町へ。