syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

東海道16番 由比宿

2012-10-19 | 気まま旅
東海道は、江戸・日本橋 - 品川 - 川崎 - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚 - 藤沢 - 平塚 - 大磯 - 小田原 - 箱根 - 三島 - 沼津 - 原 - 吉原 - 蒲原 -
由比 - 興津 - 江尻 - 府中 - 鞠子 - 岡部 - 藤枝 - 島田 - 金谷 - 日坂 - 掛川 - 袋井 - 見附 - 浜松 - 舞阪 - 新居 - 白須賀 - 二川 - 吉田 -
御油 - 赤坂 - 藤川 - 岡崎 - 池鯉鮒 - 鳴海 - 宮 - 桑名 - 四日市 - 石薬師 - 庄野 - 亀山 - 関 - 坂下 - 土山 - 水口 - 石部 - 草津 - 大津 -
(京・三条大橋)・ 京街道(大坂街道) (京) - 伏見 - 淀 - 枚方 - 守口 - (大坂・高麗橋)


「由比宿」
由比は、江戸より数えて「16番目の小さな宿場町、海と山に挟まれた鰻の寝床が連なる農漁村だが、本陣、脇本陣が一軒ずつ有って密集し、昔は賑わいを
見せていたのであろう。「弥次喜多道中」で茶屋の女性達の呼び込みに辟易したのはどの辺であったのか。
宿場の西に由比川が流れ、水量が増すと「歩行渡り」で、越えなくてはならなかったという。「踏み込めば 草臥足も治れるかや 三里たけなる由比川の水」
と当時の狂言である。

JR東海道本線「由井駅」                   駅前商店街
    

「地持院」は、山号を北田山、臨済宗妙心寺派に属し、往古地持院山の麓か西山寺にあったという。1573~91年 開山暗室和尚により、現在地に移転再興された。
爾来隣接の豊積神社の別当寺として神仏事を行って、明治初年の神仏分離策により、現在の寺形になった。
本尊は地蔵菩薩「市指定文化財」、他に江戸時代日照りに苦しむ農民を救ったと言われている伝説の「代かき地蔵」や「六地蔵」「わらべ地蔵」「のっぺらぼう地蔵」、
寺領ヌクイから掘り出された「掘り出し地蔵」等がある。お地蔵さまの寺とも呼ばれている。
本堂は大正10年、客殿庫裏は平成7年の建立し、開山暗室和尚より鮎川博道和尚で27代目。

地持寺                               楼門
    


境内は、約二千坪に本堂・堂・客殿・書院・庫裡・山門・鐘楼等諸堂が配置され、飾る四十四面の襖絵・彼岸庭になっている。
心にやすらぎを与える禅寺らしい寺。本堂(大正10年建立)、客殿(平成7年建立)、彼岸庭より見た客殿。
書院(平成7年建立)、鐘楼(昭和34年建立)、住職手造の山門・塀と所々の彫刻もある。

寺の隣には、「駿河國廬原郡 豊積神社・旧郷社」がある。御祭神ー木花之佐久夜比賣命、旧由比町の鎮座。
鳥居をくぐると、茂った木々で境内は暗い、境内に、二基の鳥居、大イチョウの木がある。
神事の、「太鼓祭りは有名」境内には、太鼓の彫刻もあった。正面の社殿の後方には、垣に囲まれて、流造の本殿がある。参拝。

神社鳥居               拝殿                  地持寺   本堂
    


浅間神を祀る神社であり、往古は、豊積之浅間大明神と称していたという、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と
父神である大山祇神の祇から取られたという説もある。
坂上田村麿が東征の戦勝報告に当社に立寄り、ここで、宴を催したことから、太鼓祭りが起ったという。境内社の数も多い。

神社本殿                            緑に囲まれた境内
  

「経塚山、妙栄寺」は、1854年、日満上人が境内に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没しているのを知り、土地の有志と石塔と草堂を建立。
これを経塚山妙栄寺と称し自ら開山となった寺。
当初は三間四面の辻堂にして、無檀無禄であった。明治23年、望月与平が堂宇を修繕してついに題目修行の道場とした。
18世一妙院日久と一浄院日豊法尼の心願によって現本堂が建立され、20世真亮院日恩に至って境内地の整備された。


                           本堂
   

「由比本陣」(大名が宿泊する施設)は、本陣一軒と脇本陣一軒、旅篭屋が三十二軒あり、相当な賑わいを見せていたと伝えられている。
弥次さん喜多さんで知られる「東海道中膝栗毛」の文中でも往時の賑わいぶりを伝えている。
由比町には、今も当時の面影を残す所が多く、町ではこの本陣屋敷を整備し、江戸時代の生活文化を知る貴重な体験ゾーンとして町民をはじめ訪れる人々が
江戸文化に触れることのできるよう由比本陣公園として開放。

                                 資料展示場
    

表門、石垣、木塀など、本陣は普通に見られる本陣とは少し異なっていて、街道に家屋を直面させないで塀などで遮蔽した。
「遮蔽型本陣」といわれる形式を特徴としている。表門、石垣、木塀や馬の水呑場などは、当時の佇まいを彷彿させる物。
「本陣記念館(御幸亭)」明治天皇がご小休された離れ屋敷。
茶室、水屋などを備えた伝統的な和風建築、出来るだけ当時のままを復元されている。
記念館前にある庭園は「松榧園」といい、その由来は家康公お手植えの松、馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名したもの。
記念館北側の庭は、小堀遠州作といわれており、当時の石組みなどを修復しながら再整備された。

                     本陣 庭園
    

「楠木正雪」は、慶安4年・1651年に、「由井正雪の乱・慶安の変」を起こし駿府にて自害。享年47。正雪の首塚が「菩提樹院」に存在する。
慶安の変 は、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を
集めて幕府転覆を計画した事件。しかし仲間の裏切りによる密告によって、事前に発覚したため、正雪は駿府の宿にて町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。
事件は、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換することになったきっかけの一つ、とも言われている。

東海道幕末の風雲児、正雪は、駿府まで逃げて自刃したが、遺髪を託し「正雪紺屋」の浦に埋められているという。
明治に掘り出されかけたが、災いが起きたため中止されている。

明治天皇休息処碑                 本陣前の紺屋
    

「神沢川酒造場」は、由比町の酒、 南部杜氏、仕込水は、神沢川の伏流水。
秋には黄金色に染まる米どころ、冬には雪に閉ざされる寒冷な気候、そんな所が酒蔵にふさわしい風景のように思いがち。
しかし一年を通して温暖な気候の静岡にも三十数件の酒蔵がある。

静岡のほぼ中央、東海道の十七番目の宿場町今なお古い町並みを残す由比町に正雪の蔵元、神沢川酒造場はある。
北に富士山を背にし、南に駿河湾を望む由比町は、小倉百人一首の中に山部赤人が「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」
と詠われた地と言われる所で古くから東西の交通の要所として栄えた町。
古い歴史を持つ由比町は、駿河湾でしか捕れない桜えびの産地として水産加工業の盛んな町でもあり、田圃もなく温暖な気候のこの地で
創業大正元年、酒蔵としては若い歴史であるが、酒質の向上に努めているという。


由井宿に残る黒塀                       造り酒屋 工場の煙突 昔は、煙がもくもくと
    

仕込み水は、横を流れる神沢川の上流より引き込んでいるものを使用して、鉄、マンガン、マグネシウムなどをほとんど含まない軟水で
スッキリしている酒であった。

工場内              瓶詰工場
  


「酒の話・ジンの製造」
原料は、ライ麦とトウモロコシを蒸煮した後麦芽を加え糖化、醗酵液を蒸留し、留液をアルコール分50-60%まで水を加える。
杜松の香料を刻むか蒸留釜に置く方法(ジンヘッド)アルコール蒸気が通過する方法。杜松(ジュニバー)特有の香気をもったものになる。
安価なジンは、ジンエッセンス(香料植物)加えたものもある。

次回は蒲原宿へ

山岡鉄舟と次郎長

2012-10-16 | 気まま旅
富士川にそっての旅に戻ります。

「船越堤公園」は、1988年にできた面積94000㎡の大きな公園です。船越堤には様々な植物があり、中でも約千本の桜(ソメイヨシノ・他)が有名。
船越堤の桜はワシントンのポトマックというところから里帰りした桜で、今でもワシントンのポトマック河畔の桜は毎年咲き乱れ、桜祭りが催され日米親善の
シンボルとなっている。
清水とカナダとの交歓留学記念植樹や平成18年に秋篠宮家の長男として誕生した悠仁親王殿下御誕生奉祝植樹などがされている。
散歩コースとして、地元の人々で多くの人に親しまれている。

公園入口
  

天文台(41cm反射望遠鏡・田阪鏡、旭精光製赤道儀)は、定期的に星を見る会が催されている。せせらぎの小川では夏が近づくとホタルを見ることができる。
散歩やトレーニングをしている人がたくさんいた。車椅子の方や階段が苦手な方は横にスロープが整備されている。
階段を登った所からの景色は、清水市街を眺めることができ、晴れた日は富士山が見えると云う。
紅葉の里の散歩道がある、この脇には戦時中に使われていた防空壕があった。


散歩の伯父さん元気に「おはようございます」と挨拶が
  

奥にはステージがありイベント等も行われ、花見の宴会会場でにぎわいを見せる。8月の清水港花火大会はここから花火を見ることができる。

整備された園内と濃い緑
    


「鉄舟寺」は、市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院、山号は補陀落山、本尊は千手観音菩薩。
飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した。その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという。
平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄え、1570年、武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、
宗旨も変わり新義真言宗(真言宗根来派)に属す。

江戸時代には朱印寺領として200石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住になって寺は荒廃してしまった。
旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある「山岡鉄舟」が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。
鉄舟の書跡の遺品も多い。

鉄舟寺入口                        楼門
  

「国宝・久能寺経 法華経(久能寺経)19巻」 現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。現在は東京国立博物館に寄託している。
鉄舟寺所蔵品の員数は19巻、そのうち陀羅尼品第二十六と普賢菩薩勧発品第二十八の2巻は補配本と見なされる。 なぜこのように立派な経典が都から遠く離れた地に納められたのか、は不明である。諸説として、京の戦乱を避けるため東国武士によって移された、鳥羽法皇の離宮であった安楽寿院や上皇がしばしば詣でた熊野三山と久能寺との関係性、などが挙げられている。
 
「重要文化財」 錫杖 康治元(1142年)年銘。
「県指定文化財」 木造千手観音像(観音堂)、 木造蘭陵王仮面 伝赤鶴(シャックル)作。
         高塚竹堂銅像など。

仁王像                  楼門の中                 高台にある鐘楼               
    

「山岡鉄舟」1836-88  徳川家存続に尽くした剣術家、槍術の山岡家を継ぐ、新政府軍西郷隆盛と会談し徳川家存続を訴えた。
山岡の「鉄砲突き」で恐れられていた。墓は、谷中全生庵にある。

山岡鉄舟像                              本堂と境内
    

「梅蔭禅寺」は、臨済寺妙心寺派、開山は足利時代と言われる古寺。境内には、清水次郎長と、側近の大政・小政・増川仙右エ門・お蝶夫人の墓がある。
入館料¥300円、
「侠客次郎長の墓」は幕臣から明治政府の郵政大臣を勤めた榎本武揚の書によるもの、侠客としては、全国唯一その半生の功労が認められ銅像が設置されて、
初代の銅像は太平洋戦争で供に出され、現在のものは昭和27年に堤達男氏により製作された。
背後の石垣は、駿府城を、前の池は駿河湾を表し郷里清水に根をおろした次郎長の心意気が感じられる。
次郎長博物館には黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉・お守りの毘沙門天道中差・時計・望遠鏡・火縄銃等の遺品が展示されている。
 
                     本殿                   次郎長の墓(有料)
    


「清水次郎長」1820-93  博徒、甲州の黒駒勝蔵らと抗争、旧幕府艦隊の死体を収容し埋葬した。


「浪曲虎造さんの、森の石松」
  旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名題なるかな東海道、 名所古蹟の多いとこ。なかに知られる羽衣の松とならんでその名を残す、
   街道一の 親分は、清水港の次郎長の数多身内のある中で、四天王の一人で乱暴者といわれたる・・・・・・・。


境内                              清水次郎長像
  


「清水次郎長生家」は、新清水駅から歩いて20分位、次郎長生家の前は商店街になって、名前は、「次郎長通り」。
次郎長通りを歩いて行くと、次郎長生家は商店街の中に有る。商店街の一部に同化している。復元された建物ではなく、当時の生家そのままという。
生家内には、次郎長に関する展示物と、奥のほうにはお土産なども売っている。次郎長生家の裏手には巴川が流れていて、海に近い。

                      次郎長通り商店街       朝の街    
    

次回は、東海道「由井宿」方面へ。


赤坂 日枝神社

2012-10-14 | syu散歩


外堀通り沿いの巨大な鳥居が目印の、徳川家御用達だった神社の一つ、赤坂日枝神社。
日枝神社自体は、元は比叡山の山の神様を祀る神社で、川越大師の系列の山王社。

赤坂に所用あり、日枝神社に参拝する。東京に30年も住んで居ながら初めてのこと。この都心に驚くほどの鬱蒼とした樹木と静かな空間。
周りはビルが林立しているが昔ながらの趣です。








山門


江戸山王の始元は遥かに鎌倉中期、古記社伝によれば文明十年(1478)太田道灌が江戸の地に築城するにあたり、守護神として川越の山王社から勧請した。

やがて徳川家康江戸入城に際し、荒漠たる武蔵野開拓の要衝の地として城内の紅葉山に祀り国家鎮護の基とした。

その後、1600年初頭の江戸城大改造のとき隼町(現在の国立劇場付近)に移された。明暦三年(1657)の「明暦の大火」で社殿焼失、
やがて万治二年(1659)将軍家綱は、天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所を建立し奉るため、現在地に結構善美を尽くした権現造り社殿を造営した。

これは太平洋戦争にて戦禍にあい焼失、現在の社殿は昭和33年6月に復興されたもの。

山王社が現在の日枝神社となったのは明治時代になってからで日吉権現の元地である比叡山の名をとってつけられた。

江戸の産土神(うぶすなかみ:生まれた土地の守り神)として将軍家の尊崇も厚く、山王権現の祭礼は毎年6月15日であるが、将軍の台覧もあって、
天下祭と称され神田明神の祭礼とともに江戸の二大祭とされている。





参拝の方もちらほら










TBSビル

ライブがあるとかで人がいっぱい、並んでいた。

清水港と日本平

2012-10-12 | 気まま旅
清水駅は、貨物の取り扱い駅であった。2002年まで、JR貨物の駅。車扱貨物のみの取り扱いで、武田薬品工業の化学薬品の取り扱いを、新南陽駅から輸送され
た原料の(PPG) をタンクローリーに詰め替え輸送していた。
2001年まで、現在も駅北東にある東燃ゼネラル石油清水油槽所の荷役設備へ専用線が続いており、潤滑油発送が行われ、発送先は汐見町駅や安善駅、1980年代までは
駅南東にある豊年製油静岡工場(現・J-オイルミルズ静岡事業所)へ続く専用線もあり、接着剤などの発送が行われている、国鉄分割民営化前には、
駅舎北に複数の有蓋車用貨物ホームが残っている。

現在は、明るい駅舎と駅前にサッカーの像がある。
近代的駅に生まれ変わり、清水市は、"日本のブラジル"といわれ、清水で、定期的な国際交流試合が数多く行なわれている。
その数は国内で開催される外国との年間60の交流試合の4分の1に当たり、サッカー交流している都市もブラジル、韓国、カナダ、台湾、ウルグアイ、アルゼンチン
とアジア、アメリカ大陸にまたがる。
各種大会の招待チームに至っては、ヨーロッパのチームの参加例も多くまさに全世界的な広がりを見ることができる。
組織化、国際化などの点で清水は日本サッカー界あるいは日本のスポーツのパイオニア的な地位を占め、全国大会での優秀な成績がその有効性を裏付けていという。

JR清水駅前ロータリー                  サッカー像が


「清水駅前銀座商店街」は、清水駅前銀座アーケード街で120店舗が並ぶ、「七夕祭り」「鉄火巻日本一に挑戦」などででも知られている。
地元のお客との結びつきを深め賑わいを見せている。店舗は、 食品、衣料など多種にわたり、個性豊かなお店が多い。

商店街通り             店の間に地蔵尊が
  

古代の清水は、1万年以上前であったと言われており、縄文前期にはすでにムラが形成されていたことが庵原の大乗寺平遺跡の出土遺物から立証されている。
5世紀ごろには大集落「イホハラの国」が出現し、律令制が確立する前は、廬原国造廬原氏が治める廬原国の国衙が置かれ、県中部地域の中心であった。
日本書紀には、663年の朝鮮「白村江の戦い」に当地から廬原君臣に率いられた万余の健児(兵士)が出港して行ったことが記述されている。
日本武尊の伝説
につながる草薙神社や三保の松原の美穂神社が、平安時代の延喜式に記載され、江戸時代まで戦国時代に駿河の今川氏領国を経て、甲斐国武田氏によって
駿河が領国化されると、武田氏の水軍基地になり、江戸時代には江尻に東海道江尻宿が置かれる一方、清水港は駿府(現在の静岡駅周辺)の外港として機能し、
江戸への中継基地として富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送で賑わっていた。

清水と云えば清水港           港から富士山が美しい、今日は薄曇り


清水港は、663年「やまとの国の救将 廬原君臣 健児(兵士)万余を率いて、清水湊を出て、海を越えて百済に至らむ・・・。
これが清水港が史書(日本書紀)に出てくる最初である。
 
いろいろな船の出入りが多い港              清水港


童謡「赤い靴」の歌詞は、赤い靴 履いていた 女の子 異人さんに  連れられて 行っちゃた

歌詞の中に出てくる、「いじんさん」というのは幕末から明治にかけてよく使われた言葉で、異人さん、異邦人つまり外国人のことである。“青い目”と歌われている事から、西洋人と見られる 

「有度丘陵・日本平」は、丘陵は駿河湾沿いにあり、最高地点は有度山の標高308メートル。
広葉樹林が多く、茶畑やミカン畑も広がる。この丘陵は撓曲によってできたもので、過去10万年間で300mも隆起しており、これは日本でも有数の激しい
地殻変動である。丘陵の西から北縁にかけては活断層が走っている。

丘陵は眺望に優れ、1959年には「日本平」として国の名勝に指定された。
1980年の日本観光地百選コンクールでは第1位となった。頂上付近からは富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には赤石山脈も見える。
眼下には清水区の街並みと清水港が広がり、夜景のスポットにもなっている。

赤い靴の歌碑                            母子像



「日本平ロープウェイ」は、名勝「日本平」の山頂と徳川家康ゆかりの史跡「久能山東照宮」を5分間で結んでいる索道である。
ゴンドラから四季折々姿を変える屏風谷、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を望みながら全長1065mの空中遊覧が楽しめる。

              日本平から下界を               放送アンテナ      



次回は、清水の街中に。

薩った峠と三保の松原

2012-10-10 | 気まま旅
富士川に沿っての旅に戻ります。

「薩った峠の戦い」薩った山の戦いは、南北朝時代の1351年、薩った峠にて、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦。
「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂。

直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年、直義は、
「桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る」
尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、「仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した」

直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩った峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(小田原市)などの戦いでも直義勢を破り1352年、直義は尊氏に降伏した。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月に急死する。病死とされているが、「太平記」は、尊氏による毒殺であると記している。

「甲相駿三国同盟」は、1554年に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつ。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもので、締結時に3者が会合した
という伝説から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し1568年には同盟を破棄し、駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。武田軍は京都を目指した。


海側の下道と、ここ中道の薩った峠      昔の石塔          合戦案内板            
    

薩った峠は、真の宿本陣、西沢一里塚跡、~興津川一里塚跡の国道一号線バイバスを「下道」といい、東海道本線の山よりを「中道」その上の山道一部通行不能を
「上道」で、旧東海道は、「中道」をさすようだ。「薩った峠の合戦」は、狭い道でどのようにして戦ったのか想像する。

東海道旧道          鰻の寝床の街並みが             中道から下道の水路
    

さった峠の名は、海から引き上げられた「地蔵菩薩・薩った」を祀ったことからという。広重が描いた富士の絵は、中道からと思える。
東海道五十三次でもここだけが、今でも感じ取れるという。この道以外は、波打ち際の危険な「下道」を抜けたという。ここでも「親不知、子知らず」の道と呼んでいる。

狭い旧道の中道                 興津川・広重はこの辺から
  

「御穂神社」は、三保の明神さんと親しまれ、奉納の舞いである「羽衣の舞」は雅楽「東遊び駿河舞」にその原形があると言われ、地元の保存会が伝承している。
三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説で名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。
樹齢200~300年の松の並木が500mほど続く「神の道」と呼ばれる参道がある。神の道を進むと、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、羽衣の松に着く。

春になると境内は山桜、かすみ桜など22種220本の桜で満開になる。駿河国三宮、創建は不詳、御廬神社とも記され、「日本三代実録」元慶3年に
「駿河国従五位上の御廬神に正五位下、下総国正六位上の子松神に従五位下を授ける」とあり、879年に正五位下の神階を授けられている。

松原神の道の入り口神社           鳥居               境内
    

重要文化財・ 太刀、 無銘、鎌倉時代の作。鎬造。糸巻太刀拵が付属する(市指定文化財)。本殿、 江戸中期の建立。入母屋造り。
その他・ 羽衣の裂 羽衣の笛 三保古絵図ねど。

神社前                                    本殿
  

 
鬱蒼とした境内内                      三保の松原神の道松並木
    


「神の道」は、御穂神社から羽衣の松までを結ぶ松並木を云う。清水港から駿河湾に突き出した半島が三保。東岸に広がる三保の松原は万葉の昔から知られた景勝地で、
霊峰富士を仰ぎ、松林の緑と打ち寄せる白波、海の青さが織り成す風景は、今も変わらない。

歌碑の立て看板が            並木
    

昔から親しまれている三保半島の南側に広がる松の古木の景勝地。総延長7km、5万4千本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。
 
風雪で曲がりくねった古松が             松並木のトンネルを
    

1980年代から三保の松原の砂浜は、波の浸食により消失の危機に見舞われている。
原因は、1960年代に安倍川により流された土砂を大量に採掘したため、土砂の需給バランスが崩れたことと考えられている。
現在、静岡県は海岸から百メートル程の地点に消波ブロックを点在して設置し、砂を補給するなどの養浜対策を講じている。
また「羽衣の松」を含む多くの松林が徐々に枯死する症状も進行している。静岡県などが対策に乗り出しているが、根本的な解決策が見つけ出せずにいるのが現状。

並木を抜け砂浜海岸へ
  


日本新三景の一つ三保の松原は、天女の羽衣の松が樹齢650年。晴れていれば、老松林越しに見える富士山の姿も絶景。
江戸時代には三保全体が松林に覆われ、清水湊を挟んだ対岸の江尻宿からは、海にぽっかり浮かんだ松林が見れたという。


羽衣伝説の三本松の一本が枯れかけている  自然のバランスが崩れ浸食
  

静岡茶摘み、
          夏も近づく八十八夜
                    野にも山にも若葉が茂る
                         あれに見えるは
                               茶摘ぢやないか
                                  あかねだすきに菅の笠


次回は、日本平から