前回の続きです。「権現堂堤」
四季を通して花の色づきを楽しめ、花見の名所で、旧利根川。
案内図の「幸手市」には、権現堂堤に代表される美しい水辺と、緑豊かな自然が、市では、この恵まれた環境を活かし、自然の生態系に配慮し、人と自然が共存できる景観づくりを進めていると云う。
桜で有名な権現堂堤ですが、「桜の季節が終わってからも四季折々に咲く花を」という思いから、あじさい、曼珠沙華(彼岸花)なども植えられ、季節ごとの植物の色づきをお楽しめる。
「幸手市」は、県の東端で、東に江戸川・西に古利根川に挟まれた沖積低地に位置している。幸手と云う地名は、「日本武尊」が東征の時上陸した「薩手が島」が伝説の由来と云う。アイヌ語で「サッツ・乾いた」土地と云う説もある。
江戸時代には、日光道に宿場町として栄えた。利根川の権現堂河岸は、物資の集散地で、特に周辺の農産物は、良質米の産地であった。
1783年、浅間山大噴火で飢饉を救った義人をたたえる「幸手義賑・窮餓の碑」がある。
「日本武尊」-大和朝廷の勇者・伝説上の英雄・景行天皇12代の皇子・尊は、賊を討つた(九州熊襲、出雲建倒す、東北遠征)魂は白鳥に・人々は、「白鳥陵」に葬った。(生没年不詳)
行幸湖 明治・大正には6kmに3000本の桜が
「権現堂」という地名の由来は、江戸時代後期に幕府が編さんした地誌「新編武蔵風土記稿」に記されている。
[ 権現堂村 ]の項にー村内に熊野・若宮・白山の権現を合祀せし旧社あれば、この村名起これリとありー 村の中に、「熊野権現社」、「若宮権現社」、「白山権現社」という三つの神社を一緒にまつった旧い神社があったので、「権現堂村」という名になった。
[ 熊野若宮白山権現合社 ]の項にー村の鎮守なり、正智院持、この社、古大社にて村名の起こりとし云も此権現三社なりとありー 村の鎮守で、昔は大きな神社だった。「権現堂」という村名の起こりも、この「権現三社」である。
このように、村の中に「三つの権現」があったことから、「権現堂村」の名前が付けられたと考えられ、この社の創建は、天正年間の1573~92年、と伝えられている。
また、古文書に見られる最も古い「権現堂村」慶長20・1615年、-「下総国猿島郡幸手内権現堂村御検地帳」・江戸時代初期。
~明治まで、川沿いには、舟問屋が軒を連ねて~江戸日本橋まで木材・食料等が運ばれていた。
清保善士氏が熊野山正智院開山し、清保堂を
行幸湖は、大規模な県営公園として整備され、権現堂大噴水は、120年を迎えた埼玉県を象徴するために、噴水噴き上げ高も120フィート(36.6m)が、
水辺の遊歩道とうるおいの空間で、優しく迎えている。
利根川の暴れ川・幾度となく決壊し、その水が江戸まで流れている。
権現堂堤の中央に、「順礼の碑」や「供養塔」が建っている。
1802年、、長雨が続き堤が切れ、幾度修理しても大雨が降りだすと一夜のうちに切れてしまうという。
ある時、堤奉行の指図で村人達は必死の改修工事をしていましたが、大被害と続く工事の疲れに、口をきく元気さえも失っていました。
その時、夕霞のかかってきた堤の上に母娘の順礼が通りかかったのです。
母順礼が堤の切れ口をのぞきこんで、「こうたびたび切れるのは、竜神のたたりかもしれない。
人身御供を立てなければなるまい。」と言いました。
そこで、堤奉行は「誰が人身御供に立つものはいないか。」と人々を見渡しましたが、誰も顔を見合わせるだけで、進んで私がなるとういう者はありません。
すると重苦しい空気を破り誰ともなく「教えたやつを立てろ。」という声があがりました。
母順礼は、この声を聞くと、「私が人柱になろう」と念仏を唱えて渦巻く泥水の中に身をおどらせたのです。
これを見た娘順礼もあっというまにその後を追いました。
すると不思議にもそこから水がひいて、難工事もみごとに完成することが出来たといいます。
この順礼母娘を供養するため昭和11年に石碑が建てられ、この碑には明治時代の日本画家結城素明による母娘順礼像が刻まれている。(市指定史跡)
この話はよくあり、 幸手特有の話というわけではない。利根川の流れる羽生にもこれと同様の伝説が伝わっている。
隣接する加須にも残っていると云う。
幕府は、治水事業に力を入れ、水路を変えている。堤防の構築を続けた。
「義賑窮餓之碑」は正福寺の境内に。
1783年、浅間山の大噴火によって火山灰が厚く積もり、大飢饉が発生。
翌4年春には飢え死にする人が増え、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けました。
このことが代官「伊奈忠尊」に聞こえ、21人と里正(名主)は陣屋に呼ばれ褒賞を受けました。
この善行を讃え後世に伝えようとー碑を建てたと云う。(県史跡指定)
「八幡神社」
幸手城主、一色宮内大輔の家臣、遠藤石見清吉が、帰農して開発したといわれている。
庚申信仰の対象ともなっていた。平成19年に不審火により焼失し、再建された。
「聖徳寺」
「聖福寺・勅使門」ー日光社参の祈りに将軍が立ち寄ったとされる休憩所の寺。
旧日光街道沿いに今も残る聖福寺は、菩提山ー東皐院と号し、浄土宗知恩院の末寺として応永年間の1394~1428年、開山したと伝えられている。
江戸時代には将軍の日光社参の折りと、東照宮例大祭に天皇の代理で参拝した例幣使の帰路の休憩所に用いられ、山門は唐破風・四脚門で将軍と例幣使以外は通行できなかったと云う。
阿弥陀如来を本尊ー運慶の作と伝えられる観音菩薩像が祀られ、
本堂ー境内には漢学者金子竹香の碑などが建てられている。
「幸宮神社」
市総鎮守ー祭神は、誉田別尊・経津主神・菅原道真公。
創祀は不明であるが、日光街道と御成街道が交差する幸手宿の鎮守。
「平将門」伝説では、幸手の地に存在していたと云う。
本殿は、全面彫刻が施され、また拝殿には江戸時代の絵師宗文の絵馬一対が奉納されている
幸手の町は度重なり洪水に流失。「浅間神社」があるが、この神社、幸手宿一の豪商が建立している。
拝殿 末社・猿田彦大神
「延びる・東武日光線」
伊勢崎線の東武動物公園駅から分岐して東武日光駅に至る路線。
新栃木駅からは宇都宮線が、下今市駅からは鬼怒川線が分岐し、それぞれの路線に直通する列車も多く設定され、特に、鬼怒川線に直通する特急列車が多数設定されている。
新栃木以南では地域内輸送、沿線地域から東京方面への通勤通学路線としての側面が強いが、「観光都市日光」を訪れる足としての役割大。
栗橋駅で、JR東日本の宇都宮線と、栃木駅で両毛線とそれぞれ接続する。
栗橋駅構内でJR宇都宮線と東武日光線の間に渡り線が設けられ、同改正よりJR新宿駅方面と東武日光駅・鬼怒川線鬼怒川温泉駅方面とを直通運転する
特急列車の運行が開始された。
鹿沼市内から東武日光駅までは当線建設以前に開業していたJR日光線と並行し、東北本線(東京駅・新宿駅 - 宇都宮駅)と合わせて東京方面と日光方面を結ぶ競合路線として、両社とも優等列車を増発してその速度と旅客サービスが競われてきたと云う。
現在は特急列車の直通運転によって両社の関係が対立から協調へと変わっている。
新鹿沼駅付近を境とし、その南側は関東平野の中央を縦貫する平坦区間、北側は足尾山地と関東平野の境界部の25‰の勾配が連続する区間で、
最北端の終点ー「東武日光駅」の標高は構内で538mに達する。
明神駅 - 下今市駅間には東武の地上線で唯一のトンネルがあるー全長40m。
東武日光線「幸手」駅
次回は、杉戸たかの台・東武動物園前へ。