syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

河口湖 灯籠流し

2012-08-22 | 富士山麓日記
お盆の8/16河口湖大石公園で河口湖灯籠流しの行事があると云うので行ってみた。
車と人混みで大混雑の中、人々は夕暮れを待っている。

日没前の河口湖と富士山


灯籠流しは「真如苑」が法要を行っている。
河口湖「真如苑」は、1935年、伊藤真乗が、鎌倉時代の仏師・運慶が刻んだと言われる仏像・大日大聖不動明王と出会い、航空エンジニアであった真乗は、
この不動明王をお迎えすることを契機に、妻・友司とともに、仏道に入る。
1936年、真言宗醍醐派総本山・醍醐寺にて得度。
1939年、在家の修行である恵印灌頂を修めたのにつづき、
1943年に出家の修行の仕上げ、金胎両部の伝法灌頂を修め、出家・在家の行を継承した。

真如苑入口                       苑内                        苑の灯籠
    

開祖・伊藤真乗は、宗教法人法改正を機に、大般涅槃経を所依とした真如苑を宗教法人として設立。
瞑想行のひとつである「接心修行」も確立し、仏教の指導者である教師を育成し、国内外の各地に修行の拠点を設けた。

1967年、バチカンにてカトリックの教皇・パウロ6世と開祖が「仏の教えも、神の教えも求め、人類の平和と幸福」、タイの上座部寺院・ワットパクナムなど、
諸宗教・諸宗派との交流を重ねてきた。
1989年、開祖・伊藤真乗の遷化の後、苑主となった伊藤真聰がその願いを継承し、以後、さまざまな法要をヨーロッパ、アメリカ、アジアにて行い、
諸宗教・諸宗派との交流を広げるとともに、財団やボランティア団体を設立して、社会的支援の輪を広げている。

苑から富士山                                本堂
  

 
「大石公園の花街道」は、富士山の景勝地の公園で、全長350メートルの花道が楽しめる。4月下旬~5月上旬は、芝桜のピンクの絨毯が鮮やかに広がり、
菜の花なども咲いているので富士山をバックに色とりどりの花々が楽しめる。また6月下旬~7月上旬はラベンダーが見頃に、四季折々の花を楽しめる魅力ある公園。

花壇                                 花街道
  

灯籠流しの会場は、大石公園。花のナイアガラは、高さ3m、全長100mのベコニアの花の滝。花街道は、ジニアやベコニア等の花道で、花小富士は高さ3mの
お花の富士山と、多種のハーブが見られる。

                            始まりを待つ人々
  

                           舟に乗る僧侶と関係者
  


河口湖灯籠流しは、河口湖町大石地区に寺院「仏教教団真如苑」が、昭和56年に河口湖で灯籠流しを開催したところにはじまる。
毎年8月のお盆の時期には1000艘を超える灯籠が湖面に浮かべられ、地元では河口湖の夏を彩る恒例行事として知られていた。
この灯籠流し、地元諸団体と真如苑の協力のもと、「河口湖灯籠流し」として河口湖灯籠流し実行委員会が主催するようになったのは、
平成19年。
より多くの人々にこの伝統行事に参加していただき、祖先や亡き人を敬う美しい心が大切に受け継がれていくようにと願ってのこと。


  

流し始めた灯籠、夏休みのこと親子連れが多い うまく撮影できなかった
  

風がなく流れない灯籠に苦労
   


  
夜空に明りがともり、湖上には読経が流れ神秘的。先祖の供養と、世界の平和を祈り帰途につく。


芭蕉と田原の滝

2012-08-19 | 富士山麓日記
以前にも取り上げたので簡単にします。富士急行線に沿って都留方面139号線を進むと、国道の橋の上から見える大きな滝


桂川が階段状に流れる滝は、谷村(都留市)に滞在した芭蕉の折り紙付きの美しさ。
芭蕉が詠んだといわれる「勢ひあり氷消えては瀧津魚」の句が刻まれた石碑が建っている。










江戸時代、上州総社から谷村城主として転封した秋元氏は、家臣の高山、林、萩谷らを奉行とした、田原の滝の上から谷村に至る延長約14㎞の
谷村大堰を築いた。現在の家中川、寺川、中川。

大堰は後に延長され禾生用水となり、さらに五ヶ堰として大月市猿橋まで潤して、郡内における最大の穀倉地帯を生みました。





明見湖の蓮 満開です。(8/15撮影)





高速下の、お江戸日本橋

2012-08-17 | syu散歩

              お江戸日本橋七つ立ち 初のぼり
                     行列そろえて あれわいさのさ 
                       コチャ 高輪夜明けて 提灯消す コチャエ コチャエ

暫らく夏休みをしていましたが、皆さま、今年の暑い夏いかがお過ごしですか。今日は日本橋方面へsyu散歩です。

JR神田駅を中央通り寄りに出ると、鍛冶町、本石町、室町、本町、三越デパート(越後屋)、三井ビル、美術館、日本銀行(金座)、
日本橋川と日本橋、上を見ると、残念であるが首都高速道路が、誰が、歴史ある大事な日本橋にコンクリートで固めたのか。
橋の麓に魚河岸跡地の碑があった。橋を渡ると高札所、日本橋の隣の橋は江戸橋と石橋である。

日本橋は、「五街道」の基点で、昔橋から、江戸城、富士山が見渡せと云う。浮世絵には橋と富士山が描かれている。
その当時は、三井越後屋などの大店と活な魚市場(常に喧嘩しているような元気な所)、大名行列、旅人などが往来の橋、「日本橋」。
1603年徳川家康公が、37間4尺(約68m)という長い橋をかけ「日本橋」といった。





神田方面から橋を渡ると、橋詰、高札場、江戸では、ここ日本橋と常盤橋、浅草橋、筋違橋、高輪の大木戸、半蔵門が大高札場の6ヶ所
その他35ヶ所の札場があったという。

「五街道」は、 江戸時代、 東海道 、中山道 、甲州道、日光道中、奥州道中は、幕府の道中奉行が管理し、良く整備された街道であった。
現在でも、往時の面影が各所に残っている。






伊勢松坂出身の三井高利が京都の呉服を仕入し、ここで販売したのが始まりである。麹町の岩城升屋、旅籠町の下村大丸、尾張町亀屋、
島田の恵比寿屋などの大店は、呉服屋である。


  


室町から本町は薬屋、式亭三馬の店「仙方延寿丹・江戸の水」は、自作の中で宣伝している。水は苦労されていたようである。
井戸水は、塩つ気が多く、神田上水だけでは間に合わず、家康は、玉川上水を多摩川から引き込んでいる。

双十郎河岸


高札は、幕府などの法令、禁令の触書きを木の札に書き記したところである。
江戸は、意気と威勢のある町と云われたのは、魚河岸を指して言っていた様である。大声で競りを見ていると喧嘩をしているようであった
その、北の橋詰にあった河岸では一日3000両が動いたという。川柳に「なんのその日に千両は、朝の内」と謳われている。
河岸の起りは江戸城に納めた残りを売っていた。




魚河岸4組問屋、日本橋魚問屋が中心であるが、本小田原、本船町、横町、安針町組の4組をさしていた様である。

「白木屋の火災」
白木屋と云えば、1662年小間物店として創業、江戸三大大店と称されるまで成長。(三越、大丸、白木屋)。昭和6年治下2階地上8階の
立派な高層建築物を完成させた。その一年後、昭和7年12月4階の「おもちゃ売り場」から豆電球の故障で、その火花がモールを燃やし
大火災となっていった、煙で客、従業員は屋上に避難、しかし、その当時屋上に2頭のライオンが飼われて、檻の中で暴れ出した。
二つの恐怖で・・・・・。

日本橋高速道路の下
  


物流は、全国から船で入ってきており、いろいろな船が日本橋川に集中し往来していたと思うと、見ているだけでも楽しくなる。
日本橋から今川橋を日本橋通りといっているが、いろいろの絵巻を見ても、左右に大店、中店が、暖簾に家門を入れ整然と並んでいる、
そこには必ず富士山が描かれている。

高速下の日本橋川


12mの絵巻では、日比谷入江で、近くは海であったのが判る。神田方面は、神田山で埋め立て用の土の切り崩していた様である、
家康公は、神田山、上野の山方面を鬼門して大土木工事と再開発をしている。(御茶ノ水駅の神田川を外堀としている)

三越本店正面ライオン像            三越本店1階吹き抜けにある像
  

大店は、呉服屋が多いが、魚屋、八百屋、草履、ちり紙、雑貨屋などと蕎麦屋、物売りなどさまざまであった。
今は日本橋の首都高速が邪魔であった。

三越前中央通
   

国府のあった能登・七色の七尾

2012-08-10 | 気まま旅
富山県から石川県七尾に入った。本州の日本海のほぼ中央。富山、石川、福井で北陸三県を構成している。
県名は、廃藩置県後一時的に県庁が置かれ加賀国石川郡美川町の群名を取ったという。
能登と加賀の旧国名は、現在でも二分した地域として広く親しまれている、七尾は、県北部七尾南湾に面する市で、七尾城山の連なる七つの
尾根に由来する。
718年能登国が誕生し、741年越中国に併合されたが、757年戻っている。室町時代には、能登護「畠山」氏の居城があり畠山文化が栄えた。
1582年前田利家公が港に近い小丸山に城を移して、七尾市街地の基礎が出来上がったという、藩政時代には、北前船の寄港地、海坊の中心として栄え、
七尾軍艦所が置かれている。

現在も、能登半島最大の商圏地で、造船、製材、コンクリート、等の工業郡があり、七尾港のカキ養殖は知られている。
湾には小島、青島、机島、松島、など能登島一帯は、国定公園に属している。

朝の静かな七尾湾      大漁の漁船帰り船
  

「石動山」は、紀元前の崇神天皇とも717年とも言われ、延喜式に伊須流岐比古神社として登場する歴史ある山で、加賀、能登、越中の山岳信仰の
拠点霊場として 栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の御撫物の祈祷をした勅願所であった。太平記や太閤記にも記されている。
南北朝時代には宮方の越中国司中院定清をかくまったため、足利尊氏の命を受けた同国守護普門俊清に焼き討ちされてている。
越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠った為、前田利家、佐久間盛政、長連龍らの織田軍に焼き討ちされ、
再び全山焼亡した。このときの焼き討ちは、主君織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちに似ているともいわれ、数百人の法印のみならず児童子まで撫で斬りにしたとか
、千六十の首を山門の左右に掛け並べたなど、凄惨な弾圧がなされたとある。


国道から石動山へ             
    

難攻不落の「七尾城跡」は、山の380mにある山城跡、1406年畠山満則が能登国の守護職に任ぜられた事により始まり、9代義春で約170年続いた。
数代にわたって拡張され、急斜面の地形の城も1577年、上杉謙信の侵攻で落城している。
後に、前田利家が石垣、土塁などの整備し七尾の海、町など眺望がすばらしい。


国府のあった七尾                             800年以上さかのぼって
    


七尾城を追放された、畠山義綱・徳祐父子は越後の上杉氏を頼り、度々能登に侵入するが、七尾方の反撃にあい、ついに能登入国は果たせなかった。
1574年になると19歳に達していた義慶は、遊佐続光や温井景隆ら重臣たちに毒殺されてしまう。
義慶の後は弟義隆が継ぐが。義隆はわずか2年で、これも重臣連に暗殺されてしまう。(義慶と義隆は同一人説もある)
越中は1573年にそれまで越中の一向一揆衆が頼みとしていた武田信玄が没したことにより、上杉謙信が一気に攻勢に出て平定してしまっていた。
一方越前の朝倉氏は織田信長に滅ぼされ、信長軍は柴田勝家を大将にして加賀南部まで進出してきていた。
加賀の地では謙信、信長の両雄に加えて一向一揆が絡み、複雑な様相を呈していた。
1575年になると謙信は、加賀進軍の前に後方の安定を図るために能登を平定する作戦に出た。七尾城に対して開城して謙信旗下に加わるよう使者を派遣して説いた。
事実上の降伏勧告である。七尾城の重臣たちはこれを拒絶、上杉謙信は七尾城を囲んだ。


ぽつんと一人の古城                七尾の街               熊が出ないかと不安
    


畠山義続の子義春は、上杉家に人質に出されており、その後謙信の養子となり、上杉一門の上条氏を継ぎ上条政繁と名乗っていたが、のちに上杉家を去り、
秀吉次いで家康に仕えた。
義春の子景広は関ヶ原後再び上杉家に仕え、畠山に復姓し上杉家中で最上席を有した。
土塁                           石垣
   

「山の寺院群」は、七尾市にある寺院の総称で、1581年、前田利家が奥能登地域からの七尾城の防御を目的に、浄土真宗を除く各宗派の寺院を防御陣地
として移転配置した。設置当初は29の寺院が存在したが、現存する寺院は16寺、寺院間を結ぶ山道は「瞑想の道」と呼ばれ、観光・散策コースとなっている。
毎年秋に「山の寺まつり」が開催される。

北陸の特徴は、お寺を城の守城の一部に              この一画、寺、寺である                     
    

能登の国府があった七尾の町・寺院群を歩くと、古きを感じる。

森に囲まれた参道、山道
    


前田利家が能登の領主になった約400年前、 それまで拠点であった七尾城から小丸山城に移し、その際に、 能登地域からの攻撃を防ぐため、桜川を
内堀として29ヶ寺を 防御陣地としたところから山の寺寺院群の歴史が始まった。

 
古寺が多いが                           ジーンズ姿の住職が説法する寺も
    

一寺に時間をかけていると回りきれない
  

「能登島」は、市の七尾湾を塞ぐ形で浮かぶ島。面積46.78km²。周囲長71.9km。一島で一町(能登島町)だったが、2004年合併により七尾市の一部になった。
能登半島国定公園に含まれる。
島によって隔てられた島の三方の海を、それぞれ七尾北湾、七尾西湾、七尾南湾とよび、大口瀬戸によって穴水町と、三ヶ口瀬戸、屏風瀬戸及び小口瀬戸
によって七尾市の半島本土側と対する。能登島大橋が屏風瀬戸に、中能登農道橋が三ヶ口瀬戸に架かる。また、小口瀬戸の対岸には観音崎がある。

能登島の中央に、「須曽蝦夷穴古墳」がある、一風変わった古墳として有名で、一辺20m弱の四角い墳丘には2基一対の石積み墓室(横穴式石室)があり、
板石を巧みに積み上げてドーム型の墓室をつくる技法は、朝鮮半島の古墳にも通じるとされ、全国的にも珍しいもの、古墳が造られたのは7世紀中頃、
東アジア社会の激動期であった。出土品や発掘中の写真、島内の遺跡出土品なども展示してある。

初めての能登島に
  

遺物は、 土師器+須恵器+銀象嵌円頭大刀+ほぞ穴鉄斧+刀子。銀象嵌円頭大刀装具+ほぞ孔鉄斧+須恵器など。
島内でも、ここは、湾内、内浦が一望出来る。島内には、道の駅、ガラス工房、水族館、ゴルフ場などがある。


島か見る湾と和倉温泉街
    

「先崎神社」能登島須曽町に鎮座、神社は、七尾湾に浮ぶ能登島・南側に鎮座しており、七尾湾を見下ろす景色の良い神社で、遠くに能登半島と島を
結んでいる能登島大橋が見る。祭神は、天太玉命、創立の年代不詳であるが、往古より産土神として篤く崇敬されてきたと思われる。

能登島の鎮守                     先崎神社                    拝殿
  


「能登島大橋」は、市の石崎町と能登島町須曽を結ぶ全長1,050mの大橋、1982年に開通した。
橋のデザインには、能登半島国定公園の恵まれた自然景観との調和し、七尾湾のおだやかな風景にとけこんだ優美な曲線が印象的であった。

公園から見た能登島大橋                        向かいが能登島
  


「能登半島国定公園」は、石川県・富山県を跨ぐ、能登半島の海岸を主体に指定されている国定公園。
日本海側の“外浦”と富山湾側の“内浦”で対称的な景観が見られる。指定面積は9,672ha。1968年に指定された。

七尾湾                                  港の住宅街
  



次回は、石川県輪島方面へ。