また今年も、2013年8月15日 私の誕生日と終戦記念日が来る。毎年、北東の両国・吾妻橋方面に向かい黙祷を欠かさない。
今年から、保険証も後期高齢者医療保険者証になる。
大江戸線も「両国駅」、江戸時代の1659年、橋が架橋され、当初幕府によって大橋と名づけられたが、両国橋と通称された。
両国橋東岸の地域、現在の両国は神田、日本橋方面と直接結ばれ、以後江戸が隅田川をはさんで東側に拡大する足がかりとなった。
現在の両国を含む北側が本所、両国よりも南側が深川であり、双方とも江戸時代の新興住宅地域になる。
1701年9月21日、江戸幕府は吉良義央に、呉服橋から両国3丁目 (当時の本所) の松平信望の上げ屋敷へ屋敷替の命を受け、
元禄赤穂事件の吉良邸討ち入りが勃発した。
江東区から墨田区へ(墨田区は両国駅のみ)
横網町公園と都慰霊堂は、元陸軍被服廠があった場所。
被服廠は大正8年に赤羽に移転し、公園予定地として更地になり、被服廠跡と呼ばれた。
1923年、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。(推定)
震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための「慰霊堂」を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。
1930年に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付され、身元不明の遺骨が納骨され、1931年には震災復興記念館が建てられた。
その後、第二次世界大戦における。1944年~1945年(昭和19年・20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える
死亡がでた。
1948年の大震災より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した「1951年に「東京都慰霊堂」と改称」。
(本堂は伊東忠太設計によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている)
又8月15日、終戦記念日と私の誕生日が
「東京大空襲」、ミーティングハウス2号作戦と呼ばれた3月10日の大空襲は、高度1600–2200m 程度の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲 だった。絨毯爆撃で、10万人、目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、大量の焼夷弾を散在させ、絨毯火災爆撃であった。
東京は、1944年(昭和19年)以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は、大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い「1945年3月10日」の空襲を指すことが多い。
全て、民間人の大きな被害を与えた。3月10日の大空爆は、焼失家屋約27万戸焦土化した。
両国公園から東京スカイツリー 平和の鐘 東京大空襲の焼け爛れた下町の絵
防空壕から、子供心に、日の丸の日本機の現れるのを期待し1~2回見たが、B29の下を低空飛行で、何もできなく、がっかりさせられた記憶がある。米軍のB29は、超低空から絨毯爆撃を。
関東大震災孤児の像
「横綱公園・都慰霊堂」は、関東大震災の発生した9月1日と東京大空襲の3月10日に法要が営まれている。
都復興記念館の建物は、設立当時。内部は第二次世界大戦に関する資料展示、屋外には、関東大震災で被災した物を展示している。
東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑は、2001年に完成した。
震災遭難児童弔魂群像は、関東大震災で被災し犠牲となった児童らを弔うために作られた像で1944年に完成したが、戦争により撤収され、現在のは1961年に作製されたもの。 日本庭園 面積は、19,579.53m²。
熱で溶けた鉄類 人間は呼吸が出来なくなる 飴の様に(公園片隅に)
公園内の、復興記念館・慰霊堂・鐘・平和記念碑と慰霊堂の裏の三重塔の納骨堂に回り、合掌している。
資料館 慰霊堂(合掌)
終戦から68年、年々遠ざかり忘れられていく東京大空襲、私には、昨日の様に忘れることは出来ない。
大量の焼夷弾で大火災に
米軍の焼夷弾の開発は、皮肉にもドイツによるロンドン空襲において回収された不発弾だったと云う。
深川、本所の下町の人々は、火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した。
しかし火災の規模が常識を遥かに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化したと云う。
街は火の海、水を求め隅田川へ
焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多い。
川に逃げ込んだものの、今度は低い水温のために凍死者の人々も多くでた。
翌朝の隅田川・荒川放水路等は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。
アメリカ軍は江戸時代の度重なる大火や関東大震災における被害実態を事前に徹底的に検証し、木造住宅の密集する東京の下町が特に火災被害に遭いやすいことをつきとめていたと云う。
選定や攻撃目標の決定に反映、東京大空襲の被害地域・規模は関東大震災の延焼地域とほぼ一致しいた。
川は、火のトンネルに
次回は、蔵前方面。