syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

昭和26年・中学生になる(Sは、14歳に)

2016-10-19 | 思い出


給食は、小学校まで、又弁当持参に。義母は、お金を渡してくれたが僅か、買えたのが「バタピーコッペパン」であった。
(キャベツとコロッケを挟むパンが食いたかった)


仏陀伽耶ーブッダガヤー成道
釈迦が悟りを開いた地ーブッダガヤ大塔に金剛宝座の仏陀像・菩提樹がそびえる。
「私は善なるものを求め、無上の絶妙なる静寂の境地をもとめて、「セーナ村に入った。
ここは愛する地域である。麗しい森林があり、清浄な川があり、豊かな村落があった。
私は、ここに座を占めた。
修行に適した場所だったからである」(中阿含経)

1952~1954 (昭和27~29年)頃は、こんな歌が流行

、「今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐がすぎりゃ 帰る日も来る春が来る・・・・・」

ヘルシンキ五輪で期待の古橋選手完敗。白井義男世界フライ級でチャンピオンに。

池田大臣が中小企業の自殺者やむ得ない、貧乏人は、麦を食え、発言。

アインシュタイン日本国民へ釈明(原爆投下)。

28年に吉田茂の「馬鹿やろう解散」。など、全国ストライキで政治不安定時代であった。
「君の名は」佐田啓二と岸恵子の映画が上映し大ヒット。

人生の中で、中学の3年間は、真剣に勉強しなければならない大事な時期と思うが、あそびの範囲も広がり、浅草、上野と繁華街に出て遊びほけていた。

兄も受験勉強とアルバイトで、家にいることが少なく、、私が育ったN町は、正岡子規庵があり、又初代林家三平、漫才師等が住んでいた。
肉屋、八百屋、魚や、パン屋、せんべ屋、風呂屋、駄菓子屋と揃い、近所の友達も商人の子が多く、
可なり自由で遊び好きが多かった。
隣町が荒川、日暮里、そこからリヤカを曳いて鉄くずをかいに来るおじさんが居た。
鉄、銅、古紙、布、鉛、等を集めては、そのおじさんを待って、現金して映画館へ。

ブリキ、墓地の壊れた垣根古鉄、電線工事の銅線の端、家の古紙、布などを探し、売っては映画館へ。
片岡千恵蔵、市川歌右衛門、坂東妻三郎、の時代劇が多かった。好きな女優に高峰秀子、高峰三枝子、笠置静子等、当時は3本立で、映画館を出ずに
同じ映画を2度見たことも。

手続きが遅く、ぎりぎりで区立のN中学校に入学できた。そこは、区立のS小学校間借りし、運動場は狭い屋上。
クラスは学年2クラスあった。
中学校生活は(昭和26年)ランドセルから高下駄(旧制高等学校のバンカラ学生が履いた朴歯下駄)と肩から下げた肩掛けカバンと先輩の汚れて磨かれた古い学帽で、多少大人に近づいている気分であった。
高下駄のカラン・カランと音が嬉しかった。
初めてのクラスで、Sと同席したのが、髪の毛をポニーテールにした、かわいい女の子が座った。
その子は、病院の一人娘で裕福な家庭の子であった(弁当の生身を見てわかる)
運動も活発で少々おてんば娘、勉強道具の貸し借りも出来て、ウキウキして学校に。
彼女も私との同席に抵抗がなっかったようだ、彼女のお父さんは、又、校医で、健康診断に年一回学校に来ていた。
ある日、教室の掃除当番の時である、話ばかりしている彼女に注意した。
すると急に泣き出してしまい、ヒステリック気味な女性で、担任に,苛められたと云いい、一方的に職員室によばれ立たされた事が。
それからと云うもの何一つ、貸してもらえず、口も聞いてくれず、残念ながら席替えさせられた。
それでも嫌いになれずに気が合った。
Sの60才の時、クラス会で、彼女といろいろ話が出来た。
Sは、綺麗な彼女を見て、胸が熱くなていた。
それ以降、彼女は、会っていない。
良く聞くと、音大を卒業して、小学校の先生をし、定年、夫は死別し子供は大学生男の子とか、その息子で悩んでいたようであった。

「戦後大人気のラジオドラマ・君の名は」(菊田一夫代表作)
真知子と春樹との恋愛ストーリ。
戦後、はじめて人気番組となった「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほど。
ラジオドラマの人気を受けて松竹で映画化されると、それも、大ヒットを記録、氏家真知子のストールの巻き方が「真知子巻き」と呼ばれて女性の間で流行し、主演の岸惠子が北海道での撮影の合間に、現地のあまりの寒さに神奈川県横浜市中区の馬車道界隈の店で購入して持参していた私物のストールを肩からぐるりと一周させて耳や頭をくるんでいたことによるとされる。
「真知子巻き」が誕生した。真知子と春樹が出会い、再会した数寄屋橋のシーンで・・・・。
会えそうで会えないという事態が何度も繰り返され、恋愛ものの典型にして古典となっていると云う。
Sの中学校3年間は、担任に本気で殴られていた。

池田勇人 1899-1965 広島、政治家、大蔵省主税局長、吉田学校の優等生と云われた。岸信介首相の後、
総理に「所得倍増計画」実行経済大国日本の基盤を作った。

「池田勇人の貧乏人は麦を食え」発言。
吉田内閣で、大蔵・通産大臣時代の1950年の昭和25年。
「中小企業の一部倒産もやむを得ない」・さらに12月、「貧乏人は麦を食え」と発言していずれも問題となる。
占領軍の権威を傘に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴び、1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪されたと云う。
池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して
「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」と勝手に答弁をするなど、一人で内閣を背負っているような気持になっていたとも云う。