syuの日記・気まま旅

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石巻港 東北の旅6

2015-10-17 | 気まま旅

JR仙石線は、仙台市内青葉通りから多賀城・本塩釜・松島海岸・矢本・石巻間を云う。石巻からは、女川・石巻・前谷地・小牛田で東北本線
と連絡・古川で東北新幹線と連絡している。

JR石巻線は、3月11日の「東北地方太平洋沖地震」の発生により全線で不通。4月17日に小牛田駅 - 前谷地駅間が運転再開。
5月、前谷地駅 - 石巻駅間が運転再開。12月ー平日朝に石巻駅から仙台行直通快速が運行開始。2012年1月、平日夜に仙台駅から石巻行直通快速が運行開始。3月、石巻駅 - 渡波駅間が運転再開。代行バス区間を渡波 - 女川間に変更。仙台駅 - 石巻駅間の直通快速が毎日運行開始。
10月、貨物列車が運行再開。2013年3月、渡波駅 - 浦宿駅間が運転再開。代行バス区間を浦宿 - 女川間に変更。
2014年の平成26年4月全線が新設の仙台近郊区間となる。
平成27年 3月21日:浦宿駅 - 女川駅間が運転再開。5月仙台駅 - 石巻駅間の直通快速。
石巻駅 - 女川駅間には、1915年から1926年にかけて軽便鉄道の金華山軌道が開通していたが、石巻線の開業に伴って廃線補償を受け、1939年に休止、
翌年廃止となった。

「牡鹿半島」宮城県東部・石巻湾東太平洋に突き出ている半島・遠島とも云った。石巻・女川・牡鹿町が、リアス海岸形成されている。
暖流と寒流の交わる金華山沖漁場を控え、女川・鮎川の漁港がある。
南三陸金華山国定公園・硯上山万石浦県立自然公園・月浦は、仙台藩遣欧使節「支倉常長」が出航した地。
鮎川は、鯨の町として知られている。

成瀬川              田園地帯が続く
    

「石巻市」 
1189年「葛西清重」奥州総奉行任ぜられてから約400年間城下町として発達。
江戸時代には、伊達正宗の命により「北上川大改修」が行われた。その結果、田園開発が進み、江戸を結ぶ「東廻航路」の拠点として繁栄している。

仙台城・利府・小野・矢本・石巻ー石巻街道。「牡鹿半島沖・金華山参詣道」「国道45号線」
    

「坂上田村麻呂と奥州伝説の寺・神社」

田村麻呂が同時に建立したと伝えられる6カ寺・成敗された賊や鬼神が埋められたと伝えられている。  
牧山観音(石巻市)・ 箟嶽観音(涌谷町)・ 大武観音(登米市)・ 長谷観音(登米市)・ 鱒淵観音(登米市)・ 小迫観音(栗原市)
奥州三観音は、牧山観音 ・ 箟嶽観音 ・ 富山観音 (松島町)。

  

  

「石巻城」-鎌倉時代、葛西氏が日和山に築いた城で、南北朝時代には、奥州最大の軍事拠点と云う。現在公園。

日和山公園説明板より
日和山は標高60・4m。 山上に延喜式内社である鹿島御児神社が鎮座、
中世には葛西氏が城館を構えていたと伝えられ、平成9・10年の発掘調査では、拝殿の北側から空堀の跡などが見つる。
眼下に見える北上川の河口は、江戸時代には仙台藩の買米制度によって集められた米の積出し港として、千石船の出入でにぎわい、日和山は
出港に都合のよい風向きや潮の流れなど、「日和」を見る場所であることから、その名が付いたと考えられる。
元禄2年(1689)、松尾芭蕉と曽良ー石巻を訪れた時の「曽良旅日記」には
「日和山と云へ上ル 石ノ巻中不残見ゆル奥ノ海 今ワタノハト云 遠嶋尾駮としまおぶちノ牧山 眼前也 真野萱原かやはらも少見ゆル」と
日和山からの眺望が記されている。
「奥の細道」には「・・・石の巻といふ湊に出ス こかね花咲とよみて奉たてまつりたる金花山きんかさん海上に見渡シ 数百の廻船入江につとひ 人家地をあらそひて竈かまどのけふり立つゝけたり」と表現されています。

「こかね花咲」とは、「万葉集巻第18にある大伴家持おおとものやかもちの「天皇すめろきの御代栄えむと東あづまなる 陸奥山みちのくやまに金花くがね咲く」の歌。
天平産金地は、涌谷町の式内社黄金山神社の御神体として崇あがめられた、黄金山を中心とした地域であったのですが、芭蕉の頃には金華山が産金地であると考えられていました。
鹿島御児神社の鳥居をくぐり、拝殿に向かう階段を登った右側に、延享5年(1748年)に雲裡房門人である棠雨を中心として建立された
「雲折ゝ人を休める月見かな」という芭蕉の句碑がある。
石川啄木、宮沢賢治、志賀直哉、斎藤茂吉、種田山頭火、釈超空(折口信夫)などの文人が訪れており、日和山公園には多くの歌碑や句碑などが建立。

悪天候で下界から              (白いドームの奥の山が日和山)


「葛西清重」 1161頃ー1238 別名は三郎、壱岐入道定蓮   墓所は、東京都葛飾区四ツ木1丁目「西光寺」
官位ー従五位下、右兵衛尉、左衛門尉、壱岐守 。主君 源頼朝、頼家、実朝 。氏族ー桓武平氏良文流、秩父氏、豊島氏、葛西氏
父母 豊島清元、秩父重弘の娘    妻ー正室:畠山重能の娘    子ー清親、朝清、時清(孫とも)、清宗?。

「石ノ森萬画館」-仮面ライダー・サイボーグ009等の石ノ森章太郎漫画ミュージアムー

入館料800円ー石巻駅から徒歩で約10分

    

「支倉常長」 1571-1622 世界を一周した仙台藩士伊達侍  伊達家中の山口常成の子 叔父支倉へ養子
43歳で欧州へ旅立つ・ローマ教皇に謁見したがスペイン通商交渉は不調に終わっている。

           宮城県出身彫刻家ー佐藤忠良作の常長が
 

太平洋を横断メキシコへ、それから大西洋でスペインについている。帰途はインド洋・マニラ、船は破損と資金不足で一年以上足止めしている。
出発から7年後、2年後病没、支倉家は、キリシタン匿った罪で断絶している。

「宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)」石巻市渡波、渡波駅徒歩約21分。入園料 700円
日本における20世紀最後で最大のガレオン船である「サン・ファン・バウティスタ復元船」を展示する博物館。
約400年前に仙台藩主伊達政宗の命を受けて石巻市月浦から出帆した慶長使節の偉業や大航海が。

南三陸金華山国定公園・硯上山万石浦県立自然公園公園等の牡鹿半島から
    

「釣石神社」
市の北東部、新北上川の河口付近の北側にある。
「釣石神社」の名の由来は、御神体の巨石をしめ縄で釣りあげていて、今にも落ちそうに見えるところにある。
祭神の天児屋根命は、知恵の神様、学業の神様で、ご神体は、断崖に釣り上げられたように見える「釣石」が
男の神様で周囲14m、下の巨石が女の神様およそ8m×4mある。
巨石は、昭和53年、の宮城県沖地震でビクともしなかったことから、「落ちそうで落ちない受験の神様」として有名に、更に2011年の平成23年
「東日本大震災」で、北上川河口に近い周辺の集落は津波にさらわれ、神社も社務所や鳥居、飾ってあった絵馬などが流されたものの巨石は落ちることはなかったと云う。
                 東日本大震災でも動かなかった。


「女川駅から・石巻駅・小牛田駅ーJR石巻線が全線開通」
東日本大震災で被害を受けたJR石巻線(44・7キロ)が、4年ぶりに全線開通。
不通だった女川―浦宿(2・3k)が繋がる。

石巻ー曾波神ー鹿又ー佳景山ー前谷地、、、、、、。
気仙沼線で旧北上川・北上川からBRTで南三陸ー気仙沼へ移動する。

    

次回は、気仙沼方面へ。

松島や・松島や 東北の旅5

2015-10-14 | 気まま旅

「松島湾周辺の貝塚」
「西の浜貝塚」-宮城県宮城郡松島町磯崎に所在する縄文時代前期から晩期、さらに弥生時代、奈良・平安時代までの人間生活の痕跡を残している。
湾内において確認されている数多くの貝塚においても七ヶ浜町の「大木囲貝塚」、東松島市の「宮戸島貝塚」と並ぶ。
1958~60年、東北大学歴史研究室と松島町教育委員会が行った発掘調査で、縄文時代前期から晩期にかけての遺物、弥生時代、平安時代の遺構・遺物が発見された。
和41、42年の1966、67年、には、宅地造成による破壊から遺跡を守るため、宮城県教育委員会が発掘調査を行い、縄文時代前期から晩期、弥生時代から奈良・平安時代の遺構・遺物が多数発見。
縄文時代前期から後期にかけての炉跡を中心とした平地式住居と考えられるものが重複して発見されたほか、弥生時代の製塩遺構が、昭和41、42年、
の調査では、それまで不明瞭であった縄文時代中期末葉から後期中葉にかけての土器編年が更に細分化されることが明らかになったと云う。

大木囲貝塚・二月田貝塚・西ノ浜貝塚・川下り貝塚・高松貝塚・里浜貝塚など松島湾に点在している。

昭和2年ー 宮城電気鉄道の松島公園駅として開業。昭和19年ー 宮城電気鉄道国有化により、国鉄の駅に、「松島海岸駅」に改称。
平成23年・3月11日 - 「東北地方太平洋沖地震」の影響により仙石線が不通となり、当駅も閉鎖(代行バス運行開始後は乗車券の発券のみを行う)。
同年の5月28日に復旧。

       JR仙石線「松島海岸」駅ー仙台あおば通りを起点
    

「松尾芭蕉」 1644-94 俳諧師・俳人ー伊賀国上野城下町生まれ、23歳で俳諧師の道へ、37歳で江戸・深川で暮らす。
元禄2年「奥の細道」旅に出る。
旅では仙台領・松島逗留で俳句を詠んでいないのは、幕府の伊賀忍者説が言われている。芭蕉の忍者にしても近代文学史に果たした功績は大きい。

           「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」-大阪で客死した。

「日本三景」この松島一帯と広島の安芸と宮島の天ノ橋立つ京都府。
松島は、仁王島・兜島など奇勝と赤松・黒松が茂っている。平安時代には、歌枕として都の歌人達に知られていたと云う。
1689年の芭蕉は「抑ことふりにたれど、松島は 扶桑第一の好風にして 凡 洞庭・西湖を恥ず、、、、」と賞賛している。
松島観光船で巡航が人気。東の大高森・西の扇谷山・南の多聞山・北の富山を「四大観」と云う。

                         五大堂
    

東日本の太平洋沿岸に壊滅的被害をもたらした3.11。
松島は260余の島々に守られ奇跡的に被害は少なかったと言われているが、震度6弱の地震と最大3m80㎝の津波(16時40分第2波)に襲われた。
JR石巻線開業で、後2度目であるが早い復興。

「五大堂・五大明王」(重文)-臨済宗妙心寺派・東北36不動の29番。
伝承ー807年、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まり、円仁(慈覚大師)が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に東方降三世明王、西方大威徳明王、南方軍荼利明王、北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことにより、
「五大堂」と呼ばれるようになった。

1604年、伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建、東北地方最古の桃山建築と言われている。

               福浦島・福浦橋


「坂上田村麻呂」 758-811  奥州平定・征夷大将軍  身の丈5尺八寸・胸1尺二寸・鷹の瞳・睨めば怪獣も逃げ・笑えば赤ん坊もなつく。
死体は、甲冑・剣・鉾と共に、平安京東を向いて立った姿で埋められたと云う。

   松島湾ー焼島・九ノ島・雄島・・・・・仁王島。天候悪い 約250種の植物が自生している。
  

「瑞巌寺」ー828年慈覚大師創建・約700年前の洞窟群が

            臨済宗妙心寺派ー山号ー青龍山瑞巌園福寺
    

本尊ー聖観音    東北代表禅宗寺院ー松島寺とも云われている。
    

1609年「伊達正宗」が再建した。「伊達家」の菩提寺となった。
本堂・書院など桃山建築様式を伝えている。(国宝)・障壁画161画(重文)・庫裏及び廊下等の大型入母屋煙出し切妻造り等重文多

延命地蔵尊ー延命・利生を誓願する地蔵尊。
生まれた子を守り、寿命を延ばし、後世、短命・若死にを免れるため信仰 された。                    
  

「御水主町の民家」
瑞巌寺の東に隣接した御水主町は、仙台藩主が松島遊覧の際に御座船を操った「水主」が住んでおり、最盛期には48棟があったが、最後に残った

           1棟、   松島町指定文化財に
  

「円通院」
天の庭・地の庭で構成されている。天ー松島湾七福神の島を表している。地ー人生・石、生まれたままの割肌、磨く。天水橋が架かっている。
伊達正宗・愛姫ー2代忠宗・徳川家振姫ー「伊達光宗」公

        瑞巌寺と同じ臨済宗妙心派ー山号白華峰山。別名バラ寺とも云われている。
    

円通院霊屋「三慧殿」・小堀遠州作ー堂内・家形厨子には、白馬に束帯姿の「伊達光宗」が安置されている。(重文)

                本尊ー聖観音ー縁結び観音(滝に乗った観音菩薩)
    

        仙台藩2代藩主「伊達忠宗」の次男ー光宗ーの廟所
  

「観瀾亭」ー月見崎にある建造物。(有料)
    

伊達正宗が豊臣秀吉から拝領した「伏見城の茶室を」2代忠宗が「観蘭亭」に移設した。

  

歴代藩主は納涼観月に使用していたと云う。



障壁画21面は、狩野山楽筆という。

狩野山楽 1559-1635  
江戸前期の狩野派の画家・近江蒲生郡生。
豊臣秀吉の近侍木村永光の子。姓は木村、名は光頼。
狩野永徳に学び養子となる。2代将軍「徳川秀忠」の用命を受けて画壇の重鎮として活躍した。筆法は強く装飾的で人物と云う。

                  園内には、松島町の博物館


庭内は史料・貝塚・等が展示されていた。

「セコイヤの化石」
ギリシャ語・(セコイヤスギの属名)が語源。
「メタセコイヤ」という名前になった訳は、昔は「セコイヤ」は化石でなくては見つからなかったので、化石植物と考えられていた。しかし、
1945年に中国四川省で生き残っていたことが確認され「生きた化石」として世界中で注目。
観瀾亭のセコイヤの化石は、明治天皇御行幸の折に、青葉城から移したもの。
    

観蘭亭建物は、東西に向き京間18畳2室で四方縁をめぐらした簡素な建築であったと云う。

    

床の間の貼付絵や襖絵は、壮麗な極彩色で描かれ、柱間1間6尺5寸の京間など桃山時代の建築で貴重という。

  

記録には、藩主・姫君・側室など松島遊覧、幕府巡見等宿泊接待の施設「御仮屋」に使用されていた。

「どんぐりコロコロの石碑」
「青木存義」 1879-1935 松島出身の唱歌作詞家・小説家(我が人妻等)・国文学者 東京帝大・東京音大教授等。
    

次回は、石巻方面へ。

冨士山荘  秋のみのり

2015-10-11 | 富士山麓日記

秋の気配も濃厚となり、沢山の実りの秋を迎えました。
毎年10月と思っていたのですが、今年は9月下旬5日間も滞在しました。
収穫は以下の通りです。

まだ雪も無く夏の富士山、1合目からです。


十五夜と云うのでお饅頭とすすきを飾り準備していましたが、月は雲にさえぎられて見えずじまい。


みょうががこんなに生い茂りました。どんどん増えるので嬉しいのですが、4・5年に一度は寒さに絶え兼ねて冬が越せません。
何しろここはマイナス15℃にもなるのです。春が来てほかの新芽が出てきてもみょうがは出てこない年があるのです。
ここに10年来住んでいますが、いままでに2回ありました。そしてまた東京から苗を植えるのです。




栗拾い!!今年もたくさん拾いました。特に9月と云う事でまだ人が入ってなかったのですね!山荘地内の道路や山林の中に
落ちているのです。
でも落ちたらすぐ拾わないとすぐ虫にやられてしまいます。不思議に落ちたばかりの栗は色艶が違い地面をにらみながら
歩いていると目立つのです。


あまりに沢山採れてこれを食べたら太る――と、何か保存方法は?冷凍?美味しくない!
そして思いつきました。栗ジャム!!よくモンブランなどケーキに渦巻でのっている栗。
作りました!大変でしたよ!でも山荘では暇ですから!
1、まずゆでます。
2、湿っているうちに包丁で真ん中を切ります、
3、スプーンなどでえぐり出します。
4、鍋に水、栗の中身、砂糖、白ワイン(少々)で煮ます。
以外に少なくならずたくさんできます。


今年はきのこが当たり年とか、沢山採れたのですがきのこ鍋にして食べてしまいました。
このきのこだけは食べられると教えていただいたのでいつも採取するのですが、
他にもいろんなのが出ていますが怖いからやめています。


紅葉の始まりです。山の上は早いです。


明け方東京に帰ります。

塩釜神社 東北の旅4

2015-10-08 | 気まま旅
宮城県塩釜市は、県の中央、仙台市と松島の中間に位置し、仙塩地区の中心の1つ。
神社とマリンゲート塩釜と旧亀井邸と水産市場と塩釜神社別当寺「勝画楼ー藩主のお休み処」燈明台の礎石のみ残る、と仙台ゴルフ場などがある。
松島湾と松島丘陵に囲まれており、平地のほとんどは埋立地で、市街地は、埋立地が6割、丘陵地が4割という。
この狭い可住地に密集して人が住んでいるため、ロードサイド店出店に適した土地がなく、減反政策で土地に余裕があった利府町や多賀城市にロードサイド店が多く進出するようになり、仙塩地区の商業の中心としての地位が奪われ、塩竈市中心部のみならず郊外部の商業も低迷していると云う。
市のアーケード街ではシャッターを閉めて閉鎖した店舗が目立つ(シャッター商店街)。
観光による経済発展の為に設けられた旅客船ターミナル「マリンゲート塩釜」も、テナントが次々と撤退し赤字経営が、原因は、多賀城市や利府町といった周辺地域や郊外に大型ショッピングセンターが次々と誕生した為に集客力が著しく落ちたためとされているが、
平成19年、にはJR本塩釜駅周辺の環境を一斉に整備しており、旧国鉄貨物ヤード跡地に「マックスバリュ」を核としたイオンタウン塩釜ショッピングセンターをオープン。

「塩釜港」-水産業が盛んで、生マグロの水揚げ、蒲鉾など魚肉練り製品の生産は日本一である。1 km²あたりの寿司屋店舗数、人口あたりの寿司屋店舗数も日本一多いと云い、関東・関西からも味を求めて、観光客が増えてきたと云うが。
 
東日本大震災は、JR石巻線全面開通等で復興が進んでいるようだった。

              塩竈神社の表参道にある202段の石段
    

「鹽竈神社」-神紋「塩竈桜」・正式名称を「志波彦神社鹽竈神社」神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜が。

武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
820年、「弘仁式・主税式」ではー「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
宇多天皇の御代、仁和4年の888年、に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすとあり、神社へは、1017年、後一条天皇即位の際に遣わされている。
中世、歴代の領主から崇敬され、「前九年の役」および「後三年の役」を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると
陸奥国の支配権は奥州藤原氏のものとなり、1186年、「竹城保司」あて所職安堵の下文や1187年、に「和泉三郎忠衝」より奉納された

「鉄燈」は、神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。
奥州藤原氏が1189年、に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた 1193年、文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる。

1190年、伊沢家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊沢氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。
戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であったと云う。
14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀国府の政治的求心力は低下した。
これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。
それに代わり陸奥国の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、「斯波家兼」が
文和3年(南朝の元号では正平9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。
奥州管領の吉良貞経が延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神楽勤仕などの立願を行い、さらに竹城保を寄進している。
「諸国一宮神名帳」には、ー陸奥国の一宮ーは「鹽竈大明神」と記されている。

     日本三大桜ー山高神代桜・根尾谷湊墨桜・伊佐沢の久保桜ー
    

「奥六郡」-律令制下に陸奥国中部・北上川流域(東北地方太平洋側、後の陸中国)に 置かれた
「胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡」の六郡の総称。(現在の 岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に当たる)

「前九年の役」
平安後期、奥六郷地域は、在地豪族「安倍一族」支配下にあった。11世紀勢力拡大(安倍頼時)は南進し「藤原登任」を対立し1051年大敗。
朝廷は、河内源氏・源 頼義を陸奥守に任じ、派遣ー安倍氏大赦を図るー頼義は「奥州鎮守府将軍」も兼ねた。

    

しかし、1056年両者の和平は破られ、戦乱が勃発する。
「後三年の役」
陸奥守は、頼義の嫡男「義家」・清原氏は1087年滅亡、終結。しかし、朝廷の許しを得ていないで戦ったと「義家」解任される。
これから日本の歴史大きく影響していく。

仙台藩「林子平」は、長崎で天文や地理を学び、塩釜神社に日時計を奉納。
西洋流を 象徴するかのように、文字盤の目盛りはローマ数字で書かれ、日時計は、神社 の博物館に展示。

銅灯籠              ホンモノは博物館、レプリカが屋外 と聞く(1790年頃)
    

「志波彦神社」
神社は冠川(七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社。
中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要な城がおかれた、
宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。
1695年、に書かれた縁起によれば、天智天皇3年の665年、に始めて官幣が使わされたとされ、往古国主が重要視した大社として社家7人がいたとする。
同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり。
「農耕守護・殖産・国土開発の神と伝えられている」

清和天皇の859年、に正五位下勳四等から従四位下に神階を進め 927年、には「延喜式神名帳」へ名神大として記載されている。
朝廷からも崇敬されていたが、中世以降は衰微して行く。
1675年、の再建時には6尺四方の小さな社殿となって岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀されたと云う。
明治時代、国幣中社に列せられたことを機に大きな社殿を造営する機運が生じたが、現・八坂神社境内では社地が狭かったため鹽竈神社境内に遷宮した。
八坂神社境内の旧社殿はそのまま残し、1877年の明治10年、分霊して「冠川神社」として摂社となった。

松尾芭蕉も「奥の細道」に綴るー文治燈籠
    

「吹くかぜを 勿来(なこそ)のせきと おもへども みちもせにちる 山桜かな」-源 義家ー

常陸国・陸奥国(現在のいわき)に置かれた「な来そ・関」ー「来てはいけない」の意味。義家が「後三年の役」の帰路詠んでいる。

「鋳銭釜」- 仙台藩の鋳銭事業は、幕府の許可を得て、1637年、(栗原郡三迫で始まり、詳細は不明ー幕府はまもなくこれを禁じた。
その後も藩は再三に渉り幕府に鋳造願いを出し、1726年、領内産 、銅のみで鋳造することを条件に許可された。
この時、北上川河口の水上交通の至便な石巻に鋳銭場を設置し、1727年、より鋳造を開始し、1764~1772年以降は、鉄銭も作るようになり、
明治維新まで続く。

「甑炉型・鋳銭釜」は、この石巻鋳銭場で使用されたもの。
    

「塩竈みなと祭」、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて
松島湾を巡幸する。東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られる。




重用文化財ー各別・本殿、幣殿、随身門・鳥居・棟札・太刀等。
比較的装飾を抑えた「鹽竈神社」とは趣を異にする。
朱黒の極彩色漆塗りで、拝殿は桁行5間、梁間3間。内部は石敷きで、左右と背面には高欄付きの廻縁をもつ。
屋根は入母屋造り、銅板葺き。秋には拝殿前の金木犀の花が香り、白萩が咲き乱れます。
    

志波彦神社が鹽竈神社境内に遷された理由。
鹿島・香取両神宮の御祭神(鹽竈神社左右宮御祭神)の東北地方平定に協力された神と言われる。

                境内から見た塩竈港
    

国の天然記念物に指定されているヤエザクラの一種の鹽竈(シオガマ)ザクラ27本をはじめ、
ソメイヨシノや八重咲きのシダレザクラなど200本あまりが春を彩る。
鹽竈ザクラの特徴は、めしべが変化して2枚か3枚の青い葉となり、花軸が短く、花弁は35~50枚ほどで縦じわがあり、先端が2~5のノコギリ状になっている。境内の桜の中では花期が5月。
                     案内板から
  

                    JR東塩釜駅
  

次回は、松島海岸へ。

仙台八幡宮 東北の旅3

2015-10-04 | 気まま旅
江戸時代,国分町通(旧奥州街道)と中央通(旧大町の東西軸)が直交する「芭蕉の辻」が中心。四隅に同じ構造の楼閣が建てられ、城下一の商業地として賑わったと云う。
明治時代になると、芭蕉の辻周辺には銀行などが出来、業務地区化し始め、物販・サービスについては、国分町通りの1本東を南北に並走する東一番丁や、芭蕉の辻より東側の大町沿いが担うようになる。
東北本線が開通すると仙台駅前(西口)の名掛丁などに集積が進み、仙台市電開業後は、芭蕉の辻と仙台駅とを結ぶ南町通りの業務地区化が進んだ。
1941年に、芭蕉の辻の一角に日本銀行仙台支店が置かれ、戦後に復興道路として新規に開通した広幅員の「青葉通り」が、「芭蕉の辻」と仙台駅を
繋ぐ道として金融街・オフィス街として発達した。
復興道路として広幅員化した東二番丁(国道4号)や広瀬通りなども次第に業務地区に組み込まれていった。
市が政令指定都市化したバブル景気期には、市地下鉄南北線開通により都心部は路線沿いに拡大し、官庁街の勾当台公園周辺地区と都心の業務地区が
一体化して、南北に北四番丁駅(勾当台地区北側)から五橋駅(五橋地区)までオフィスビルが立ち並ぶようになった。
2000年前後には、仙台駅東口の宮城野通が「アベニュー」と呼ばれ、IT企業を中心に業務機能の集積が進んだ。
現在は、一番町と仙台駅西口が2つの極となっているが、旧城下町部分(仙台輪中)を中心に面的に広がりを持って複合都心を形成している。

江戸時代、仙台藩の事務処理を行う施設は、仙台輪中の西端に位置する「仙台城二の丸」を中心に、広瀬川の右岸沿い段丘上に集中していた。
戊辰戦争に敗戦すると、仙台城は官軍に占領されてそのまま常備軍が置かれ、仙台鎮台→陸軍第二師団→進駐軍占領→東北大学川内キャンパスと変遷している。広瀬川左岸沿い段丘崖直上の片平丁に集中していた上級家臣などの屋敷も国が利用し、偕行社、裁判所、第二高等中学校、東北帝国大学などが設置され、西公園、仙台高等裁判所・仙台地方裁判所・仙台家庭裁判所、東北大学片平キャンパスなどに利用されている。

                  仙台駅前は、高層ビル街に


                    国立 東北大学


「政宗の四ツ谷用水・下水道」ー八幡宮鳥居近く看板が立っている。
仙台の下水道の歴史は、藩祖伊達政宗公の命によって造られた「四ッ谷用水」。
用水の建設は、北上川改修や新田開発等に名を残した川村孫兵衛重吉が指揮をとったと伝えられ、取水堰やトンネル、掛樋など、
当時としては最高水準の技術を用いたもので、現在も使われいると云う。
広瀬川左岸・郷六に堰を築き、八幡町から北六番丁を通り、宮町東方の梅田川まで水をひき、
上水道、下水道、農業用水、防火用水などの用途を兼ね、街中で支流に分かれ、地下水を潤し、生活、防火、農業、染物、散水に使われる。
水車をまわし、雪捨場にもなり、排水路の役割も果たした。

                   旧四ツ谷用水跡


「大崎 八幡神社」
     神社は、八幡4丁目に鎮座ー仙台駅北西に約3.5kmの丘陵
    

「大崎氏」
陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した
斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族。斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。
支流には、最上氏、天童氏などがある。
                   神社ー大鳥居


祭神ー応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。
創建ー1057年、中央には大崎氏の尊崇を集めて「大崎八幡」と称されるようになったと云う。

           小正月の1月14日は、裸参りーどんと祭
    

国宝ー社殿(本殿・石ノ間・拝殿)   桃山様式の極彩色権現造り。
   拝殿素木造り長床がある。
                  伊達正宗が建立。
   

「龍寶寺」
文治年間の1186年、伊達家の初代朝宗公が、伊達家の祈願寺として開かれたお寺。
寺は、常陸の国より 福島県 梁川、山形県 米沢、宮城県 岩出山と、伊達家と共に移動し、1598年頃、初代仙台藩主伊達政宗公の仙台築城に伴って
現在の地に移された。

藩政時代は城下最大の門前町を与えられ、龍寶寺に属していた寺院は約70ヶ寺という大寺院であった。
    

本尊の木造釈迦如来像は、重要文化財に指定。4月8日の「花まつり」1月14日のどんと祭に開帳。
     

仙台市には、面白い町名が多い。
「丁切根(ちょうぎんね)」仙台城下の南の入り口に設けられ「丁切根」とよばれた木戸は、朝6時に開き、夕方6時に閉じられる決まりで、河原町の針生家が木戸番として鍵を預かっていた。
針生家は、幕末には蒟蒻の専売権を許され、仙台の丁切根は、ほかに八幡町、堤町、原町にあったと云う。河原町の南にいまでもその跡があり,昔をしのべると云う。

「町方二十四カ町(まちかたにじゅうよんかちょう)」仙台城下での侍屋敷と町屋敷は、まずその名で区別されていた。侍屋敷には「丁」の字が使われ、足軽や職人、町人の屋敷には「町」(まち)の字が使われた。
江戸時代中期以降、仙台城下には主要な町人町が二十四ほどあり、これを総称して「町方二十四カ町」とよんだ。「町方二十四カ町」には序列があり、町政に際しては重んじられていたようである。序列の理由ははっきりしていない。
町方二十四カ町の序列ー1.大町三四五丁目・2.肴町・3.南町・4.立町・5.柳町・6.荒町・7.国分町・8.本材木町・9.北材木町、、、、、、。

「花壇町」広瀬川沿いにある。正宗は、花が好きであったと云う。この一帯に城に出入りしていた「花栽培」の店が集中していたと云う。

    

「多賀城市」
8世紀に多賀城が築かれた。
多賀城創建時、陸奥国は一時的に石背国・石城国・陸奥国に三分され、分割された陸奥国は、今の宮城県よりやや狭い範囲で、多賀城は
そのほぼ中央。それまで郡山遺跡にあった陸奥国府は、724年に造営なった多賀城に移ったと推定。
分割は数年後に改められ、ふたたび今の福島県から宮城県に及ぶ広い陸奥国に戻ったが、多賀城はその広い陸奥国の国府であり続けた。
城には9世紀初めまで鎮守府も置かれ、出羽国まで含めた東北地方の政治・軍事の中心都市。
日本全体の中でも、西の大宰府に対応する東の政治都市として重要な位置に、城郭の南には町が広がり、当時七北田川が合流して流量が多かった
砂押川に橋がかけられ、舟による運送があったと云う。
奈良時代から平安時代はじめまで断続的に続いた蝦夷との戦いの中で、780年、には伊治呰麻呂の反乱で攻め寄せてきた軍勢により略奪放火されたが、
再建している。
中世だは、城は平安時代の10世紀半ばまで機能したが、発掘調査ではその後国府にあたるような規模の痕跡が見つかっていない。
多賀国府は南北朝時代まで依然として史料に現われるので、国府は多賀城のそばで中世都市の遺跡がある仙台市宮城野区岩切あたりに移動したと考えられている。1189年、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、頼朝は側近の伊沢家景と葛西清重を奥州惣奉行に任命した。
伊沢家景は陸奥留守職となり、多賀城の留守所長官として現在の利府町に定住した。
子孫は、留守氏と呼ばれ、代々、東北地方を支配し、室町時代、管領家・斯波氏の一族である大崎氏が奥州探題に任命、現在の大崎市を本拠地として東北地方を支配したと云う。
                  JR仙石線駅
 

次回は、塩釜神社・松島方面へ。