syuの日記・気まま旅

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大船渡線 東北の旅8

2015-10-23 | 気まま旅

「3.11の大船渡」
東日本大震災・大船渡市は、震度6弱が発生。
14時54分に大船渡市に津波の第1波が、15時18分には8.0m以上(観測値、痕跡によれば10m以上)とされる最大波が来襲して、大船渡市の商業の中心である大船渡町を中心に、市域の各地に大きな被害をもたらした。
大船渡市の人口は震災当時(平成23年2月末時点)、4万1089人。
今回の震災で340人がお亡くなりになり、81人の方が行方不明となられた(平成24〈2012〉年7月末時点)。
建物の被害は全壊2784世帯・大規模半壊428世帯を含む5515世帯(平成24年7月末時点)。大船渡市の世帯数は1万4970世帯(平成23年2月末時点)。
2割の世帯が全壊もしくは大規模半壊の被害を受けた。

                整備された「気仙沼駅」前


気仙沼街道は、岩手県南端花泉町の金沢宿で奥州街道から分かれ薄衣・千厩・下折壁・宮城県気仙沼へ至る街道、仙台城下では気仙道と、
氣仙沼湾東を唐桑半島・西を岩井崎・中央部に大島によって東湾・西湾に分けられている。
県最大の漁港である。全域を陸中海岸国立公園。

「三陸復興国立公園」-北部と南部で性格が異なる。
北部は典型的な隆起海岸を成し、高さ50 - 200 mにも及ぶ大規模な海食断崖が連続し、その間に砂浜海岸が見られる。
一方、宮古市以南は典型的なリアス式海岸であり、陸地の沈降によって形成されている。中小規模の半島が多く、比較的著名なものに重茂半島、船越半島、広田半島、牡鹿半島などが。
大半はアカマツを中心とした自然林となっており、半島部では手付かずの自然が残る秘境も多い。
千島海流の影響によって、温暖な地方で生育する植物も多数見られるのが特徴。
北山崎ではシロハナシャクナゲ、ハマナスなど、船越半島のタブノキ、広田半島のトベラなどが顕著である。
動物は、北上高地と連続している地域が多く、大型動物であるニホンカモシカが見られるほか、ウミネコ、オオミズナギドリなどの海鳥類が。

             悲しみをこらえ、希望を求め、着々と復興を


古代では、岩手県南東部から宮城県北東部沿岸一帯を「気仙地方」と称していた。中世には「葛西氏」の支配下、江戸期は伊達領。
気仙大工は、越前高田市「気仙大工左官伝承館」がある。

                 大津波のその後、大規模な火災が


「気仙川」
二級河川 ・延長ー44 km・水源の標高ー1,013 m・流域面積ー520 km²・水源ー高清水山(岩手県)・河口・合流先ー広田湾(岩手県)

                     産業も壊滅的打撃


「気仙沼港」
波静かな天然港、昭和56年に新漁港・遠洋漁業大型船に対応する為。
マグロ・カツオ・サンマ・イカ等。水揚げ全国有数ーイカの塩辛などの水産工業・関連企業が多い。

               沿岸部も大きく破壊、大型船街の中に


「気仙沼市鹿折地区に完成した地域の復興状況が一望できる見学台から」
見学台は高さ6メートル(海抜7メートル)の人工の丘。将来、住宅用地として使われる予定のため、見学台は2年間の期限が設けられていると云う。
鹿折地区には打ち上げられた漁船「第18共徳丸」目当ての観光客が押し寄せていたが、現在は無くクレーンが働いていた。
撤去されてからは客足が「ピーク時の約20分の1くらい」に激減し、地元住民の手で、共徳丸に代わる鎮魂の場の整備を市に要請し、
見学台が造られたと云う。隣には、仮売店と地元タクシー・建設用のダンプが駐車。
3.11の被害写真が展示されていた。工事車両が行き交う様子を眺めながら手を合せた。

               住宅街に流された「共徳丸」


                  港は、急ピッチで
  

死者―1026人・行方不明者ー383人の悲劇が  (献花高台から合掌する) 頑張れ
    

「大船渡線」
気仙沼駅 - 盛駅間は、気仙沼線・三陸鉄道南リアス線・山田線・三陸鉄道北リアス線・八戸線と共に三陸海岸沿岸部を走行する。
東日本大震災以降は不通となっており、2013年、から仮復旧として「BRTーバス高速輸送システム」が運行されている。

            バスは、専用道と一般道で運行
  

3.11で全線不通
津波で竹駒駅・陸前高田駅・脇ノ沢駅・小友駅・細浦駅・大船渡駅が流失。大船渡線の列車は338D(下船渡駅 - 大船渡駅間、キハ100-30・38)と333D(盛駅、キハ100-31・41)が津波によって冠水したが、乗客・乗務員は全員避難し無事だったと云う。
橋梁は、3ヶ所が流失し、特に陸前矢作駅 - 竹駒駅間の気仙川橋梁はコンクリート製円筒形橋脚から津波に押し流さた。
大船渡線のBRTによる仮復旧に沿線の大船渡市、陸前高田市、気仙沼市がJR東日本と。
2013年の平成25年 2月ー気仙沼線BRT営業所が大船渡線BRTの運営も担うため「気仙沼BRT営業所」に改称し、JR東日本が岩手県バス協会に入会。
気仙沼駅 - 盛駅間がBRTで運転再開。

大船渡 - 盛間でBRT専用道 (1.9km) の供用開始。
長部駅(鹿折唐桑 - 陸前高田間)、高田病院駅(陸前高田 - 脇ノ沢間)、臨時駅として、奇跡の一本松駅(長部 - 陸前高田間)を新設している。

            3.11津波にも頑張った「奇跡の一本松停留場」が
    

大船渡線は、歴史ある鉄道で、1925年大正14年  一関ー摺沢間(30.6km)が開業されている。

     吊り橋ー地盤のかさ上げ、土砂運搬のための専用橋 ベルトコンベアも活動
    

「奇跡の一本松」
岩手県陸前高田市気仙町の高田松原跡地に立つ松の木のモニュメント。
太平洋につながる広田湾に面した高田松原、「350年」にわたって植林されてきた約7万本の松の木が茂り、、陸中海岸国立公園(現三陸復興国立公園)や日本百景にも指定されていた景勝地。
3.11、津波の直撃を受け、ほとんどの松の木がなぎ倒されて壊滅、しかし、松原の西端近くに立っていた一本の木が津波に耐えて、立ったままの状態で残ったことから、この木は震災からの復興への希望を象徴するものとして「奇跡の一本松・希望の松」などと呼ばれるようになった。

震災後、この木を保護する活動が続けられたものの、根が腐り枯死と判断された。
その後に震災からの復興を象徴するモニュメントとして残すことになり、幹を防腐処理し心棒を入れて補強したり枝葉を複製したものに付け替えたりするなどの保存作業を経て、元の場所に再び立てられている。

    

1335年、奥州官領「斯波家長」1321-1338 
武将、高経の長男。父と共に一門として足利尊氏に仕えた。
「中先代の乱」後、尊氏が建武の新政に反抗し争乱が勃発すると北朝の北畠顕家に対抗するため、1335年、奥州管領任ぜられた。
この時、斯波館(岩手県紫波郡)に下向したという。
尊氏が箱根・竹ノ下の戦いで征東軍を破り上洛する際、鎌倉に残した嫡男義詮の執事に任ぜられている。
顕家が南下を開始すると後を追ったものの食い止めるのに失敗し、京都において尊氏が敗走する原因を作ってしまった。
1336年、蜂起した北条氏残党を討伐した。
豊島河原合戦で尊氏を破った北畠顕家が奥州へ帰還するため東海道を行軍すると妨害したが、破られ、
延元元年/建武3年から翌年にかけてー奥州行方郡、鎌倉正続院領信濃村、駿河安部郷、常陸中郡荘、下総相馬郡、相模光明寺領、鎌倉円覚寺、甲斐大善寺などに関する文書を発給している。1337年、尊氏は九州を制し再び上洛、
北朝を立てた尊氏を討伐するため、再び大軍を率いて南下してきた顕家を鎌倉で迎え撃つが、敗北し戦死し、(杉本城の戦い)。

後任の奥州総大将と関東執事には石塔義房、上杉憲顕が派遣された。奥州総大将と関東執事は後に奥州管領、関東管領にそれぞれ発展、高水寺斯波氏は、
家長の後裔を称したと云う。

    

1591年ー伊達氏、大崎(葛西旧領の一揆を鎮め、岩手県南を領有する。
1599年ー南部氏、盛岡城築城し本拠地とする。

      

「三陸鉄道」
三陸沿岸を結ぶ鉄道の構想は、1896年、提出され、「1896年三陸地震」の際、「陸の孤島」と評される急峻な地形が支援物資の輸送を阻んだ。
復興策として鉄道の建設が考えられ、構想は、「三陸縦貫鉄道構想」となり、
1928年ー仙台駅 - 石巻駅間(宮城電気鉄道、現仙石線)が開通し、
1930年ー久慈駅 - 八戸駅(現本八戸駅)間(八戸線)が開通。その最中のー1933年、三陸地震を経て、1935年、に気仙沼駅 - 盛駅間(大船渡線)が開通1939年ー釜石駅 - 宮古駅間(山田線)が開通。
「三陸縦貫鉄道構想」は第二次大戦後も継続され、1957年、に気仙沼駅 - 本吉駅間(気仙沼線)が開通。
1962年ー宮古駅 - 久慈駅間と、盛駅 - 釜石駅間が工事線に格上げ、高度経済成長期には、日本国有鉄道(国鉄)線として
1968年ー前谷地駅 - 柳津駅間(柳津線)が開通。
1972年ー宮古駅 - 田老駅間(宮古線)が開通。
1973年ー盛駅 - 吉浜駅間(盛線)が開通し、1975年に普代駅 - 久慈駅間(久慈線)が相次いで開業している。

    

「盛」-陸前赤崎ー綾里ー恋し浜ー雨領ー三陸ー吉浜ー唐丹ー平田ー釜石観音ー「釜石」  11駅

 「恋し浜駅」で2~3分停車する。待合室には、ホタテの貝殻に寄せ書きが。
    

約10年間は黒字を計上し、「三陸鉄道」の成功はその後の第三セクター鉄道の誕生を強く後押しした。
しかし、輸送人員は1992年から減少の一途をたどり、1994年からは赤字経営に転落、岩手県の運営助成基金に手をつけ始めたたと云う。
このままでは運営資金が底をつくことから、2003年には経営改善計画を策定、合理化の徹底とともに観光客の誘致に力を入れていた。
その最中を襲った。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波や崩落は、三陸鉄道に甚大な被害を。
路線各所で駅舎や路盤が流出し、車両も3両が使用不能、しかし、地震発生からわずか5日後の3月16日には
久慈駅 - 陸中野田駅で運行を再開、被害が小さな他の区間についても3月末までに運転再開し、被災者を勇気づけたと云う。
被害が大きなそれ以外の区間についても、岩手県庁の補正予算や国土交通省の第3次補正予算から復旧費用が拠出される目処がついたため、
復旧工事を進め、2014年、に全線が復旧し運転再開に至っている。頑張れ三陸鉄道。

         鉄の歴史・橋野高炉跡へ  仙台から釜石に。
    

次回は、釜石へ。