syuの日記・気まま旅

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佐久間艇長・坂元少佐(赤城の奮戦)

2020-08-18 | syu散歩
砲艦 赤城


「佐久間艇長」
1901年、海軍兵学校(29期)卒業。 後に内閣総理大臣を務めた米内光政は、兵学校時代の同期生。
1903年に海軍少尉となり、同日中に巡洋艦「吾妻」に乗り組んで日露戦争を迎え、日本海海戦時には巡洋艦「笠置」に乗り組んでいた。
日露戦争後は水雷術練習所の学生として採用され、水雷母艦「韓崎」に乗り組んで勤務、さらに第1潜水艇隊艇長、第4号潜水艇長、第1艦隊参謀、「春風」駆逐艦長、巡洋艦「対馬」分隊長をそれぞれ歴任して経験を積み、1906年に川崎造船所で建造された日本が初めて持った第六潜水艇隊で森電三艇長の下で副長を命ぜられ、1908年には第六潜水艇隊艇長に昇格した。
1910年、第六潜水艇は山口県新湊沖で半潜航訓練中沈没して佐久間以下14名の乗組員全員が殉職した。
その年4月17日に第六潜水艇が引き揚げられ、艇内から佐久間の遺書が発見された。その遺書の内容は、発表されるや大きな反響を呼び、同日中に殉職した乗組員14名全員の海軍公葬が海軍基地で執り行われた。佐久間の葬儀が郷里の前川神社で村葬として執行されたと云う。
「第六潜水艇沈没と遺書」
「後に水交社から写真版で出版された佐久間艇長の遺書
第六潜水艇が訓練中に事故を起こし、乗組員14名全員が殉職した。調査委員会では、佐久間大尉の安全性を軽視した日頃の行動と、煙突の長さ以上の深度への潜航を命じたこと(本当にそのような命令があったのか、正しい命令が誤解、誤記されたのかについては議論があるが)が原因と結論されている。
殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も潜水艇の修繕に全力を尽くしていた。
佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いた
                           謹ンデ陛下ニ白ス
                           我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
                           我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ
「佐久間艇長」 作詞者不詳
1)はなわちりても 香を残し 人は死しても 名を残す 天晴れ佐久間 艇長は 日本男児の 好亀艦
2)時は4月の 15日 艦長部員を 引率し 呉沖遠く 乗り出す 船は第六 潜水艇
3)沈みしままに 浮かばずと 悲報天下に つたわりて 眉をひそめる 同胞の 驚き憂い いくばくぞ
4)間もなく所在を 探りえて 引き上げ鉄扉を 打ち破り 見ればいたまし あな悲し 呼べど答えぬ 14人
5)司令塔上 厳然と 指揮せる儘の艦長は 従容自若 死につきし 最後の雄々しさ いさましさ


「坂元八郎太」 1854-1894 海軍軍人 海軍兵学校5期卒業
明治22年イギリス出張・明治24年ロシア帝国公使館武官、航海術学ぶ・明治27年赤城艦長就任している。
日清戦争・黄海海戦に参戦、赤城と共に戦死。

「坂元少佐」 佐佐木信網  赤城の奮戦
1)煙る浪かはた雲か 遙かに見ゆるうす煙 海原遠くながむれば 嬉やまさに敵の艦
2)あふるる勇気おさえつつ 待つに待ちたる敵の艦 砕きてうちて黄海の もずくとなさん時の間に
3)とどろく砲の音すごく さかまく浪の音荒く 海洋島の沖つ辺に はげしき戦い起りたり
4)艦の中にも赤城艦 艦は小さくかよわきも 鉄よりかたき心もて 士卒は艦を進むなり