日本伝統駄菓子の定番「金平糖」
兵隊さんが携帯保存食、日持ちがする糖分の補給に優れ、戦後糖分に飢えていた子供には最高のお菓子であった。
その他にキャラメル・ドロップが。
昭和23年3月、新橋演舞場で「東をどり」が戦後初めて披露された。進駐した連合軍が続々と東京に入ってきた。
特に銀座はアメリカ兵でにぎわいを示し年頃の日本女性達は、背の高い外国兵士に元気ついた。
進駐軍には、白人兵、黒人兵、二世兵、大男、小男と初めて見る私も興味があった。
この連合軍と4年間も太平洋で戦っていたのだという事が信じられなかった。
進駐軍が上野動物園前の道路の舗装に来た時、彼らの作業のスピードに驚いた、ローラーで地ならししながら,その後に砂利を満載したトラックが続き、その後にコールタール車、ローラー車、でみるみるでこぼこの道路が見事に変身、あの機械化され無駄のない作業の彼らには、日本が負けたわけが解った気がした。
その頃、Sは、母を亡くし落ち込んでいた頃。
ある日、学校の帰り道で化粧の濃い派手な女性が、ハンバーグとチュウインガムをくれた。
無条件でその場で食べて生まれて初めての味にびっくり。その女性は、肌の白い日本美人系であった。
その家は、お手伝いさんと70才位の老人の三人住まいの広い庭付きの一戸建て、老人は風呂屋で数回会って知っていた。
それから数ヵ月後、友達が、この家「パンスケの家だぞ」と云いながら石を庭に投げ込んだ。
また、「夜になると外人が出入している」とも言った。この老人は、女性のお父さんであった。
数日たち、その女性と会い、石を投げ込んだのは友達と弁解し謝ると、一度家に戻り、ちり紙に包んで、「金平糖」を差出し、「正直で偉いわ、、」と褒めてくれた。半年後、その女性は、結核で亡くなり、家は売りに出されていた。
上野動物園前噴水広場の路上で、ひよこを売っているおじさんが居た、このおじさんに店番を頼まれた。そのお礼にと、二羽のひよこを貰った。おじさんがオス、メス一羽づつだから、大事に育てるんだよと云い紙袋に入れてくれた。
嬉しかった、急いで家に持ち帰り、段ボール箱にぼろ布を入れ豆電球で育てた。
だが一羽は一週間で残念ながらメスが死んでしまった。
兄は、二羽ともオスで、メスではなかったよと、素っ気なく言った。
残った一羽を大事に育ってた。貝殻を砕いたり、八百屋に行き大根の葉などを貰い餌にした。
日に日に大きくなって、餌の量も多くなり世話もかかるようになっていった。
古材で小屋まで作ってやり、立派なにわとりに成長し、大声で鳴くようになった。
日中は庭にだし、駆け回り、檻に入れるのに一苦労、近所の人が見に来るほど珍しく自慢していた。
ある日、野良猫が檻を破り襲いかかった。
にわとりも必死で檻の中で逃げ回っていた、私も一生懸命猫を追い出そうとしたが、
いったんかみついていた鶏の喉を離そうとせずそのまま咥えて、我が家の縁の下に潜り込んでしまった。
にわとりはグッタリして、血だらけであった。羽が四方に散り、すさまじい光景であった。猫は私を無視した。
私はただ茫然として見ているだけであったが、咄嗟に家の中に駆け込み、パチンコを取出し猫を目掛けて数発撃った。
その一発が胴体に当たり、声を上げて逃げていった。
頭の無いにわとりを取出し、急いで肉屋で鳥鍋用に調理してもらった。その夜の夕食は家族で鶏肉鍋を食べた。
この日から私は猫嫌いになった。が、45歳の夏に娘が子猫を拾い飼いたいと云いだし、13年間我が家に置いた。
可愛い娘の為耐え抜いたのである。
昭和26年、マッカーサー解任
フィリピンで日本に完敗したダグラス・マッカーサーは、日本に恨みを持ち、復讐心に燃えていた。
後に日本が原爆を落とされて負けて、マッカーサーがやってきたとき、彼はその恨みを晴らすべく、「日本は悪いものだ」と信じきって東京裁判をやらせ、自分たちの意向を反映させた日本国憲法をつくらせて日本を骨抜きにした。
が、朝鮮戦争が起こって事態は一変する。
そのとき彼は初めて東京裁判で弁護側が言ったことがすべて本当だったのだと気づく。
そして満州にも支那に対しても、日本がやったようにやらなければならないという結論に達する。
しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任してアメリカに戻した。
その後、アメリカはマッカーサーが予言したように朝鮮半島で負け始め、なんとか38度線まで押し返したところで戦争は終結する。
そしてアメリカに帰国したマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会という最も公式の場で、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語ったのである。
―戦後50年毎日ムックより―
兵隊さんが携帯保存食、日持ちがする糖分の補給に優れ、戦後糖分に飢えていた子供には最高のお菓子であった。
その他にキャラメル・ドロップが。
昭和23年3月、新橋演舞場で「東をどり」が戦後初めて披露された。進駐した連合軍が続々と東京に入ってきた。
特に銀座はアメリカ兵でにぎわいを示し年頃の日本女性達は、背の高い外国兵士に元気ついた。
進駐軍には、白人兵、黒人兵、二世兵、大男、小男と初めて見る私も興味があった。
この連合軍と4年間も太平洋で戦っていたのだという事が信じられなかった。
進駐軍が上野動物園前の道路の舗装に来た時、彼らの作業のスピードに驚いた、ローラーで地ならししながら,その後に砂利を満載したトラックが続き、その後にコールタール車、ローラー車、でみるみるでこぼこの道路が見事に変身、あの機械化され無駄のない作業の彼らには、日本が負けたわけが解った気がした。
その頃、Sは、母を亡くし落ち込んでいた頃。
ある日、学校の帰り道で化粧の濃い派手な女性が、ハンバーグとチュウインガムをくれた。
無条件でその場で食べて生まれて初めての味にびっくり。その女性は、肌の白い日本美人系であった。
その家は、お手伝いさんと70才位の老人の三人住まいの広い庭付きの一戸建て、老人は風呂屋で数回会って知っていた。
それから数ヵ月後、友達が、この家「パンスケの家だぞ」と云いながら石を庭に投げ込んだ。
また、「夜になると外人が出入している」とも言った。この老人は、女性のお父さんであった。
数日たち、その女性と会い、石を投げ込んだのは友達と弁解し謝ると、一度家に戻り、ちり紙に包んで、「金平糖」を差出し、「正直で偉いわ、、」と褒めてくれた。半年後、その女性は、結核で亡くなり、家は売りに出されていた。
上野動物園前噴水広場の路上で、ひよこを売っているおじさんが居た、このおじさんに店番を頼まれた。そのお礼にと、二羽のひよこを貰った。おじさんがオス、メス一羽づつだから、大事に育てるんだよと云い紙袋に入れてくれた。
嬉しかった、急いで家に持ち帰り、段ボール箱にぼろ布を入れ豆電球で育てた。
だが一羽は一週間で残念ながらメスが死んでしまった。
兄は、二羽ともオスで、メスではなかったよと、素っ気なく言った。
残った一羽を大事に育ってた。貝殻を砕いたり、八百屋に行き大根の葉などを貰い餌にした。
日に日に大きくなって、餌の量も多くなり世話もかかるようになっていった。
古材で小屋まで作ってやり、立派なにわとりに成長し、大声で鳴くようになった。
日中は庭にだし、駆け回り、檻に入れるのに一苦労、近所の人が見に来るほど珍しく自慢していた。
ある日、野良猫が檻を破り襲いかかった。
にわとりも必死で檻の中で逃げ回っていた、私も一生懸命猫を追い出そうとしたが、
いったんかみついていた鶏の喉を離そうとせずそのまま咥えて、我が家の縁の下に潜り込んでしまった。
にわとりはグッタリして、血だらけであった。羽が四方に散り、すさまじい光景であった。猫は私を無視した。
私はただ茫然として見ているだけであったが、咄嗟に家の中に駆け込み、パチンコを取出し猫を目掛けて数発撃った。
その一発が胴体に当たり、声を上げて逃げていった。
頭の無いにわとりを取出し、急いで肉屋で鳥鍋用に調理してもらった。その夜の夕食は家族で鶏肉鍋を食べた。
この日から私は猫嫌いになった。が、45歳の夏に娘が子猫を拾い飼いたいと云いだし、13年間我が家に置いた。
可愛い娘の為耐え抜いたのである。
昭和26年、マッカーサー解任
フィリピンで日本に完敗したダグラス・マッカーサーは、日本に恨みを持ち、復讐心に燃えていた。
後に日本が原爆を落とされて負けて、マッカーサーがやってきたとき、彼はその恨みを晴らすべく、「日本は悪いものだ」と信じきって東京裁判をやらせ、自分たちの意向を反映させた日本国憲法をつくらせて日本を骨抜きにした。
が、朝鮮戦争が起こって事態は一変する。
そのとき彼は初めて東京裁判で弁護側が言ったことがすべて本当だったのだと気づく。
そして満州にも支那に対しても、日本がやったようにやらなければならないという結論に達する。
しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任してアメリカに戻した。
その後、アメリカはマッカーサーが予言したように朝鮮半島で負け始め、なんとか38度線まで押し返したところで戦争は終結する。
そしてアメリカに帰国したマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会という最も公式の場で、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語ったのである。