岩手県遠野市・県中南部・アイヌ語で湖のある丘原、地名もその転訛説、又遠隔地を意味するとも云う。
遠野三山ー早池峰山・六角牛山・石上山に囲まれた北上高地内の盆地になる。中心市街地は、「遠野南部氏」の城下町であった。
釜石街道・遠野街道ー三陸海岸と内陸を結ぶ宿場町として栄えた。古い民俗伝承・歴史的遺産が多い。
1910年・柳田國男「遠野物語」は有名。鹿踊・神楽・剣舞・大黒舞・虎舞等の民俗芸能も多い。
遠野と云えば「馬」の産地ー遠野馬市も有名である。母家と厩を接続した伝統家屋の「南部曲屋」も数多い。
釜石線は、小佐野ー洞泉ー上有佐ー平倉ー「遠野」-10番目の駅になる。-柏木平ー宮守ー土沢ー新幹線新花巻ー東北本線花巻の23駅
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「遠野物語」1982年に公開された映画。監督・村野鐵太郎。
柳田國男の「遠野物語」と、阿伊染徳美の「わがかくし念仏」を原作としているが、柳田の「山の人生」からも材を採り、これらの作品の世界に
時空を超えた愛の物語を絡めた、ほぼオリジナルの脚本。
岩手放送開局30周年記念映画として制作。(昭和57年)
明治37年、岩手県南部、遠野郷ー土地の豪農、佐々木家の一人娘・小夜が十六歳の誕生日を迎え、寺ではオシラサマの祭りが執り行われた。
帰途、玉依御前と契った日月の白馬が吊され殺されたという満開の桜の巨木の下で、小夜はオシラサマの伝説に思いを致す。
その夜、兵役を終えた菊地家の武夫は、佐々木家に挨拶に訪れ、厩舎にいた美しい白馬に魅せられる。
約束通り帰ってきてくれた、と小夜は武夫の無事を喜ぶが、武夫は無言で去っていく。
ほどなくして白馬の世話をする馬小作として佐々木家で働き始めた武夫に、小夜は思いを伝えるが、「もう住む世界が違う」と言われてしまう。
菊地家は、かつては佐々木家と並び称された名家で、武夫と小夜は許嫁の約束をしていたが、武夫の父が事業に失敗し没落、二人の縁談も過去の話となってしまっていた。 日露戦争が激化し、村の青年達も召集されてゆく中、お互いの変わらぬ強い思いを確認し合った武夫と小夜だったが、武夫は全てを振り切るように姿を消す。
やがて、小夜の元に武夫から美しい着物が届けられ、武夫の出征を知った小夜は、オシラサマの前で髪を切り、いつまでも武夫を待つと両親に告げる。
そして嵐の夜、純白の軍服を着た武夫が白馬に乗って小夜を迎えにくる。
白馬は無数の鬼火の中を駆け抜け、二人を明王堂へと運ぶ、、、、。
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「伝承園ーカッパ淵」
かつてカッパが多く住み、人々を驚かしたという伝説がのこる場所。
全国唯一のカッパ狛犬で知られる「常堅寺の裏手を流れる小川の淵」を云う。
淵の水辺にはカッパの神を祀った小さな祠が建っている。
カッパの神は乳の神であり、乳児のある母親が母乳の出がよくなるよう祈願するとよいとされ、祠には、女性が奉納した赤い布による
乳房を模ったぬいぐるみのようなものが置かれていると云う。
釜石線遠野駅前
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南部曲屋の千葉家住宅
作男15人等25名の家族と馬20頭が同じ屋敷で生活していた。
千葉家住宅は、駅から約8.2kmに
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「遠野まつり」
郷土芸能(神楽、太神楽、田植え踊り、南部 ばやし、しし踊り、さんさ踊り)が各地区から集まり盛大に開催。
見ごたえ抜群、祭りは、9月中旬・土日。
市街地・遠野郷八幡宮。
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「とおの物語の館・昔話蔵」-昔話の世界を体感出来るー
昨年の10月から展示改装のため休館していたとおの昔話村が、平成25年4月、「とおの物語の館」としてオープン。
昔話を映像や音声で楽しむことがで、「昔話蔵」や、語り部による昔話を聞くこともできる劇場「遠野座」などのほか、
お食事処と、見て、聞いて、食べの館。
「昔話蔵」- 遠野で語り継がれてきた昔話の世界を見たり触れたりしながら体験・体感できます。シアターや映像ライブラリー、絵本コーナーも
昔話に出てくるアイテムにさわると影が動きだします。 南部鉄器のお椀に手をかざすと「つぶむすこ」のお話がはじまり、主人公や登場人物を選んで、オリジナルの昔話を作ること藻。 柳田國男展示館では、遠野物語の著者・國男氏が滞在した宿「高善旅館」と晩年を過ごした「旧柳田國男隠居所」で、その生涯と功績を紹介。入館¥500円。
遠野の物語の館 柳田国男像
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一級河川北上川水系「来内川」
遠野市の生活貯水池・昭和32年遠野堰堤(遠野ダム)貞任山水源ー遠野市内ー北上川
昭和56・63年・平成2・11年台風などの災害が
来内川ー市内中心に住宅床上浸水が。鍋倉城の堀の役目も?
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武田忠一郎ー東北民謡の父ー
1892年、遠野の士族の家に生まれ、県立遠野中学校(現在の遠野高等学校)に進み、明治43の1910年、岩手師範学校(現在の岩手大学教育学部)を卒業後、釜石高等小学校を振り出しに県下各地で教員生活を送る。
1916年、民謡とわらべ唄の本格的な研究のために東洋音楽学校(現在の東洋音楽大学)で学び、岩手に帰り、大槌女子職業学校をはじめ方々の女学校で教鞭をとるかたわら、東北各地を訪ねて採譜の仕事を続けた。
昭和16の1941年、-NHK仙台中央放送局に嘱託として迎えられ、「民謡採譜編集業務」担当、昭和17年、「東北の民謡第一篇~岩手県の巻」発刊。
昭和37年までに「民謡集全8巻」を完成。
昭和30年、仙台市に我が国初の「東北民謡学校」を開設し、校長に就任。
作曲家としても知られ、母校・遠野中学校の校歌をはじめ、展勝地小唄や松尾鉱山小唄など県内外の民謡を作曲、「外山節」を編曲、昭和30年作曲の
「県南バスの歌」は、岩手県初のコマーシャルソングとして多くの人々に親しまれた。
南部牛追唄など岩手の民謡を合唱曲に編曲したり、民謡にオーケストラの伴奏をつけたりするなど民謡界に新風を吹き込んでいる。
昭和44年、勲五等瑞宝章を受章、1970年、82歳で生涯を終えた。
武田忠一郎の碑
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「南部神社」
主祭神ー南部実長命、南部実継命、南部長継命、南部師行命、南部政長命、南部信光命、南部信政命、南部政光命
創建ー南北朝時
江戸時代までは鍋倉城跡の麓にあったことからー鍋倉神社ーとも呼ばれている。
大例祭ー5月4日
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「鍋倉城」-陸奥国ー遠野市史跡文化財・別称遠野城・横田城
築城主ー阿曽沼広郷 築城年ー天正年間初期 改修者ー南部直義 廃城年ー1872年 。
鍋倉山に本丸を築き、猿ヶ石川と早瀬川を外堀、来内川を内濠、 寛永4年(1627年)八戸直義が横田城を修理して鍋倉城と改め、
最高所を本丸としその南に二の丸、東に三の丸が配した。
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「南部氏初代・南部光行の3男・実長を祖」
実長は甲斐国波木井郷を領して波木井氏を称し、彼の嫡男・実継の系統が陸奥へ移って「八戸氏」に繋がる。
実長の4男、長義の系統は甲斐国に勢力を保った。
南北朝時代ー波木井実継の家はその子・長継の代になって、長継の又いとこ・政行と長継の姉妹との息子・南部師行を養子に迎えた。
師行は南朝方に参加し北畠顕家の陸奥下向に従って甲斐国から八戸に移った。
以後、八戸氏(根城南部氏)は南朝方として活動する。また師行は八戸根城を築いたとされ、1338年、師行は、北畠顕家とともに足利尊氏に敗れ戦死し、実弟・政長が家を継いだ。政長の跡は嫡男・信政の死去のため孫の信光が継ぎ、信光の弟・七戸政光(南部政光)は七戸城を領し、八戸から
甲斐国波木井へ移った。
八戸は三戸南部氏に管理をゆだねたという。
その信光が死去すると、その子らが若年だったため「七戸政光」が根城南部家を一旦継いだ。この時期の活動から、盛岡藩主となる三戸南部家ではなく、根城南部家(八戸氏)こそが南部氏の惣領だったともみられている。
南北朝合一が成ると、南朝方の根城南部家は劣勢となり、足利義満に仕えていた三戸南部氏当主・南部守行の勧めで政光は北朝へ帰順し、
根城南部家は甲斐を去って八戸へ再び下った。これにより根城南部氏は三戸南部氏の影響下に入ることになる。
八戸ー守清の跡は甥の八戸政経(守清実弟・新田清政の子)が継いだ。根城南部家は南部政光が八戸に住んで以来、八戸侯とも呼ばれてはいたが、
この政経以前は南部氏を名乗っていた。
しかし政経以降は八戸氏を称するようになり、政経のあとは八戸信長・八戸治義・八戸義継と直系で続き、義継の跡は弟・八戸勝義が継いだ。
しかし勝義には男子が無く、一族の新田行政の子・政義(政栄)が養子に、政義は、三戸南部信直の小田原参陣の際に留守を守っている。
南部藩では家老を務めた。
養子による継承と遠野移封ー政義の家督は子・八戸直栄が継ぎ、そのあとは直栄弟・八戸直政が婿養子となった。
しかし直政は、越後高田の松平忠輝のもとへ南部藩の使者として赴いた際に急病で死去。
この断絶の危機に対し、直栄の娘で直政未亡人・清心尼が家督を継ぎ、跡継ぎには一族の
新田政広の子「八戸直政」を婿養子に、相続で、当時の八戸領1万5500石のうち、田名部領3000石を藩に返上させられ、さらに八戸など下北地方から
伊達領境の遠野へ移封された。
以後は世襲筆頭家臣となり、中野氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。
1818年、南部藩の家格昇進を祝って北氏、南氏、中野氏、東氏とともに嫡子嫡孫まで南部の称号を許され、南部姓へ戻っている。
直義の跡、嫡男・八戸義長が継ぐ際、義長の弟・八戸義也が2000石で分家している。ただし義也家は次代・八戸竹之助が早世し、北氏から養子・八戸義謀を迎えたが1000石に減封され、没収分は本家の義長のもとへ戻っている。八戸義涛の代に加増され1500石となり続いた。
明治維新後は旧藩士なので士族であったのだが、明治29年、先祖の南部師行が南朝忠臣として正五位を追贈されたのに伴い、
子孫にあたる遠野南部当主南部行義は、明治30年、男爵となっている。
鍋倉城址と鍋倉山公園
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天正18年の1590年、小田原不参によって阿曽沼氏は領主権を没収。
「南部氏配下となり、1592年、「諸城破却令」には「横田 破 信直抱 代官 九戸 左馬助」とあったが、
1600年の阿曽沼一族内訌によって、遠野は南部氏の領するところとなり、破却はまぬがれたと云う。
土塁と鍋倉神社
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阿曽沼氏の旧領の内、横田城代として内陸部を上野・平清水両氏を知行させ、海岸地帯を大槌氏、田瀬を江刺氏に分知させた。
城代の「平清水氏」は、1615年刑死し、ついで、上野氏病死、遠野奉行の「毛馬内三左衛門」を横田城代として赴任。
が、治安の乱れが続いたため、「南部利直」は、1627年、治安維持と仙台領との境目警護を理由に、
「八戸直義」を八戸根城から横田城へ陸奥国代として領内の独自の裁量権を認められて入部させ、
横田城を修復して鍋倉城と改め、当城を領内統治の拠点に
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城下町は、横田村地内に形成され、「遠野城下」と呼ばれたが、
一国一城令以降は城ではなく館の呼称が正式であり、「要害屋敷 閉伊郡横田村 遠野」とされていた。
明治2年、廃城、現在は、鍋倉公園として整備されている。
城址から見た街並み
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江戸時代の建築「伊東家」-市内ー
食事処と物産館、建築物は、寄贈された歴史的に価値の高い建物。
「伊藤家」は、遠野名物のジンギスカンや伝統食と、そばなどが、隣接の「赤羽根蔵」は、お土産として遠野の銘菓や工芸品などを販売。
遠野旧宿場の中央に
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「智恩寺」-日蓮宗・1889年の明治22年開山。
北身延智恩寺。日蓮真筆の曼荼羅を所有しており、遠野市の文化財に指定されている。
山門と仁王像
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「多賀神社」ー祭神・伊邪那岐神 伊邪那美神
鍋倉城跡にある鍋倉公園の北西麓にある。1574年、城の鎮守として勧請したといわれる。
「遠野物語拾遺」遠野の狐や狢、蛇や河童などの、いわゆる妖怪化物の話がある。
遠野の城山の下の多賀神社の狐が、市日などには魚を買って帰る人を騙して、持っている魚をよく取った。
いつも騙される綾織村の某、ある時塩を片手につかんでここを通ると、家に留守をしているはずの婆様が、あまり遅いから迎えに来た。
どれ魚をよこしもせ。 おら持って行くからと手を出した。
その手をぐっと引いてうむを言わず、口に塩をへし込んで帰って来た。
その次にそこを通ると、山の上で狐が塩へしり、塩へしりといったそうである。-「遠野物語拾遺 第百九十三話」より-
柳田國男氏ー社殿の左手には境内社が3つ。鳥居が赤なので、稲荷を祀っているのだろうと思う。「多賀山神大明神」と書かれた木札もあった。
大雨の為石段下から参拝
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「伊能嘉矩」1867ー1925ー日本の人類学者・民俗学者ー
明治時代においていち早く人類学を学び、台湾原住民の研究では膨大な成果を残したと云う。
遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われ、梅陰子という筆名での著作も多数ある。
自由民権運動にも参加し、岩手県に戻り入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受けている。
その後、再び上京、新聞社・出版社勤務を経た後、明治26年、東京帝国大学で坪井正五郎から人類学を学んで、同門の鳥居龍蔵と出会い、明治27年
鳥居と週一回行う人類学講習会を催した。
1895年、日清戦争の結果、日本に割譲された台湾に目を付け、台湾総督府雇員となって台湾全土にわたる人類学調査に取り掛かった。
その調査結果は、「台湾蕃人事情」として台湾総督府民政部文書課から刊行。明治39年、帰国後は、
郷里遠野を中心とした調査・研究、著作に「上閉伊郡志・岩手県史・遠野夜話などがある。
研究を通じて柳田國男と交流、郷里の後輩である佐々木喜善とともに柳田の「遠野物語」成立に影響を与えたと云う。
59歳で病死、死後、柳田は、伊能の残した台湾研究の遺稿の出版に力を注ぎ、それは昭和3年の1928年、「台湾文化志」として刊行された。
伊能嘉矩の碑
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釜石街道城下町「遠野宿」の防御のための道路の出入り口に関門を設置されていた。
関門は、土を盛り升の形に作られたと云う。
下横丁の朝市ー盛岡市にも、朝採り野菜などが出店し人気と聞く。
下同心T升形・下横丁
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「伊勢両宮神社」 市六日町
桜の名所ともなっている。地元では、通称「お神明さん」の名で親しまれている。
遠野三社の一つとして古 来より領主や町人達の信仰が厚かったと云う。
境内地には松尾神社が祀られていた。境内を取り囲むように桜の木が。
伊勢両宮神社
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次回も遠野市内「福泉寺」などへ。