syuの日記・気まま旅

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野田市 醤油の香りー江戸川を下る 8

2016-05-25 | 気まま旅



野田市は、遺構や伝承はある程度残っているものの、記録が少なく、中世の情報はわからないことが多い。
江戸時代に入るとやや記録が増え、大消費地となった江戸に出荷する「醤油産業」が興り、恵まれた水運を利用して、醤油の一大ブランド地として
栄えて、陸上交通としてもー日光東往還ーが通されたため、山崎宿・中里宿などの宿場も興った。
明治22年、 野田町・清水村・上花輪村・・・・・・等、大正まで合併が続く。
・・船形村・尾崎村が合併して川間村が置かれ、木野崎村・三ツ堀村・瀬戸村・二ツ塚村・上三ケ尾村・西三ケ尾村・下三ケ尾村・大青田村の一部
(利根運河の北側)が合併して福田村が置かれ、野田市の年表(明治28年)
梅郷村のうち江戸川右岸(今上の一部)を埼玉県北葛飾郡旭村に編入し、旭村が埼玉県中葛飾郡金杉村大字金杉の飛地を編入し大字金杉を設置。
明治32年、 川間村が茨城県猿島郡中川村の一部(利根川以南)を編入し大字小山・筵内・長谷を設置
大正6年、 高梨家・茂木家など在郷醤油醸造家が合同して設立されていた野田醤油醸造組合が株式会社が。
大正10年、 野田醤油労働争議が勃発し、全国から労働運動家が来訪、大正12年、 福田村事件が起こる。
昭和25年、 野田町・旭村・梅郷村・七福村が合併し、「野田市」となる。

「福田村事件」-1923年(大正12年)9月6日、
千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川で、 香川県三豊郡の薬売り行商人15名が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9名が殺害。
これが「福田村事件」。被害者は全員、香川県の被差別の人たちでした。

「桜木神社」ー桜咲く 桜の宮に 詣づれば 大神の恵みいただき 大願開花 とー
御神徳ー五穀食料の守り神・商業・産業繫栄の守り神・勝機勝運の守り神・生命と男女の祖神・健康長寿・良縁・夫婦円満の守り神。

祭神ー倉稲魂命・武甕槌命・伊弉諾尊・伊弉冉尊。
    

県最古の神社・宗祀ー851年(中国文化から日本文化へ梅から桜へ)
    

                      荘厳な社殿


「キッコーマン」
永禄年間に飯田市郎兵衛が甲斐武田氏に溜醤油を納め、「川中島御用溜醤油」と称したのが最古とされる。
1661年、に上花輪村名主であった梨兵左衛門が醤油醸造を開始し、
翌年の1662年、茂木佐平治が味噌製造を開始した(茂木はその後醤油製造も手がけ、その後、江戸の人口の増加と利根川水運の発達と共に野田の醤油醸造は拡大する。
1800年代中頃には、梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醬油の指定を受け、1887年の明治20年、
「野田醤油醸造組合」が結成。
1917年の大正6年、茂木一族と梨一族の8家合同による「野田醤油株式会社」が設立。
「キッコーマン株式会社」
『亀甲萬』は茂木佐平治家が使っていたものである。
野田の醤油醸造業者のほとんどが合流しているが、キノエネ醤油のように別の道を選んだ醸造者もある。

「醤油醸造家」
梨兵左衛門(初代) 上花輪村名主で醤油醸造家(キッコーマン)、旧邸宅は現・上花輪歴史館として名勝「高梨氏庭園」に指定。
茂木七左衛門 醤油醸造家(キッコーマン)。邸宅群は登録有形文化財(建造物)(非公開)
茂木佐平治 醤油醸造家(キッコーマン)。旧邸宅は国の登録有形文化財(現・野田市民会館)。
六代茂木七郎右衛門 野田醤油初代社長二代茂木啓三郎(飯田勝治) 「新式二号醤油」製造技術を無償公開した。

                 野田市駅から醤油の香りが。


海外への輸出と海外への進出が行われた。敗戦後に途絶えたが、1949年より輸出が再開し、その後に販売会社も海外に再度設立された。
米国においては店頭プロモーションを行い、人気を元に工場も建設。その後、台湾や中国でも事業を展開している。
              製造工場は、現在最盛期の半分に縮小


「醤油の歴史」
醤油は、古代中国に伝わる「醤」であるといわれている。
原料を塩漬けにして保存したことから始まったもので、果実、野菜、海草などを材料にした「草醤」、魚や肉を使った「魚醤)、「肉醤」、
穀物を原料とする「穀醤」などがあり、しょうゆは、その中でも米・小麦・大豆を使用した「穀醤」が原型。
日本に「(ひしお)」として伝わったのがいつ頃なのかは明らかではないが、「大宝律令」によると、宮内庁の大膳職に属する「醤院(ひしおつかさ)」で大豆を原料とする「醤」がつくられていたとされている。
「醤」は、今でいうしょうゆと味噌の中間のようなもので、宮中宴会などで食卓にのぼっていたようである。
その後、信州の禅僧・覚心が、1254年の鎌倉時代、中国から持ち帰った径山寺味噌の製法から、味噌づくりが開始。
紀州・湯浅の村人にその製法を教えているとある。
この醤からしみだす汁がとてもおいしいことに気づき、今でいう「たまりしょうゆ」になったと云われている。

          水運時代は、この江戸川から江戸へ運ばれていた。


江戸時代に入り、江戸の発展に伴い醤油の需要が拡大、「江戸川水運の整備」により、当地の豪農・豪商が相次いで製造に参入し「上方の下り醤油」で
銚子を凌ぎ、現在でも全国生産のの3分の1を占めている。

                   東京湾から38・5km
    

1977年、江戸川に沿ってのバイバス有料道路「野田流山ー延長・7.1km」が、30年で償還完了し、2007年の平成19年無料になった。
5号線松戸ー流山(常磐自動車道)ー野田ー国道16号へ、

    

江戸川と利根川を結ぶ「利根川運河」。
               キッコーマンの貯蔵タンク   
  

                    所々で土砂工事
    

川の向かいは、埼玉県吉川市。
                       富士山も
    

「国土交通省・江戸川河川整備局・事務所ー川の観測・被害情報などを管理している。



江戸川を下ります。