「源頼朝」 1147-99年 武家政治の創始者、義朝の嫡男・母熱田大宮司の娘・鎌倉幕府の初代将軍・「平治の乱」で義朝軍平家に敗れ、義朝殺され頼朝伊豆へ流され、以降20年流人生活、伊東で数年生活する。
平清盛の継母「池禅尼」は、我が子「家盛」と生き写しだったので、清盛に命乞い、頼朝は危なく命を助けられた。
のち、平家を滅ぼした頼朝は、池禅尼の実子「頼盛」を大納言に還任させて恩に報いた。1160年伊豆へ。
伊豆での生活は、京都の「三善康信」の叔母が頼朝の母で京都の情報を送り続けている。
乳乳母達の援助によって困ることはなかったとようで、馬・狩など自由で、特に比企尼の物資の援助は、頼朝を助けたと云う。
尼の娘婿の「安藤盛長・比企能員・河越重頼・伊東祐清・・」支援者としていたと考えられる。
平家寄りの中世の豪族「伊東氏」は、平家。「源頼朝」が伊豆に流され、伊東氏と宇佐美氏など頼朝の有力御家人になっている。
音無街に鎮座する「音無神社」があるが、この神社、「源頼朝」と伊東祐親の娘「八重姫」の密会が伝わる神社で知られている。
毎年11月に「尻摘祭」(暗中無言で盃を回し合図に尻をつねる祭)が行われている。
伊東駅前
伊東公園
JR伊東駅の裏に位置し、駅から北西へ150m・徒歩10分。戦前には李王家の別荘があった小高い丘のある公園。
2月の初旬から寒桜が咲き始め、春には3,000株の鮮やかなピンク色の芝桜が、 遊歩道を頂上までいくと、伊東市街を一望に見わたせる場所。
郷士の生んだ偉大な文学者・医師「木下杢太郎」の文学碑が建っている。1956年10月・杢太郎碑建設委員会の手によって建立さた。
谷口吉郎工学博士の設計による五双と三双の二つの屏風型をした風格ある石碑には、杢太郎の「むかしの仲間」(すかんぽ)の詩が刻まれている。
杢太郎の言葉「科学も芸術も、その結果は、世界的なものであり、人道的なものである」賛文を添えている。
伊東公園入口の神社の鳥居が
萬霊魂祭塔
松月院山門
松月院ー(萬吉山宝持寺松月院)
東京都板橋区赤塚にある曹洞宗の寺院、山号は萬吉山・萬吉山宝持寺松月院。
寺院は、房総に勢力を持っていた武将・千葉自胤が1456年、千葉県市川から赤塚城に移り、その後1492年に当地にあった古寺「宝持寺」菩提寺として定め、土地を寄進し「松月院」と名を改めさせたのが始まりであるといわれる古寺。
江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展した。
幕末ー砲術家として名高い「高島秋帆」が、
1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいると云う)で西洋式の砲術訓練を行った際に
本陣がこの松月院に置かれたと云う。
訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたものであった。またこの松月院の名を有名に。
本殿
音無街に鎮座する「音無神社」がある。
ここは、「源頼朝」と伊東祐親の娘「八重姫」の密会が伝わる神社・毎年11月に「尻摘祭」(暗中無言で盃を回し合図に尻をつねる祭)
「木下杢太郎」 明治時代の医学者で文学者・記念館が近くである。伊東公園に碑が建つ。
「北原白秋」の伊東音頭の碑・「尾崎士郎」文学碑(戦時中疎開)・「与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・高村光太郎・高浜虚子」の碑がある。
これは、木下の「明星」の仲間と云う。