「私鉄・東武野田線」
昔は、千葉県営で醤油を運搬していた、寄せ集めの青いボロ車両達で統一され、戦時中から買い出し路線、
JR武蔵野線とは違い、一見ただの田舎の集合体路線であると思えるが、実態は、違って春日部から客を大宮方向に奪う路線なのだ。
この現象は、「柏」あたりでも見られる現象と云う。
意外と乗客は多く、「柏駅」は、東武でもかなり栄えている駅。
東武の前、京成の子会社が客の都合よりも醤油専用列車を優先した関係で柏駅の構造がおかしくなり、大宮~柏間と柏~船橋間で分断されていた。
元々は、千葉県が水運の便を良くするために作られたが、後に沿線の某世界的醤油企業から醤油を運ぶのを主にするようになり、後に、
千葉県の路線を京成電鉄の子会社が引き取って、一方で柏~船橋間と大宮~野田市間を完成させ、全線開通させたのだ。
しかし、戦時中になって、元々から京成系列だった船橋・大宮方面を含め、全線が東武線に。
東武に変わり、新車や伊勢崎線への乗り入れや、最近は、某コンビニエンスストアの傘下に収まり、車両も、店舗の宣伝も兼ねて黄緑と明るい青色の帯
を巻き始めている。今後、期待する鉄道に。
野田市を中心に見ると、県境の利根川を境に茨城県岩井市(菅生沼)、柏市手前から鬼怒川が合流する。反対には、埼玉県庄和町との県境の江戸川が、
その間が、野田市で東武野田線は、野田市駅から江戸川を渡り春日部駅を経由して大宮へ。
「野田持忠・右馬介」ー生没年不詳ー
室町時代・戦国時代の「永享の乱」から「享徳の乱」の時期に活躍した武将。
古河公方・足利成氏の重臣・関東野田氏当主、下総国・古河城主のちに下野国・野田城の城主。野田右馬助とも呼ばれた。
永享から康生年間(1429~1457年)に活躍し、実名中の「持」は鎌倉公方・足利持氏の偏諱と云う。1440年、結城合戦の際に、結城方として
古河城に立て籠った城主・野田右馬助が「野田持忠」と考えられている。
鎌倉大草紙ー永享記、によれば、古河城主・野田右馬助は家臣の矢部大炊助らとともに城に立て籠もるが、翌年、結城城陥落後に上杉清方の来襲を受け
落城。野田右馬助は逃走し、矢部大炊助は戦死したとある。
野田氏は、木戸氏とともに鎌倉府・奉行衆の宿老、「永享の乱」で鎌倉府は一旦断絶したが、新しい鎌倉公方・足利成氏のもとで再興し、持忠もその
家臣として活動を始める。
宝徳3年の1451年、野田持忠は「野田持保」の知行に強入部し、これは成氏派が自力での失地回復を目指した活動の一つで、室町幕府から批判される。
1455年、「享徳の乱」のため成氏が古河城に入り「古河公方」となると、下野国・野田城(足利市)に入り、上杉氏に対抗、「享徳の乱」初期、
上野国の岩松持国を足利成氏に取り次いでいる。以降の動静は不明と云う。
野田の地名・野田右馬助所領地か、低湿地を意味する「ニタ・ムタ」の転訛か
柏・船橋ー川間ー七光台ー「清水公園」-愛宕ー野田市ー春日部・大宮「東武野田線」
東武アーバンバークライン・さくら名所100選 「清水公園」下車。桜並木が続く
清水開運不動尊「慈光山ー金乗院」野田最古の寺院
金乗院は、応永5年の1398年、京都醍醐山の宥秀上人により開山されたという。
現在は、新義真言宗豊山派に属し、昔は、古義・真言宗・総本山の醍醐派に属した修行寺としてこの地方の加持祈祷や教学の中心。
火災で資料なども焼失しいる。
本尊は、薬師如来で秘仏となっている。安政6年(1859年)の「算額」(野田市指定文化財)や徳川家の御朱印状(非公開)が保存。
清水公園は、28万m2の広さを有する自然公園
明治27年、茂木家庭園を街に開放された民営公園
「ポニー牧場」が
ポニー種・サラブレッド・ヤギ・うさぎ等と遊ぶ広場も(乗馬教室)
昭和4年林学の大家ー東大名葉教授ー本多静六博士の設計で拡張された。
園内には、フイールドアスレチックが、冒険・水上・フアミりーの3つのコースがある。興奮いっぱい
マス釣り・キャンプ場・バーべキュ―場も、世界初ー噴水迷路と立体迷路、水しぶきを
花のファンタジア季節の花が700種ー7万m2の総合花園
花ー3~5月は、牡丹・藤・薔薇・カンヒサクラ・ヤエサクラ・しだれ桜・ソメイヨシノ、、、、等。
6~8月は、アジサイ・ハス・百日紅・各ツツジ、、、、、、等。
紅葉11月~銀杏・ナンキンハゼ・モミジ・欅・ドウダンツツジ、、、。
花ー9~11月は、コスモス・ジュウガツザクラ・紅葉、、、等。
12~2月は、サザンカ・蝋梅・梅、、、等。
日本桜100選選定公園で桜・つつじは関東でも有数の名所。
「旧花野井家住宅」一般公開は、していないようであった。
花野井家は江戸時代、代々幕府直轄の小金牧の牧士を任され、名字帯刀を許された家柄。
小金牧は、現代の千葉県北西部に位置した広大な牧で、野馬奉行配下で牧の管理、野馬の捕獲を指揮したのがこの牧士である。
野馬の捕獲は多くの農民を動員し、たいそうな賑わいで、はるばる江戸からも見物客が訪れ、それを目当てに茶店まで出来たと云う。
捕獲した馬の多くは民間に払い下げられた。
花野井家住宅は元々流山市の「前ヶ崎城址」付近にあった家屋を、昭和46年に寄贈・移築したもの。
昭和44年、重要文化財指定ー建築年代は17世紀後半・桁行15.5m、梁間9.1m、平屋・屋根は寄棟造、茅葺。
正面左側に土間、中央に囲炉裏付きの居間、奥には部屋と納屋、右側には玄関、中の間、床の間付き奥の間が配されている。
現在でも茅葺き屋根の保護のため、しばしば囲炉裏の煙で燻している(囲炉裏の煙は防虫・放湿効果)。
東武野田線ー清水公園から野田市駅下車する。
次回は、野田市内~江戸川を下って行きます。
昔は、千葉県営で醤油を運搬していた、寄せ集めの青いボロ車両達で統一され、戦時中から買い出し路線、
JR武蔵野線とは違い、一見ただの田舎の集合体路線であると思えるが、実態は、違って春日部から客を大宮方向に奪う路線なのだ。
この現象は、「柏」あたりでも見られる現象と云う。
意外と乗客は多く、「柏駅」は、東武でもかなり栄えている駅。
東武の前、京成の子会社が客の都合よりも醤油専用列車を優先した関係で柏駅の構造がおかしくなり、大宮~柏間と柏~船橋間で分断されていた。
元々は、千葉県が水運の便を良くするために作られたが、後に沿線の某世界的醤油企業から醤油を運ぶのを主にするようになり、後に、
千葉県の路線を京成電鉄の子会社が引き取って、一方で柏~船橋間と大宮~野田市間を完成させ、全線開通させたのだ。
しかし、戦時中になって、元々から京成系列だった船橋・大宮方面を含め、全線が東武線に。
東武に変わり、新車や伊勢崎線への乗り入れや、最近は、某コンビニエンスストアの傘下に収まり、車両も、店舗の宣伝も兼ねて黄緑と明るい青色の帯
を巻き始めている。今後、期待する鉄道に。
野田市を中心に見ると、県境の利根川を境に茨城県岩井市(菅生沼)、柏市手前から鬼怒川が合流する。反対には、埼玉県庄和町との県境の江戸川が、
その間が、野田市で東武野田線は、野田市駅から江戸川を渡り春日部駅を経由して大宮へ。
「野田持忠・右馬介」ー生没年不詳ー
室町時代・戦国時代の「永享の乱」から「享徳の乱」の時期に活躍した武将。
古河公方・足利成氏の重臣・関東野田氏当主、下総国・古河城主のちに下野国・野田城の城主。野田右馬助とも呼ばれた。
永享から康生年間(1429~1457年)に活躍し、実名中の「持」は鎌倉公方・足利持氏の偏諱と云う。1440年、結城合戦の際に、結城方として
古河城に立て籠った城主・野田右馬助が「野田持忠」と考えられている。
鎌倉大草紙ー永享記、によれば、古河城主・野田右馬助は家臣の矢部大炊助らとともに城に立て籠もるが、翌年、結城城陥落後に上杉清方の来襲を受け
落城。野田右馬助は逃走し、矢部大炊助は戦死したとある。
野田氏は、木戸氏とともに鎌倉府・奉行衆の宿老、「永享の乱」で鎌倉府は一旦断絶したが、新しい鎌倉公方・足利成氏のもとで再興し、持忠もその
家臣として活動を始める。
宝徳3年の1451年、野田持忠は「野田持保」の知行に強入部し、これは成氏派が自力での失地回復を目指した活動の一つで、室町幕府から批判される。
1455年、「享徳の乱」のため成氏が古河城に入り「古河公方」となると、下野国・野田城(足利市)に入り、上杉氏に対抗、「享徳の乱」初期、
上野国の岩松持国を足利成氏に取り次いでいる。以降の動静は不明と云う。
野田の地名・野田右馬助所領地か、低湿地を意味する「ニタ・ムタ」の転訛か
柏・船橋ー川間ー七光台ー「清水公園」-愛宕ー野田市ー春日部・大宮「東武野田線」
東武アーバンバークライン・さくら名所100選 「清水公園」下車。桜並木が続く
清水開運不動尊「慈光山ー金乗院」野田最古の寺院
金乗院は、応永5年の1398年、京都醍醐山の宥秀上人により開山されたという。
現在は、新義真言宗豊山派に属し、昔は、古義・真言宗・総本山の醍醐派に属した修行寺としてこの地方の加持祈祷や教学の中心。
火災で資料なども焼失しいる。
本尊は、薬師如来で秘仏となっている。安政6年(1859年)の「算額」(野田市指定文化財)や徳川家の御朱印状(非公開)が保存。
清水公園は、28万m2の広さを有する自然公園
明治27年、茂木家庭園を街に開放された民営公園
「ポニー牧場」が
ポニー種・サラブレッド・ヤギ・うさぎ等と遊ぶ広場も(乗馬教室)
昭和4年林学の大家ー東大名葉教授ー本多静六博士の設計で拡張された。
園内には、フイールドアスレチックが、冒険・水上・フアミりーの3つのコースがある。興奮いっぱい
マス釣り・キャンプ場・バーべキュ―場も、世界初ー噴水迷路と立体迷路、水しぶきを
花のファンタジア季節の花が700種ー7万m2の総合花園
花ー3~5月は、牡丹・藤・薔薇・カンヒサクラ・ヤエサクラ・しだれ桜・ソメイヨシノ、、、、等。
6~8月は、アジサイ・ハス・百日紅・各ツツジ、、、、、、等。
紅葉11月~銀杏・ナンキンハゼ・モミジ・欅・ドウダンツツジ、、、。
花ー9~11月は、コスモス・ジュウガツザクラ・紅葉、、、等。
12~2月は、サザンカ・蝋梅・梅、、、等。
日本桜100選選定公園で桜・つつじは関東でも有数の名所。
「旧花野井家住宅」一般公開は、していないようであった。
花野井家は江戸時代、代々幕府直轄の小金牧の牧士を任され、名字帯刀を許された家柄。
小金牧は、現代の千葉県北西部に位置した広大な牧で、野馬奉行配下で牧の管理、野馬の捕獲を指揮したのがこの牧士である。
野馬の捕獲は多くの農民を動員し、たいそうな賑わいで、はるばる江戸からも見物客が訪れ、それを目当てに茶店まで出来たと云う。
捕獲した馬の多くは民間に払い下げられた。
花野井家住宅は元々流山市の「前ヶ崎城址」付近にあった家屋を、昭和46年に寄贈・移築したもの。
昭和44年、重要文化財指定ー建築年代は17世紀後半・桁行15.5m、梁間9.1m、平屋・屋根は寄棟造、茅葺。
正面左側に土間、中央に囲炉裏付きの居間、奥には部屋と納屋、右側には玄関、中の間、床の間付き奥の間が配されている。
現在でも茅葺き屋根の保護のため、しばしば囲炉裏の煙で燻している(囲炉裏の煙は防虫・放湿効果)。
東武野田線ー清水公園から野田市駅下車する。
次回は、野田市内~江戸川を下って行きます。