syuの日記・気まま旅

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森鴎外の旧宅と蓮に埋まった不忍池

2019-11-10 | 季節だより
「上野」台東区、武蔵野台地突端の上野台とその周辺・低地を「上野」と云う。地名の由来は、忍ケ丘と云われていたが、「藤堂高虎」の屋敷があり、高虎の領地「三重県・伊賀の上野」にちなんだと云う。
江戸城鎮護建立された「寛永寺」の門前町で、江戸有数の盛り場として栄えた。1625年「天海僧正」開祖建立した「東叡山・寛永寺」と徳川将軍の
墓がある。が、上野戦争・戊辰戦争1868年彰義隊の本拠地になったため、ほとんど焼失した。
明治に入り、浅草・飛鳥山・芝・深川と共に東京市の5公園の一つになった。
寛永寺坊跡・東京国立博物館・動物園・音楽美術学校・などの施設が出来た。
第二次世界大戦直後から、闇市だ出来、今の「アメヤ横丁」と庶民の町として繁栄。

「藤堂高虎」 1556-1630 伊勢国初代津藩主・浅井長政、豊臣秀長子「秀俊」に出仕。歴戦の功で「2万石」に、家光の代まで長生きした。

「森鴎外」 1862-1922 軍医・小説家 陸軍省軍医(衛生学の研究)
小説ー舞姫・うたかたの記・西欧文学の翻訳・歴史小説・山椒大夫・雁・高瀬舟・阿部一族・・・。

                      森鴎外の旧宅  


「上野不忍池競馬」が、明治17年、上野不忍池競馬場馬見所(メインスタンド) は、上野動物園西園敷地になっている。
歌川国利 上野不忍池競馬の図 コース上に並べられた玉燈も競馬の装飾として付けられたと云う。
騎手が着る馬主服(勝負服)は馬主ごとに色・ デザインが決められ、騎手の服を見ればその馬が誰の所有かわかる。
馬主服(勝負服) の例. 上野不忍池競馬は、明治17年ー明治25年まで東京上野不忍池で行われていた。

                   馬好きの森鴎外は見たであろう。


明治22年に海軍中尉赤松則良の長女登志子と結婚。「舞姫」や「うたかたの記」などを執筆した。(現在の「水月ホテル鴎外荘」)
しかし、やがて離婚して、明治23年、駒込千駄木町57番地に移転・「夏目漱石旧居跡」がある場所で、鷗外は「千朶山房」と呼んでいる。
明治25年に駒込千駄木町21番地(「観潮楼」)に移って、「即興詩人」「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「阿部一族」「山椒大夫」
「高瀬舟」「渋江抽斎」などの代表作を次々に執筆して発表した。明治40年から「観潮楼歌会」を行い、与謝野鉄幹、与謝野晶子、伊藤左千夫、
佐佐木信綱、上田敏、石川啄木、斎藤茂吉など大勢の文学者が観潮楼を。
大正11年に観潮楼で60歳で亡くなる。



                     右側が森鴎外の居住の跡

「マップ」
      上野動物園東園ー精養軒・東照宮ー弁天堂(谷中七福神・弁天)・不忍に池


「我が国初の・上野公園モノレール」車両老朽化で今月の末で運行休止する。「62年間」



                     上野動物園工事中


    東照宮の鳥居  階段上清水寺(彰義隊の慰霊墓地、西郷隆盛像)・階段下不忍池と弁天堂。


                        精養軒


「五条天神社」
                        鳥居




                    ハスに埋まった不忍池


                     「あきにれ」の木


                        散歩道


                      上野風俗資料館 (有料)


 「岩崎邸」 
岩崎弥太郎 1834-85 三菱財閥の創設者 実業家。






下町散歩終わります。                
                       今の「アメヤ横丁」






「御徒町」区の南西、上野駅の南なる。
ここは、江戸時代の将軍の行列の警備にあたる「御徒士衆」の組屋敷があった地域。