syuの日記・気まま旅

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父の再婚

2016-10-02 | 思い出


母が亡くなって3年、弟も小学校入学と云う時、父は2~3人とお見合いをしていた。
その中で親戚の紹介のO県の女性と再婚、それが我が家の今まで以上に苦労する始まりとなる。

この時代女性が独身を通すことは難しく、義母も病気をしたりして婚期を逃がしていた女性。
先妻の子が4人もいるところへでも、男性が少なく、結婚を望んだ時代でもあった。
父の会社も倒産。姉も結婚適齢期、兄は、アルバイトとT大を目指して忙しい生活をしていた。
再婚して直ぐ赤んぼが出来。義母とは名ばかりで、我々まで、手が回らず、これから義母の差別が始まった。
父は、義母には何も言えず、無関心であった。
父の家庭内暴力は、弟に向けられ、どん底の貧乏生活で、食事も満足にできない日々、栄養失調気味、弟の持病の喘息の発作が。
私の中学進学の手続きもしておらず、担任から「あなたは、中学に行くの?早く役所に書類を出すように」と云われびっくりした。
義母に聞くと書類は、お父さんが持っているとのこと、ぎりぎりで役所に提出。Sは、我慢できるが、弟が不憫でならなかった。
二人の居場所が家の中に無く、自然に外に出るようになっていった。

時代は、メーデー事件  1952年日比谷公園でデモ隊(約5000人以上)と警察隊が大乱闘となり、警察隊は、催涙ガスとピストルを発砲、死者が出た。米軍自動車13台、白バイが焼かれた。共産党員など40名が逮捕・アメリカ軍は、また、朝鮮戦争へ。

夜空を金色に染め、見事な光の花模様がドドーンと夏に夜空一面に打ち上げられると子供でも気分は爽快になった。花火の火薬の匂いが風に乗ってくると子供心に、たまらなった。
隅田の花火は、打ち上げ数でも他の追従を許さなった。
東京の伝統花火で関東一の規模を誇り、歴史も260年続いている。
隅田の花火は、N小学校でも特別の日であり、最も眺めの良い場所を知っている我々は、自慢気に、仕掛け花火が良く見え特別の場所と決めていた。
終戦直後と比べ、時代も良くなって高いビルも多く年々、仕掛け花火は見えにくくなっていた。
菊、牡丹、小割り、水中花火、仕掛け花火、ナイヤガラ、落下傘花火で幕となり、風に乗りその落下傘を追うのである。それを持って翌日クラスの面々に見せ自慢していた。

昭和25・26年頃は、日米安全保障条約を結ぶ。  血のメーデー事件が起こる。  テレビ放送が始まる。

その頃の歌は、「憧れのハワイ航路」灰田勝彦映画にも

         晴れた空 そよぐ風  港出舟の ドラの音たのし

         別れテープを  笑顔で切れば・・・・・。

終戦から世の中は、少しずつ上向いてきていたが、父の会社が倒産、姉も高校を卒業し、家庭裁判所に勤めだした。
母が死んだ後は、家庭の負担がすべて姉に掛り、3人の弟の面倒と、父の面倒、その上台風被害後、不況で会社から持ち帰った
商品を秋葉原電気街に家族総出で売りに行っていた。
兄と姉とSも付いて回ったことがある。一度水につかった物が売れるわけがなかった、無駄足であった。

年末の行事で、指折り数え、欠かさず遊びに出たのが浅草のお酉さまであった。
毎年すごい人出で、また、場所も龍泉寺吉原で、大人達の目的はいろいろであったようだ。
三ノ輪から浅草まで約2kmの夜店が並び、そこで「綿あめ」(甘いものに飢えていた)を買って食べた味は、忘れない。
貧乏で姉が持たしてくれるのは小銭、それだけしかかえなかったが、小学6年に、兄が屋台から初めての皮手袋を買ってくれた。
浅草お酉さまは、鷲神社の市で「熊手で福をかきこむ」で境内は、大小の熊手が賑やかに高くまで陳列、とび職の若い衆の手拍子が境内一杯響いていた。

半纏姿の「とび職人」
江戸に、いろは48組あり、うち16組は、18世紀初めに名町奉行大岡越前守が作ったと云われている。
下町の家の近くにも、特に、とび職人が多くいた。
現在23区を10区に分け82組あると聞く、組頭を先頭に、副組頭、小頭、筒持ち、道具持ちなど。
威勢のいい男達であった、お酉さまは彼達の出番であった。
そんなころのことがよく思い出される。