今回「都営地下鉄の大江戸線」を一駅一駅、散歩してみた。10回余りとなる予定。まず光が丘から・・。
光が丘駅は団地の大型スーパー店の地下になる。
都の陸の孤島と云われた「練馬区・光が丘」、武蔵野台地に位置し、石神井川と1696年多摩川用水の千川用水が開かれ、その後灌漑用水とされ、江戸に出荷する野菜を供給する近郊農村であった。練馬大根は全国的に知られている。
戦後は、キャベツと宅地化と基地の混在区。
大戦中は、陸軍の成増飛行場があり、その跡地に米軍が使っている。1973年返還、地名も光が丘になり大団地が建てられた。
光が丘は、区のやや中央に位置し近くは、高松・谷原・土支田・田柄・春日町に囲まれている。
グラントハイツ跡地(光が丘地区)に大規模住宅団地建設をはじめとした再開発を行うことが決定され、交通網整備の必要性が高まった。
そのため、都が1982年に策定した「都長期計画」の10ヵ年計画において、地下鉄12号線を建設することが決定。
特に、この時点で需要の見直しや建設費用の見直しを行い、小型地下鉄車両(16.5m車両による8両編成)によるトンネル断面の縮小、駅設備を縮小され、運行形態 は、全線で開業当初よりワンマン運転を実施し、保安装置にATC装置を使用、列車の自動運転機能を有するATO装置を使用しているという。
1991年光が丘―練馬間開業。
「大江戸線」の路線番号が「12号線」と仮称され、1996~1997年あたりの開通を目指していたとか。
色々な事情で工事が延長され、全線開通日が平成12年(2000年)の後半あたりになりそうだとわかってからあえてこの日にちに開通、
開通日が平成12年12月12日という、また、12時12分にも記念行事が行われ、「都庁前」を特別列車が発進したという。
8両編成分137mのホームを列車のモニター画面で運転士が監視をしている。
列車停止時の監視ならびに列車発車時においては列車最後部がホームを抜けるまでの間、運転士がホーム監視モニター画面でホーム上を監視し、触車事故などの場合には運転台の非常停止スイッチで列車を停止させる方式を採用。
2013年4月27日には全駅でホームドアの整備が完了している。
まず、光が丘駅からスタートする。練馬区には、練馬春日町・豊島園・区役所のある練馬・新宿区の境,新江古田と続いていく。
車内は少々狭いが乗りごごちは悪くない

新宿線・埼京線・湘南新宿ライン・中央線・中央・総武線・山手線・小田原線・京王線・ 丸ノ内線
新宿ー都庁前駅ー西新宿五丁目駅 (清水橋)ー中野坂上駅( 丸ノ内線)ー東中野駅(JR中央・総武線(各駅停車))-中井駅(西武鉄道:新宿線)
落合南長崎駅ー新江古田駅ー練馬駅(西武鉄道:池袋線・西武有楽町線・豊島線)-豊島園駅(西武鉄道:豊島線)-練馬春日町駅ー光が丘駅。
全て自動で、先端を

路線距離:全長 40.7 km 光が丘 - 新宿間(放射部) 12.9 km。
新宿 - 都庁前間(環状部) 27.8 km。
ホームも明るく清潔

運輸政策審議会は「鉄道空白地帯である大泉学園から武蔵野方面への延伸を検討すべき」と答申。
2000年には「光が丘~大泉学園町は2015年までの整備着手が妥当」と、具体的な時期まで示している。どうなるか?。
案内板も見やすく解り良い

光が丘駅前、大型スパーの地下になる

大型スーパー地下、光が丘団地の中央に出たのか?住宅マンション以外団地の公園があるだけで次の「練馬春日町駅」へ
団地。団地また団地

練馬春日町駅前「練馬大根の産地」環状八号線口にでる。
ふじ大山道
大山は、雨乞いに霊験のある山として昔から農民の間に関心が寄せられ、大山阿夫利神社は、農民から五穀豊穣や雨乞いの神としての信仰を受け、日照りが続いて飢饉が多くなると、多くの農民達が参詣。
江戸時代に関東地方各地で「大山講」が組織され多くの参詣者を集めることとなり、大山講の中でも江戸日本橋小伝馬町の「お花講」の人たちが夏山祭りの初日に大山頂上への中門を開くのが元禄以前からのしきたり。
道中の参詣者は、白の行衣、雨具、菅笠、白地の手っ甲、脚絆、着茣蓙という出で立ちで腰に鈴をつけ、「六根清浄」の掛念仏を唱えながら、5 - 6人、多い時には20 - 30人が一団となって、7 - 9月を中心に大山へと向かった。
また、盆・暮れの借金の回収時期に「大山参り」をしていれば、借金は半年待ってくれるという恩典もあった。最盛期の宝暦年間には、年間約20万人の参詣者を数えている。
こうしたことから、関東各地から大山への参詣者の通る道が次第に「大山道」と呼ばれて定着化し、道標にも記されるようになっていった。大山道は大山を中心に放射状に広がり、関東地方の四方八方の道はすべて大山に通ずると言っても過言でない状況。
大山道沿道や相模川の渡船場などでは、宿場として栄える所もあった。大山からの帰路は江ノ島、鎌倉などの観光も行われ、大山参詣は一種のレジャーとしての要素も兼ね備えていた。古典落語の「大山詣り」もそうした背景から。
富士講による富士山への参詣者も同じ道筋を通ったことから、一部の道には「ふじ大山道」という名称も見られた。富士山への参詣者も必ず大山にも参詣するのが通例となっていたという。
練馬春日町駅は、交差点に

海老・谷戸馬頭観音・道しるべが(練馬青少年会館脇に)
古道・大山道の道しるべ道標、道祖神が、 現在、江古田、豊島 、長崎(豊島区)、下谷坂本(台東区)、木曽呂(埼玉県川口市)の4基の富士塚が知られている。
古道なのか石塔が

又六庚申塔も並んであった。
徳川綱吉公右馬頭たりし時、偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、卜せしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、病漸次癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。
公病癒えて帰城するや、旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。
とある。これが、練馬大根誕生伝説の一つである綱吉説の重要な文献になっている。
この辺は、練馬大根で知られている

「練月山 愛染院 観音寺」は、練馬区春日町四丁目にある真言宗豊山派の寺院。
愛染明王を単独の本尊とする珍しい寺院であり、また「観音寺」の名称にもかかわらず観世音菩薩が本尊として迎えられた記録がないという不思議な寺名の寺院でアルトいう。
江戸時代頃の造形とされる本尊愛染明王像は秘仏であり、像の厨子は正月三が日のみ開帳されるが、本堂の正扉が開かれて外部に一般公開されるのは元旦午前0時から新年法要が行われている数時間のみであり、また本堂内での一般公開も行っていないため、拝観することは極めて困難である。
真言宗の寺、参道・総門

永享5年の1433年に 創建。1789年 - 1800年に 火災により焼失され、 昭和3年(1928年) 再建されている。
鐘楼 青銅燈籠 本堂

江戸時代には12石1斗の朱印地を拝領した御朱印寺で、若宮八幡(現高松八幡神社、8石の朱印地を拝領)の別当寺、
第17世亮意は豊島八十八ヶ所霊場を開いています。豊島八十八ヶ所霊場26番札所。
お堂 南無大師像

次回は、豊島園・練馬駅へ。
光が丘駅は団地の大型スーパー店の地下になる。
都の陸の孤島と云われた「練馬区・光が丘」、武蔵野台地に位置し、石神井川と1696年多摩川用水の千川用水が開かれ、その後灌漑用水とされ、江戸に出荷する野菜を供給する近郊農村であった。練馬大根は全国的に知られている。
戦後は、キャベツと宅地化と基地の混在区。
大戦中は、陸軍の成増飛行場があり、その跡地に米軍が使っている。1973年返還、地名も光が丘になり大団地が建てられた。
光が丘は、区のやや中央に位置し近くは、高松・谷原・土支田・田柄・春日町に囲まれている。
グラントハイツ跡地(光が丘地区)に大規模住宅団地建設をはじめとした再開発を行うことが決定され、交通網整備の必要性が高まった。
そのため、都が1982年に策定した「都長期計画」の10ヵ年計画において、地下鉄12号線を建設することが決定。
特に、この時点で需要の見直しや建設費用の見直しを行い、小型地下鉄車両(16.5m車両による8両編成)によるトンネル断面の縮小、駅設備を縮小され、運行形態 は、全線で開業当初よりワンマン運転を実施し、保安装置にATC装置を使用、列車の自動運転機能を有するATO装置を使用しているという。
1991年光が丘―練馬間開業。
「大江戸線」の路線番号が「12号線」と仮称され、1996~1997年あたりの開通を目指していたとか。
色々な事情で工事が延長され、全線開通日が平成12年(2000年)の後半あたりになりそうだとわかってからあえてこの日にちに開通、
開通日が平成12年12月12日という、また、12時12分にも記念行事が行われ、「都庁前」を特別列車が発進したという。
8両編成分137mのホームを列車のモニター画面で運転士が監視をしている。
列車停止時の監視ならびに列車発車時においては列車最後部がホームを抜けるまでの間、運転士がホーム監視モニター画面でホーム上を監視し、触車事故などの場合には運転台の非常停止スイッチで列車を停止させる方式を採用。
2013年4月27日には全駅でホームドアの整備が完了している。
まず、光が丘駅からスタートする。練馬区には、練馬春日町・豊島園・区役所のある練馬・新宿区の境,新江古田と続いていく。
車内は少々狭いが乗りごごちは悪くない

新宿線・埼京線・湘南新宿ライン・中央線・中央・総武線・山手線・小田原線・京王線・ 丸ノ内線
新宿ー都庁前駅ー西新宿五丁目駅 (清水橋)ー中野坂上駅( 丸ノ内線)ー東中野駅(JR中央・総武線(各駅停車))-中井駅(西武鉄道:新宿線)
落合南長崎駅ー新江古田駅ー練馬駅(西武鉄道:池袋線・西武有楽町線・豊島線)-豊島園駅(西武鉄道:豊島線)-練馬春日町駅ー光が丘駅。
全て自動で、先端を

路線距離:全長 40.7 km 光が丘 - 新宿間(放射部) 12.9 km。
新宿 - 都庁前間(環状部) 27.8 km。
ホームも明るく清潔

運輸政策審議会は「鉄道空白地帯である大泉学園から武蔵野方面への延伸を検討すべき」と答申。
2000年には「光が丘~大泉学園町は2015年までの整備着手が妥当」と、具体的な時期まで示している。どうなるか?。
案内板も見やすく解り良い

光が丘駅前、大型スパーの地下になる



大型スーパー地下、光が丘団地の中央に出たのか?住宅マンション以外団地の公園があるだけで次の「練馬春日町駅」へ
団地。団地また団地


練馬春日町駅前「練馬大根の産地」環状八号線口にでる。
ふじ大山道
大山は、雨乞いに霊験のある山として昔から農民の間に関心が寄せられ、大山阿夫利神社は、農民から五穀豊穣や雨乞いの神としての信仰を受け、日照りが続いて飢饉が多くなると、多くの農民達が参詣。
江戸時代に関東地方各地で「大山講」が組織され多くの参詣者を集めることとなり、大山講の中でも江戸日本橋小伝馬町の「お花講」の人たちが夏山祭りの初日に大山頂上への中門を開くのが元禄以前からのしきたり。
道中の参詣者は、白の行衣、雨具、菅笠、白地の手っ甲、脚絆、着茣蓙という出で立ちで腰に鈴をつけ、「六根清浄」の掛念仏を唱えながら、5 - 6人、多い時には20 - 30人が一団となって、7 - 9月を中心に大山へと向かった。
また、盆・暮れの借金の回収時期に「大山参り」をしていれば、借金は半年待ってくれるという恩典もあった。最盛期の宝暦年間には、年間約20万人の参詣者を数えている。
こうしたことから、関東各地から大山への参詣者の通る道が次第に「大山道」と呼ばれて定着化し、道標にも記されるようになっていった。大山道は大山を中心に放射状に広がり、関東地方の四方八方の道はすべて大山に通ずると言っても過言でない状況。
大山道沿道や相模川の渡船場などでは、宿場として栄える所もあった。大山からの帰路は江ノ島、鎌倉などの観光も行われ、大山参詣は一種のレジャーとしての要素も兼ね備えていた。古典落語の「大山詣り」もそうした背景から。
富士講による富士山への参詣者も同じ道筋を通ったことから、一部の道には「ふじ大山道」という名称も見られた。富士山への参詣者も必ず大山にも参詣するのが通例となっていたという。
練馬春日町駅は、交差点に



海老・谷戸馬頭観音・道しるべが(練馬青少年会館脇に)
古道・大山道の道しるべ道標、道祖神が、 現在、江古田、豊島 、長崎(豊島区)、下谷坂本(台東区)、木曽呂(埼玉県川口市)の4基の富士塚が知られている。
古道なのか石塔が



又六庚申塔も並んであった。
徳川綱吉公右馬頭たりし時、偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、卜せしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、病漸次癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。
公病癒えて帰城するや、旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。
とある。これが、練馬大根誕生伝説の一つである綱吉説の重要な文献になっている。
この辺は、練馬大根で知られている



「練月山 愛染院 観音寺」は、練馬区春日町四丁目にある真言宗豊山派の寺院。
愛染明王を単独の本尊とする珍しい寺院であり、また「観音寺」の名称にもかかわらず観世音菩薩が本尊として迎えられた記録がないという不思議な寺名の寺院でアルトいう。
江戸時代頃の造形とされる本尊愛染明王像は秘仏であり、像の厨子は正月三が日のみ開帳されるが、本堂の正扉が開かれて外部に一般公開されるのは元旦午前0時から新年法要が行われている数時間のみであり、また本堂内での一般公開も行っていないため、拝観することは極めて困難である。
真言宗の寺、参道・総門



永享5年の1433年に 創建。1789年 - 1800年に 火災により焼失され、 昭和3年(1928年) 再建されている。
鐘楼 青銅燈籠 本堂



江戸時代には12石1斗の朱印地を拝領した御朱印寺で、若宮八幡(現高松八幡神社、8石の朱印地を拝領)の別当寺、
第17世亮意は豊島八十八ヶ所霊場を開いています。豊島八十八ヶ所霊場26番札所。
お堂 南無大師像



次回は、豊島園・練馬駅へ。