syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

高岡古城公園と国宝瑞龍寺

2012-08-08 | 気まま旅

富山市から高岡市に入る。市は、県北西部に位置し、富山湾に臨む、海と山の街、加賀藩二代目藩主「前田利長」が高岡城築城した。
利長は、詩経の鳳凰鳴矣千波高岡から二文字を取ったという。城下町として栄え、いろいろの職人を集めている。
三代藩主前田利常は、高岡の衰退を防ぐため、転出を禁止し、商業を保護政策をしている。
庄川・小矢部川の水運にも支えられ商業都市として発展して来ている。
高岡の5月「御車山祭」は、民俗文化財指定になっている。利長が城下に御所車を与えたと云われている。8月に夏祭り「七夕祭り」も知られている。
 
「高岡古城公園」は、1609年、加賀藩2代藩主前田利長が開いた高岡城は、大阪夏の陣の後廃城となる。
美しい水濠や土塁は残されて、約21万㎡の広大な城跡公園となり、四季それぞれに鮮やかな自然美を見せてくれる。
公園内には、工芸都市高岡ならではの"芸術の森"や博物館、自然資料館、動物園、市民会館、図書館、市民体育館、射水神社などがあり、豊かな自然とともに、
心なごむ憩いの場として人々に愛されている。


高岡城公園              城跡から見た市内            公園内の池             
                                         
    


築城後6年にして廃城となった高岡城の跡、廃城に際しては、建築物は一切取り壊されたが石垣、土塁、濠など残されていた。

芝一面の公園内                    緑一杯の池の周り
  

「前田利長」 1562-1614  二代目金沢藩主 関ヶ原の戦いの功により加賀、能登、越中国を拝領した。お家安泰の為、母を人質に。

古城の古井戸跡                                        広い園内の小道
    


一国一城令により、大坂夏の陣からの利常凱旋を待って高岡城は廃城、越中国の令制国としての城機能は火災から再建された富山城に移ったとされる。
廃城時期については1638年とする異説もある。廃城後も高岡町奉行所の管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は
密かに維持された。加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様。
街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から見透かされるのを避けるため町屋を移転して目隠しにしたといわれる。
廃城後に利長の菩提を弔うために建立された瑞龍寺や周囲に堀を備える利長の墓所自体も高岡城の南方の防御拠点としての機能を併せ持つものとして配置
されたと考えられている。江戸時代の古図の中には城址を「古御城」の名称で記しているものがある。

城内におかれた米蔵等は1821年の高岡大火の際にほぼ全焼したが、その後再建され明治に射水郡議事堂が建設されるまであったという。

城主の前田利長公像
    


古城公園から北西5kmの場所にある二上山に二上神が降臨したのは遥か古代で詳しい時代は定かではない。
675年正月奉幣を預かったとの伝承を持って鎮座の年とされている。
慶雲3年初めて新年奉幣の例に入り、宝亀11年従五位下の神階に叙せられ、延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられている。

射水神社は、戦国時代に兵火に罹り荒廃したが、前田利家・利長の保護により再興した。明治4年の国幣中社に列せられた。
明治維新後の神仏分離により、寺坊所管の二上を離れ明治8年9月に高岡古城公園(本丸跡)に遷座した。

                                射水神社入口                境内
    


越中国最高位の神社として朝野の崇敬を受けて、「日本文徳天皇実録」854年は、二上神の祢宜と祝が把笏に預かったことが記載されている。
「日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸」古代に笏を把ることを許されたのは伊勢神宮と諸大社の神職のみであったと有る。
8世紀後半に成立したと言われる「万葉集 巻17」には、大伴家持によって当神社を詠んだ和歌が収録されている。

神殿内                            拝殿
    

 
「高岡大仏」は、1745年 富山極楽寺(坂下町)の第15世住持等誉上人の発願により、坂下町の坂道を上りつめたところ、定塚町に建立された
木造金色の大仏が高岡大仏の起こりと云う。
現在のものは再び焼けることのない鋳銅仏にしたいとの願いから、広く各地に勧進して30年の努力の末昭和8年に完成。
原型、鋳造とも高岡工人の手によるもので、「銅器の町 高岡」の象徴であるとともに、総高18.85m、重量65tというスケールの大きさは奈良、
鎌倉の大仏とともに日本3大仏の一つに数えられている。


高岡大仏境内                           大仏
  

「高岡城遺跡発掘調査」は、古城公園の発掘調査で、細かい石を敷き詰めた 栗石層が「貫土橋」現在の朝陽橋、周辺で見つかった。
江戸時代初期の文献や絵図でしか残っていない貫土橋の存在を裏付ける遺構の可能性が出てきた。
市教委は専門家の意見を聞いて分析を進めている。現在の朝陽橋は高岡城築城当時は存在せず、貫土橋と呼ばれる可動式の橋があったとさ れる。
栗石層は石垣を沈下させないことを目的に設置される。
貫土橋については、専門家が江戸時代の絵図をもとに、橋周辺に石垣が築かれていた可能性を指摘。市教委は橋の構造の解明と併せて、石垣の有無も調べられている。
高岡城跡の発掘調査は、国史跡を目指して昨年度から行われ期待されている。

高岡城内発掘調査現場                                慰霊碑    
    

「瑞龍寺」は、関本町にある、曹洞宗の寺で、山号高岡山、本尊釈迦如来、加賀藩主三代前田利常が、高岡城を築城した先代利長を弔う為に
造営した。
重要文化財の総門、山門、仏殿、法堂が直線上に配され、回廊がとりまく「一城同様」として有事には、城郭とする意図があったとも言われている。
仏殿の屋根は、鉛瓦で葺かれている。弾丸にして概算250万発に相当するという。山門から、八町道を挟んで前田利長墓所と相対している。

国宝( 仏殿、 法堂、 山門)
 
重要文化財( 総門、 禅堂(僧堂)、 大茶堂、 高廊下、 北回廊、 南東回廊、 南西回廊、 紙本墨書後陽成院宸翰御消息)

富山県指定有形文化財 (木造烏蒭沙魔明王立像、 紙本墨書近衛信尋筆懐紙、 前田家寄進の宝物)

富山県指定史跡( 石廟)

この他、絵画や墨蹟などの文化財を多数。拝観料 有料。

国宝高岡山瑞龍寺             総門                    屋根瓦(実物)
    

利長公の菩提を弔う為三代藩主利常は、義弟になりその恩を感じ、時の名匠 山本善右ヱ門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山禅師を持って開山した。
造営は、利長公の50回忌の20年間1663年までを要したと云う。当時の寺域は、36000坪、で濠をめぐらし、まさに城の姿をしていた。

山門                               左に東司 七間浄頭
  

総門、正面三間、薬医門で正保年間の物。石廊には、織田信忠の分骨廊、塔がまつられている。禅堂、座禅修業であった。


国宝山門左右に金剛力士像                       仏殿前の境内
    


山門には、金剛力士像安置、楼上に釈迦如来、十六羅漢を祀られている。国宝の法堂は、建坪186坪の大建築物、総檜造りで利長公の位牌が安置されている。
中央の二室の格天井には、狩野安信の四季の百花草が描かれている、高岡の地名となった鳳凰が欄間に掛れている。

仏殿        奥に法堂                     禅堂  向かいに茶道・大庫裏
  


大庫裏は、調理配膳や運営する堂で結露に配慮されていたという。大茶堂は、土蔵と同じ大壁で、内部を土天井の珍しい防火建築である。


仏殿 1659年建立(国宝)                                    観光客
    


仏殿は、1659年建立、建築山上氏が最も力を入れた建築物、屋根は鉛板で全国でも金沢城の石川門だけという。本尊は中国明代の釈迦・文殊
普賢の三尊を祀っている。

「前田利長の墓所」
1614年に没した前田利長の冥福を祈るため、3代藩主前田利常(利長の異母弟、後に養嗣子)が33回忌にあたる1646年に造営したもの。
周囲に堀を構えたその墓所の豪壮なことは武将のものとして全国的に珍しい。

江戸時代の古図には外郭は輪郭型に内郭を取り囲んで、南面を除く三面に堀を備えた姿で描かれており、有事の際には二重に堀を構えた高岡城防衛の砦
としての使用も考慮されていた。
現在、約10,000m2が残っているが、2007年に行われた調査の結果、造営当初の墓所の面積は、前田家の古文書のひとつにある1万坪という記述とも合致する
約33,000m2であることが確認された。これは現存の3倍以上の規模であり、戦国武将の墓としては国内最大級になる。


瑞龍寺から前田家墓所の参道                     墓所前の鳥居
    


「曹洞宗 仙寿山 繁久寺」は、前田利長墓所の廟守の寺として造営されたお寺。回廊に安置された五百羅漢で知られている。

墓所管理している繁久寺             山門
    


次回は、能登七尾へ。

富山城跡と「薬の富山」

2012-08-06 | 気まま旅
上市から8号線に出て、富山市に入る。市は、県の中部に位置していて、県の面積の3分の1を占める。
西部になだらかな呉羽丘陵が横たわるほかは、神通川、常願寺川などの川によって形成された沖積平野の富山平野が広がる。
南東部を見渡すと雄大な北アルプス立山連峰を一望できる。北部に目をやると、豊富な魚介類の宝庫である富山湾が広がっている。

市に入ると、小さな「山室江口神社」があった。山室町の鎮座で車を止めて参拝する。

    

1532年土豪「水越勝重」により、富山城を築城。富山市内は、神通川、蛇行の要害の地で、安住城、浮城とも呼ばれている。
城主は、神保氏、佐々成政、前田氏で、1639年に「前田利次」が初代藩主として10万石の藩として誕生した。
富山と云えば売薬保護を受け発展した。売薬専門は、「反魂丹」の役所がおかれた。

市内は、たびたび河川の氾濫、大火、(1858年)安政地震、立山連峰、鳶山の崩壊、常願川の氾濫、と城内などの大被害を出している。
神通川に舟に板を渡した「舟橋」は、越中名物となった。
現在でも富山と云えば伝統薬業を受け継いで製薬会社が多い。あと梨栽培が盛んで「呉羽梨」で知られている、水産加工業も多い。


市の中央に聳える富山城天守閣


中世に築城したと云われた、神保長職は、1560年、上杉謙信により富山城を追われ、神保氏の治世は僅かな間であった。
その後、富山城は上杉氏と一向一揆の争奪の的となったが、天正6年、神保長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した。
しかし、1582年、長住は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主となったのが、佐々成政である。
信長が成政を越中に封じた時期については、前年、上杉方による小出城攻囲への救援の功を賞して天正9年に既になされていたとする説がある。


第二代藩主・前田正甫像、               公園内                  松川
    

富山に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行った。本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、1585年、秀吉自ら率いる10万の大軍に
城を囲まれ降伏し富山城は破却された。

越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、1609年に建物の主要部をことごとく焼失、高岡城を築いて移り、
富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。

江戸時代、1639年、加賀藩2代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩ができた。
1640年、利次はそのころ加賀藩領内にあった富山城を仮城として借り越中に入った。当初、居城として婦負郡百塚に新たに城を築くつもりであったが、
藩の財政がそれを許さなかったため、1659年に加賀藩との領地交換により富山城周辺の土地を自領とし富山城を居城とした。
1661年、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。


城跡苑内の松並木                  堀                   石垣
    

「前田利長」1562-1614 母を人質にお家安泰を図った二代目。関ケ原の戦いで家康東軍に、五大老に就任して、加賀、能登、越中国を拝領した。
将軍秀忠の関係は、友人。

天守閣入口                       城外壁
  

城跡が「富山城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっている。公園内に残る石垣や堀からは、当時の威容を見ることができる。
また、戦後に建設された天守閣内の「富山市郷土博物館」では、400年以上にわたる富山城の歴史を紹介している。
園内には、東洋の古美術を中心に展示「佐藤記念美術館」もある。

平成18年からの富山城石垣改修工事に合わせて石垣の調査が行われ、石垣の築造技術のすばらしさや、歴史的価値の高さがわかってきているという。有料


苑内                        城内の朱色の橋                  古木
    

富山城天守閣の4階天守展望台からは周囲が一望。

博物館正面                         富山城正面
  

城址大通り・富山駅前~城址公園前、 国道41号・桜橋電車通り県道22号線、県道43号、平和通り県道6号・県道62号、県道3号魚津、けやき通り208号線、
すずかけ通り富山駅、雪見通り県道30号富山港、しののめ通り 県道172号などが、県庁城址・富山駅に繋がって、市のアーチ式繁華街が有る。
富山の食材を使った、寿司、鰤のしゃぶしゃぶ、刺身などが目に付いた。


城前から富山駅方面                     城の堀にもなっている松川と桜並木
  


「本願寺富山別院」は、仏教の流れを汲む、浄土真宗本願寺派で、親鸞聖人を宗祖、本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)。
経典は浄土三部経(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)を正依としている。本山は京都市の「浄土真宗本願寺派本願寺」(西本願寺)。

富山別院は、1800年頃から本山会所を設けている。1884年に許可、1945年、富山大空襲にて別院4度目の焼失。
1996年、蓮如上人500回遠忌・顕如上人400回忌・ 別院再建30周年法要。富山市総曲輪の商店街裏にある。

本願寺富山別院                 拝殿                  親鸞聖人
    


鐘楼                         本殿 
  

「富山総曲輪商店街」は、城の外堀であった。明治時代の初めに外堀が埋め立てられ、浄土真宗の本願寺別院を参詣する人々で賑わうようになり、
やがて様々な店舗や芝居小屋、寄席などが建ち並び、現在のような繁華街へと発展する事になる。大正時代には全国初の商店街団体「商盛会」も誕生している。

街の中心部には総曲輪通り商店街、グランドプラザ、総曲輪フェリオなどがあり、賑わいを見せる。3施設はそれぞれ接続している。
大手モールから桜橋電車通りを結ぶ商店街。1953年に全国では5番目のアーケードが取り付けられた。
電車通りを挟んで中央通り商店街(さんぽ~ろ)が隣接しており、こちらは1956年にアーケードが設置された。大型モニター、昇降式のステージなどが特徴。
2007年複合商業施設。キーテナントの大和富山店のほか、多くの専門店で賑うが、朝で人出生薔薇であった。

市の中央商店街                   居酒屋など夜の繁華街
    


神通橋は、1969年の豪雨では西岸から2番目の橋脚が3.45m沈下して路面が陥没し、通行が不可能になった。
下流の神通大橋をそれぞれ一方通行にし、翌月には歩道橋と車道橋を橋の西側に仮設。1970年に復旧工事は完了、1990年代に入ると老朽化や片側1車線
という交通容量の小ささが問題になり、文化遺産としての保存も検討されたが耐久面に問題があると判断され、架替と現在の橋の取り壊しが決まった。
2006年より2代目の富山大橋の建設が始まり、予定よりも遅れ2012年完成している。


富山大橋                          神通川
    

「白鳥城址」は、1183年に源義仲の武将、「今井四郎兼平」が陣を張ったとするのが最初の記録で、越中守護代「神保長職」が「上杉謙信」の越中攻めに
備えて本格的に築城、富山城の詰城として利用されたと思われる。
神保氏の降伏により城は上杉方の手に移ったが、1572年には西から攻め寄せる一揆勢により落城した。
白鳥城は、東側が急斜面となっており東からの攻撃には強かったが、西側はなだらかな斜面となっており、西からの攻撃には脆弱な城であったようである。

上杉謙信の死後、越中が織田方の支配下にはいると、「佐々成政」が富山城に入り白鳥城も引き続きその支城として使われたと思われるが、
1585年に羽柴秀吉が成政を攻めた際「富山の役」、富山城を見下ろす位置にある白鳥城に豊臣軍の陣が置かれた。
 
成政降伏後は前田利家が有し、まだ越中の一部を領していた成政に備えるため城将を置き、慶長年間の初めまで続いた。現存する縄張りはこの頃に完成したもの。

白鳥城跡                         土塁          山道
    


高岡市に向かうが、途中に「明神社」と云う小さな神社があった、明神とは、日本の神道の神の称号の一つ、豊臣秀吉の「豊国大明神」が有名。 参拝。


珍しい明神社が
  

次回は高岡方面へ。

立山の「穴の谷霊水」

2012-08-04 | 気まま旅
北陸3県の旅に戻ります。

富山魚津「松倉城」は、松倉山の山頂、標高431m・に位置、5郭を構成し越中最大級である。
1335年頃の築城と言われている。城主は普問氏、桃井氏と移り、南北朝時代のあとは椎名氏の居城として、越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。
椎名氏は最盛期には富山県呉東地域にまで勢力を広げていたが、1570年、城主の椎名康胤が、宗主の上杉氏から対立する武田氏に寝返ったために上杉勢に攻められた。
その結果戦に敗れ、椎名氏は城から逃亡し、椎名氏による長い統治が終わった。その後は河田長親が入ったが、1583年に佐々成政率いる織田氏によって落城し、
麓の鹿熊にあった城下町は魚津へ移った。慶長年間に廃城。
支城 、松倉城はいくつかの支城をもっていて、魚津市山間部一帯に山城群を形成していた。近くに松倉金山があった。 魚津城、 水尾城、北山城(金山城)、
小菅沼城、 升方城、 坪野城、 天神山城。


松倉城跡の碑                              土塁、
  


飛騨国、松倉城は、日本で一番標高が高い山城で、味方の裏切りがなければ落城は難しい城。
高山盆地を眼下に見おろし、北は越中、南は岐阜、東は木曽、西は郡上に通ずる街道を一望のうちにおさめられたと云う。


魚津市内が一望                     松倉城山城の上り坂



「東福寺野自然公園」は、滑川市東福寺野。北陸自動車道滑川ICから車で約10分の山奥、標高300mの台地に広がる自然豊かな公園。
晴れた日には、富山湾が一望、園内には、時計台・芝生広場・大型複合遊具・ゴルフ場・郷土館・バーベキュー広場やSLハウスなど
家族一緒に楽しめる施設が有る。
3月15日~12月15日期間内無休、公園入園料有料、
                                       

展望台(わんぱく砦) 眺めが最高。人気は、蒸気機関車を先頭に、客車5両で編成試運転されている。


公園案内板                           管理事務所            



高い標高のおかげで景色がよく、夜になると新湊や氷見の明かりが見える。
夜は駐車場がいっぱいになることも。


野生猿がたむろしている                良く整備された園内


「本江遺跡」は、田んぼの中にある。昭和46年発掘調査され、縄文時代後期、約4000年前で炉を中心にした村であったようである。
土器(赤土)、石器などが大量に出土している。

剱岳を源にする早月川と大辻山(標高1,361m)を源にする上市川の間の丘陵地にあり、近隣には国の史跡に指定されている。
「上市黒川遺跡群」がある。


田園の中に                       古代の住居跡


「穴の谷霊場」は、新川郡上市黒川の霊場境内の湧水、伏流水である。
昔、この洞窟に嘉永4年美濃国の白心法師がこの穴にて3年3ヶ月修行せられており、諸国からその法を聞き参詣人も多くなったと伝えられる。
この穴での修行僧は数多く、近年では明治30年、能登の霊外悟道禅師が3年修行して、真の解脱を得た。このころから「行者穴」ともいう。
また、昭和32年には広島の岡本弘真という女行者が訪れ、6ヶ年修行して「この穴の水は入巧徳水だ、病に苦しむ人に飲ませて欲しいとのお告げがあった」と
遺言して去ったという。
黒川集落から穴の谷までの参道には、三十三の観音像が並び、各行者をしのぶ碑などが多いことからも、古来からの霊場であることがわかる。
穴の谷の砂岩と粘板岩でできた三つの洞窟からなり、第一の洞窟の正面に薬師如来の石仏をまつり、その右横から清水が年中つきることなく湧き出ている。
この霊水こそ、即ち「穴の谷の霊水」なり、 霊水に群がる善男善女は、「薬師如来に病気平癒を一心に祈願して霊水を口に運ぶ」。
不治の病いが治った例は全国に限りなく、日々参詣者の耐えることがない「穴の谷霊場」の由来である。


静かな山道          参道右左石仏が続く



今日も、台車とポリバケツで参詣者が、湧水を運んでいた、湧水は森林に包まれた108段の階段下であった。ポリに入れた容器を階段上まで運ぶトロッコがある。
古来より白蛇伝説が伝わっており、山中に踏み入るものはなかったという。白心法師がこの穴で3年3ヶ月修行し、全国から修業僧が数多く訪れている。
明治30年能登の禅師が3年修業、昭和32年女行者が6年修業などで「行者穴」ともいう。


長い階段の奥に霊水が           まず、不動堂参拝


穴の谷は、砂岩と粘板岩でできた三つの洞窟からなり、薬師如来の石仏の穴とその右に清水が年中つきることのない湧き水が霊水である。
北陸の名水は、竜ヶ窪の水 - 杜々森湧水 - 黒部川扇状地湧水群 - 穴の谷の霊水 - 立山玉殿の湧水 - 瓜裂の清水 - 弘法池の水 - 古和秀水 -
御手洗池 - 瓜割ノ滝 - 御清水 - 鵜の瀬。

岩と石仏の間から霊水が      お参り後ポリバケツに汲みいれる      自動トロッコで階段上へ


「日石寺」は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院。山号は大岩山で、山号から「大岩不動」の通称で知られる。
別名、金剛不壊寺。
寺伝では、725年、行基の開基と伝える。本尊は大岩壁面に刻まれた、磨崖仏の不動明王像で国の重要文化財に指定されている。
岩壁に刻まれた磨崖仏に覆いをかける形で本堂が建造されているため、磨崖仏の保存状態は良い。
三重塔と山門は町指定文化財。参道には名物のそうめんを売る店が多く並び、賑わっている。
一切衆生の六欲・根本煩悩を断つとされる、6つの龍頭から流れ落ちる六本瀧は、寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている。


山門                           境内               阿覚窟


重要文化財は、 大岩日石寺磨崖仏、 不動明王二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏。
国の重要文化財に指定。
不動明王像の像高は約2.8メートル。左右に矜羯羅童子像、制咤迦童子像、阿弥陀如来坐像、僧形坐像(伝・行基像)が半肉彫りで彫り出されている。
不動明王二童子像は平安時代後期の作で、阿弥陀如来坐像、僧形坐像は後年になって追刻されたものと思われる。1335年、不動堂が大風で倒壊した際に大破し、
1342年に修理されているが、各像とも根幹部分は造像当時のまま。
室町時代に上杉勢の兵火に遭い、1967年に本堂が火事に遭うが、磨崖仏はほとんど損傷をうけることなく今日まで残っている。
史跡は、1930年、磨崖仏のある巨岩所在地一帯は「大岩日石寺石仏」として国の史跡に指定。


観音堂                        本堂


大岩山は、新川郡内の大社で21末社を有し、60の坊社、一千余りの僧兵を持ち、真言密教の修験道と立山信仰で盛を極めていた。
が、天正に入り、上杉勢越中平定の兵火で焼失したと云う。


三重ノ塔                               大日堂


不動明王磨崖仏三尊は立山・釼岳の神の本地仏として、阿弥陀如は、立山の神として、伝行基は、山の開山慈興、慈朝を示す者であろうと云う説もある。



六本滝                      地蔵堂      夫婦岩入口




不動明王磨崖仏      菩薩坐像           大岩川渓流


「柿澤神社」の( とやまの祭り)10月に、勇壮な暴れ神輿が午前9時から深夜までかけて各家々を渡御し、最後は柿沢神社の境内で燃え盛る火の中を
走り抜ける火渡りの神事が行なわれる。


                                    拝殿    



柿澤城は、富山県上市町柿沢にあった。 弓庄城土肥政繁の家老桂田善左衛門が居城したと伝えられる繋ぎの城。
現在「城山」と呼ばれる。
城の西側は極めて急峻な山、「城山の湧水」で知られている。

富山市山室江口神社                            拝殿


次回は、富山市内に。

明見湖の蓮が咲きました

2012-08-03 | 富士山麓日記
昨年もお知らせしましたが、今年は少し早く蓮の花が咲きました。
富士吉田市 富士急行「富士山」駅から車で10分ほど、静かな山間に蓮池があります。



周囲を懐かしい里山に囲まれた明見湖は、湖面に蓮が植生していることから通称「はす池」とも呼ばれ、清流と沼の多種多様な生き物が同居し、
多くの水鳥が羽を休めます。
かつては、富士八湖(富士五湖・四尾連湖・明見湖・駿河の浮島沼、後に泉端に変わる)のひとつとして、富士山信仰の富士山道の垢離場<禊の場所>で
あったと言い伝えられています。

公園内では、自然観察、ウォーキング、釣りなど、自然とのふれあいを楽しむことができるほか、「杓子山」登山客のハイキングコース、
写真愛好家の方たちのビューポイントとして、親しまれています。





付近の白樺林




  


富士山麓 庭に咲く花

2012-08-02 | 富士山麓日記
夏真っ盛り、毎日暑い日が続いています。今日は富士山麓の山の家に咲く花を撮影してみました。
我が家だけでなく近所の家の花もあります。

栗がなり出して3年目、今年は何個くらい収穫できるでしょうか?


白いあじさい、きれいに咲いています。前の家、手入れが良く珍しい花も咲いています。




これは「萩」


シダの一種だと思いますが、ハッキリとした名前は判りません。


山あじさい、赤とブルー




この赤い花の名が判りません。多年草、毎年どんどん増えます。一株もらって沢山になりました。




ノコギリソウ、これも2株いただき増えました。