「藤沢市江の島」市の南部相模湾岸、境川河口にある小島。
境川の運ぶ土砂によって出来た「片瀬海岸との陸繫島で、島の名は、形が「江」の字に似ていることによる。
新第三紀の凝灰岩・砂岩を基盤として関東ローム層のおおわれている。南岸は関東大震災のと隆起した海食台がある。
「真白き富士の嶺・緑の江の島」
鎌倉と結んで湘南の行楽地と日本三大弁天の一つ(琵琶湖の竹生島・安芸の宮島)江戸時代から庶民の参詣者で賑わった。
参道には門前町のお店が続き、明治の10年にはモースが「臨海実験所」・6年後にサムエル・コッキングが植物園を開設している。
昭和26年江ノ電が展望台を・13年後の昭和39年東海岸にヨットハーバー湘南港が完成した。島全体が県指定史跡・名勝になっている。
安藤広重「相州江之島弁天開帳参拝群衆之図」を描いている。
「龍宮わだつみの宮」改心して善行の竜と天女が結ばれたという伝説が。
奥津宮ー岩屋方面南西部に(源頼朝は石鳥居を寄贈している
古い狛犬
「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者
常陸佐竹氏討って関東を固め、木曽義仲・平家・奥州藤原を討ち、後白河院崩ずると「征夷大将軍」になる。
奥津宮石鳥居は頼朝の寄贈
サムエル・コッキング苑 シーキヤンドル展望灯台 (植物園)
「文覚」 1139-1203
摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19才で出家。
京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される。
(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。
文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。
のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、
「江の島弁財天」 など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。
また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する。
頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。
通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、 さらに1205年、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西でした。
奥津宮の石鳥居・頼朝、奥州藤原討ち。
岩屋通り商店街
岩間と海岸
「一遍」 1239-89 時宗の開祖
12歳で浄土教の聖達「証空の弟子」修行ー人々の醜さを見て捨て、念仏札を配って全国を巡り教えを説いた。「南無阿弥陀仏」
人を選ばず。一遍死後弟聖戒が一遍の足跡を辿り絵巻物「一遍聖絵」が出来る。
1282年の弘安5年、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとするが、八代執権北条時宗に阻止されたため、片瀬で布教を行ったとある。
「江の島の御岩屋道通りにある井戸」は、
片瀬で布教活動をしていた一遍が飲料水に窮する島民を助けるために掘り当てたものといわれ、この辺りは、一遍が修行をした旧跡と伝えられている。
江の島大師堂
中津宮赤い朱塗りの社殿ーエスカ―2区で
湘南海岸線が
湘南ヨットハバー港が
辺津宮ー海の女神を、山の中腹ー日本三大弁財天
縁結びのご利益が
弁財天 エコカーで楽々頂上まで
社殿
階段で登るのも
湘南夜景が(ライトアップ)
舞殿
大鳥居
弁財天仲見世通り(丸焼きタコせんべいが人気)
東京から1時間の近さ江の島