syuの日記・気まま旅

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新聞配達のアルバイト

2016-10-21 | 思い出

「布教伝道」-ラージギール。
釈迦は、35歳で「正覚」を得~80歳入滅・45年間インド各地を遍歴しながら布教に努めている。

全ての物が不足していた。鉄くずは続けていたが落ちてる量も、だんだん少なくなり、錆びた鉄くずは買わなくなってきた。
何かアルバイトは無いか探し始めた。
クラスのB君が新聞配達はどうか、良ければ自分も始めると云いだし、二人で近くの新聞専売店に飛び込んだ。(当時は、全紙扱う)
配達員は、30人いるという。店長は明日からどうかと、積極的であった。
早速、朝3時に出社し、引き継ぎを2日で覚えるように言われ、大福帳の得意先名簿を渡された。約100軒近くの地域あった。
毎日の早朝の3時は、きつかった。
作業は、3時にトラックが到着し、自分の部数を数え、作業する周りに、Y紙,H紙・・・最後にチラシを置き、大福帳の順番に組んで挟み込む。
現在のように新聞ごとの配達ではなく、スポーツ紙、全紙を家の順番に組むのだ、約一時間で済ませ、身長の半分位の高さを肩から紐でぶら下げて、
自分の担当地域まで歩くのである。眠いのと、重いのと、肩が痛いのと、走るので息切れと、暑いのと、(冬は寒いのと)など、
1年以上続け、友達は半年で辞めている。
配達先に肉屋があり、そこで貰う、前日の残ったコロッケがうまかった。
たまに間違いると、投函した新聞を抜いて歩いたこともある。当然、学校は、遅刻。廊下に立たされたこともあった。

姉は、よく私を連れてデートし、相手の男性は、邪魔だったろーなと思う。
従兄弟の友達にYさんと云う人がいた。家は網元の息子でいい男、時々姉を誘いデートしていた。
Yさんは、大学でラクビー愛好会のメンバーで、その時の写真を貰ったことがある。
はがき大で、大学のジャージで半ズボン、ベルトには、端切れの紐を捲き両手を腰に乗せ、男らしい、素晴らしい写真であった。
ある時、ケンブリッジ大との試合を秩父の宮ラクビー場に見に行った。
試合は、大人と子供の差で一方的にケンブリッチ。野球以外のスポーツ観戦は、初めてで、それからはラクビーが、大好きになった。
Yさん、観戦後、一緒に食事、(洋食)嬉しいお供だった。
Yさんの次が、Tさん。なぜか緊張して姉の後についていった。
銀座で映画を鑑賞し、ラーメンを御馳走になった。
子供心に姉はこの人と結婚するのかなーと感がしていた。姉は、Tさんと結婚、義兄となった。

「幸田露伴」 1867-1947 第一回文化勲章受賞小説家・下谷生まれ
明治維新で家が没落し中学半ばでやめ、電信技師となり北海道へ。1889年「風流仏」で文壇へ、「五重塔」男性的理想主義の特異な作風で次々と
「頼朝」「運命」「芭蕉七部集」・・・。尾崎紅葉と文壇を二分した。

代表作「五重塔」は、現在無いが、谷中墓地の天王寺桜通りにそびえていた。(露伴の旧宅が天王寺と日暮里駅の間にある)

十兵衛と源太という二人の大工を中心とする人間ドラマ.
二人の妻からの視点で描かれて、文語体で書かれているので一見読みにくい。
会話は、ユーモアたっぷりに書かれていている。
十兵衛が主役で源太が脇役と書かれているが、源太の出番は極めて多く単なる脇役とはいえない重要な人物。
十兵衛は、源太からのさまざまな提案をことごとく断ってしまうのだが、実際には資材の調達や職人の手配といった源太の人脈と経験がなければ
十兵衛の偉業は果たされない。

S達は夏になると、近所の子供同士で、度胸ためしで、約800m近い墓地を二人組で「度胸棒」を置いてくる遊びがあった。
その五重塔が昭和32年心中放火焼身自殺で焼失を知り、残念でならない。