syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

「戦友」 ここは御国を何百里 はなれて遠き・・・

2020-08-31 | syu散歩

軍歌「戦友」は、1905年の明治38年に。全14番の詞から成り立っており、舞台は日露戦争時の戦闘である。
関西の児童たちの家庭から女学生の間で流行。やがて演歌師によって全国に普及した。歌詞中の「軍律厳しき中なれど」が実際に軍法違反で、「硝煙渦巻く中なれど」と改められたことがあったと云う。
昭和の初期、京都市東山区の良正院の寺門の前に、「肉弾」の作者桜井忠温大佐が「ここは御国を何百里・・・」との一節を記した石碑が建てられた。
日華事変が起きた際に、哀愁に満ちた歌詞、郷愁をさそうメロディーなどから「この軍歌は厭戦的である」として人々が歌うことが禁じられ、陸軍も将兵がこの歌を歌う事を禁止。軍部に便乗した人々から「この石碑を取り払うべし」との意見が出て物議を醸したと云う。
これは沙汰止みとなり、石碑自体は健在である。
太平洋戦争中「戦友」は禁歌だったが、下士官・古参兵は「今回で戦友を歌うのをやめる、最後の別れに唱和を行う。」と度々行い、士官・上官によって黙認された場合もあり、兵隊ソングとして認知されていた。戦後連合国軍最高司令官総司令部は一切の軍歌を禁止していたが、一兵卒の悲劇を歌うこの歌は国民から愛され続け今に
1)ここは御国を何百里 はなれて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
2)思えば悲し昨日まで まっ先駆けて突進し 敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか
3)ああ戦いの最中に となりに居ったこの友の にわかにはたとと倒れしを われは思わず駈け寄って
4)軍律厳しい中なれど これが見捨てて置かりょうか 「しっかりせよ」と抱き起し 仮包帯も 弾丸のなか
5)折からおこる突貫に 友はようよう顔上げて 「御国のためだかまわずに遅れてくれな」と目に涙

「元寇」 永井建子
1)四百余州をこぞる 十万余騎の敵 国難ここにみる 弘安四年夏の頃 のんぞ怖れんわれに 鎌倉男児あり 正義武断の名 一喝して世に示す
2)・・・・・日本刀を試しみん                            3)・・・・大和魂いさぎよく

大正天皇 1879-1926 123代天皇 嘉仁 明治天皇の第三皇子 陸軍少尉任官
1921年
病重く政務は皇太子裕仁「昭和天皇」が摂政に、大正時代は大正デモクラシーと普通選挙へと歩んだ

文学では、芥川竜之介 1892-1927・石川啄木・川端康成・小泉八雲・島崎藤村など多数の小説家が。

JR山手線ー神田ー上野間高架線開通、環状運転に
山手線の歴史は、日本鉄道が当時上野を起点として青森まで至る路線(後の東北本線)を建設中で、その資材運搬用のために1885・明治18年に品川~赤羽間の山の手に敷設して、東海道本線を接続させた(日本鉄道品川線)路線が始まり。
元々は建設資材を運搬するための貨物線であった。
都区西部の「山の手」に敷設した理由は、当時東京周辺はすでに人口過密地帯であったため、用地買収が困難であったためと、蒸気機関車がはき出す噴煙を避けるために、人口が少ないこの地域を選んだことによると云う。
山手線が旅客線として急成長をするきっかけとなったのは、多路線との接続と沿線の人口増加でした。
都電の山手線の接続が始まり山手線の利用者は年々増加していった。また、開業当初は田舎だった東京都区部の東部は、年々発展し、利用者も増加していった。
これに合わせて、路線は拡大していき、池袋から同社東北線の田端に接続する支線が、1903(明治36)年に開業。この時分岐点駅として池袋駅が誕生し、この池袋~田端間の路線は日本鉄道品川線豊島支線と呼ばれた。
1906(明治39)年には日本鉄道は買収され国有化される。
1909(明治42)年にそれまでの品川線と豊島線をまとめて山手線と改称した。