syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

少年時代

2016-10-15 | 思い出



 上野動物園前の銅像


昭和23年3月、新橋演舞場で「東をどり」が戦後初めて披露された。
進駐した連合軍が続々と東京に入ってきた。特に銀座はアメリカ兵でにぎわいを示し年頃の日本女性達は、背の高い外国兵士に急に元気ついた。
進駐軍には、白人兵、黒人兵、二世兵、大男、小男と初めて見るSも興味があった。
この連合軍と4年間も太平洋で戦っていたのだという事が信じられなかった。

進駐軍が上野動物園前の道路の舗装に来た時、彼らの作業のスピードに驚いた。
ローラーで地ならししながら,その後に砂利を満載したトラックが続き、その後にコールタール車、ローラー車、でみるみるでこぼこの道路が見事に変身、あの機械化され無駄のない作業のアメリカには、日本が負けたわけが解った。
Sは、ある日、学校の帰り道で化粧の濃い女性が、ハンバーグをくれた。
常に腹を減らし、食いしん坊のSは、無条件でその場で食べ、その美味さにびっくり。
その女性は、肌の白い美人系で、その家は、お手伝いさんと70才位の父親の三人住まいの広い庭付きの一戸建てで老人とは、風呂屋で数回会っている。
それから数ヵ月後、友達が、「この家パンスケの家だぞ」と云って、石を投げ込んだ。
その家、夜になると外人が出入しているらしい、翌年老人は亡くなった。
昭和31年に売春防止法が公布。
「未亡人」と云う名のサロンが・・・「「戦争未亡人」という言葉は、(男社会の女性に対する抑圧性を、むきだしにした言葉である)
多くの売春女性が、死亡、病気で多数犠牲になったことを忘れてはならない。


1958年の昭和33年4月・売春防止法は施行における猶予期間を経過し、以降も売春の業を営む者に対しては刑事処分が課せられることになった。
が、当時日本の主権下になかった、都の小笠原諸島およびアメリカ合衆国による沖縄統治においては適用されず、小笠原諸島は、昭和43年6月
沖縄県では、本土復帰に先立つ、昭和45年、に一部施行および周知が行われ、昭和47年5月、沖縄返還より完全施行されている。

戦後、警察署では、特殊飲食店として売春行為を許容、黙認する区域を地図に赤い線で囲み、これら特殊飲食店街「赤線・赤線地帯」と呼んだ。
これに対して特殊飲食店の営業許可なしに、一般の飲食店の営業許可のままで、非合法に売春行為をさせていた区域を地図に青い線で囲み、
「青線・青線地帯」と呼んだ。


N小学校3組50人は、各々の中学校へ、三分の一は私立中学校・三分の一は他地域・越境で区立U中学校・他の三分の一は自動的にN中学校に。
Sは、区立N中学校に進学したー昭和26年。

東京シンデレラ姫に女優の浅丘ルリ子が選ばれている。













上野公園と草野球に

2016-10-13 | 思い出
緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン メイメイ子ヤギが鳴いている・・・・。鐘の鳴る丘、の主題歌。

終戦から3~4年後、上野の山に戦災孤児が1000人以上、、この頃になってやっと国が不忍池に収容保護に乗り出した。あの時の孤児たちはその後どのようにして生きて行ったのか・・・・・。誰も知らない。

時は、東京裁判で戦争を指導した28人のA級戦犯で全員有罪判決、東条英機ほか7名が絞首刑となった。
1949年昭和24年お年玉年賀はがきが一枚2円でうりだされている。 



小学校3年生の頃、初めて象を見た。(昭和24年)タイ国から、「花子」という象が送られて来た。
その時のパレードを前列で見ている。

上野公園といえば、当時、学校が終わると、近所の子等と動物園前の原っぱで草野球などで夢中で遊んだ。旧美術館裏に戦前の軍人の銅像が置かれ、その上に登り滑ったりして遊んでいた。また、休みの日は、朝早く暗いうちに起き、原っぱの場所取りを思い出す。
手縫いのグローブ、バット一本、ボールも2~3個で5・6人で遊んでいたのが、高学年になり20人の少年野球チームに成長した。
Sーは思う、子供の公園は、広い原っぱで云い、遊具など無くても子供たちは、いろいろ工夫し遊べると思うが。
プロ野球では、上原、三原、青バットの大下、赤バットの川上など人気があった。子供の世界では、その絵のメンコが大流行している。
こんなことも、公園で、練習野球をやっていたが、美術館の裏手に像が数個残っていた。その銅像の方で子供達がざわめいていた。
野球を中断し見に行くと、小学3年生位の男の子が銅像の上から滑り落ち、ぐったりしていた。
私たちは、大人のいる動物園に助けを求めた。
すると、職員が数人駆けつけてくれたが後は、どうしたかは。

その頃の歌   ”赤とんぼ”  夕焼け小焼けの赤とんぼ  追われて見たのは何時の日・・・・・・。

        ”七つの子” カラスなぜ鳴くの カラスは山に 可愛い七つの子があるか・・・・・・。 

古来から、ノミは、王候美女を選ばず虱は、下賤な者にしかたからないと伝わるが、これ一理あるという。
疎開先でも苦労させられたノミはどの家庭にも現れ、寝静まると、どこからか現れ、慌てて電球を点け白シーツに見えるのを一ピキ・一ピキ左右の親指の爪に挟んで殺していた。特に虱は、発疹チフスを媒介。戦後200万人以上と予測された発病が幸いに流行しなかったのは、アメリカ連合進駐軍によって
「DDT」殺虫剤が町内で強制された。特に女性の髪の中に卵を植え付ける。

「釈尊の教え」
四聖諦・ 一切苦(苦諦)欲望苦(集諦)渇愛を滅すれば苦も滅する(滅諦)・・境地に至るための方法(道諦)
生老病死・嘆き・悲しみ・苦しみ・憂え・悩み・怨憎に会う・愛するものと離別・求めて得ざるも苦・・・・人間すべて苦の認識。
八正道・修道者は、四聖諦を識り、中道観を得てこれらの聖道を究め、ゆるぎない解脱へといたる。
「正見」-正しい見識 「正思惟」-正しい意思 「正語」-あるがままの真実体を表明する発言 
「正業」ー仏陀は何もかも捨て去る行為
「正命」-正しい生活 「正精進」ー正しい努力 「正念」-正しい集中力 「正定」-正しい心眼を。

連合国軍が検閲を開始した。
東条英機(元首相)が自殺未遂・連合国軍が日本の戦争犯罪人を逮捕・東京の日比谷に連合軍本部が移転
昭和天皇が連合国軍最高司令官マッカーサーを訪問、10月連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置。
GHQにより幣原内閣が発足、憲法改正・五大改革指令を受ける ー五大改革指令ー婦人の解放・労働組合結成の激励・教育の自由化(自由主義教育)
秘密警察及び国民を恐怖にさせる諸制度の廃止 ・経済の民主化・
治安維持法が廃止、憲法問題調査委員会を設置、財閥解体 ・・・。

衆議院議員選挙法の改正(婦人参政権など)、宗教団体法を廃止、戦争放棄と封建制度の廃止 ー昭和天皇が国内巡幸を開始する
第22回衆議院議員総選挙 - 初の女性議員登場、男女平等投票 ・政府は憲法改正草案を発表する 。
1947年5月ー片山哲内閣(日本社会党)が誕生。1948年ー芦田均内閣(民主党)が誕生。全日本学生自治会総連合(全学連)が結成。
1948年10月に吉田茂内閣(日本自由党)が誕生した。-1948年11月東京裁判の判決でA級戦犯、東条英機ら7名が死刑となる
1950-06 ~ 1953年「朝鮮戦争」。警察予備隊(現:陸上自衛隊)が設置された。

  

少年時代の遊び

2016-10-10 | 思い出
昭和22年「パン切符配給制」(現金にするため闇屋に流れた)
小麦粉が配給制になったために、全国にあったパン屋さんは、小麦粉を持参したお客さんに手間賃でパンを焼く。
小麦粉持参でないとパンが売れない事態に。



1947年昭和22年、カスリーン台風が東京直撃し、1930名が亡くなっている。
 
近所にHさんと云う金持ちの医者一族がいた。浅草国際通りで病院を開業して繁盛していた。その息子たち3人とよく遊んび、末っ子とは、ベイゴマ、メンコ,チャンバラ、けん玉、江戸川方面まで魚取り、3本立映画館・・・など。一つ学年が上であったが良く誘われた。
その末っ子が谷中の五重塔で遊ぼうと云いだし、中に入った事があると云う。
恐々二人で、忍び込むと、中は薄暗く、床がギシギシ音を立て、螺旋状の階段が崩れそうで昼間でも気味悪かった。
その五重塔は、幸田露伴の小説で有名な「五重塔」のモデルの塔とは知らなかった。やめればいいのに末っ子、螺旋状の階段で、滑り落ちたのだ。
足をくじき動けないと云いだした、Sは、急いで、親に連絡し大騒ぎに、それからは、親に叱られたのか、遊びに来なくなってしまった。



子供の頃よく遊んだのは、ベイゴマ、メンコ、ビー玉、チャンバラ、トンボとり、凧上げなど。その中のベイゴマの名人が3つ先輩にいた。
近所のがき大将、その名は「ブーちゃん」。
彼のベイゴマの強さは半端でなかった。毎日やすりで磨き込んで、頭にローソクで回転を調整すると云う。
いろいろ遠征して大量に取り上げ我々に自慢していた。
ベイゴマに対しての努力も大変なもの。
ある時、「Dさん」と云う隣町のがき大将が挑戦してきた。
10本勝負で7対3で、当然勝つものと思っていたのが、「Dさん」の勝ちで我々びっくりした。その「Dさん」数年後、盆踊りの櫓の中央で晒しを捲き、上半身を出して大太鼓を打っていた。太鼓の打ち方も手馴れており、女の子にも、人気の男前。

ラジオ連続ドラマ放送「君の名は」、何時も満員の風呂屋もこの時間は空いていた。
君の名はと たずねし人あり その人の 名も知らず 今日砂山に ただひとり来て
浜昼顔に きいてみる・・・・。



君の好きな作家は、、と聞かれれば、「長谷川伸」であろう。
彼が優れた作家だからというだけではない、Sと境遇が似ているからであろう。
彼は、3歳で母と生き別れている、さらに、一家離散と云う逆境の中で成長、
若い時は、不良仲間と付き合いスリの巾着切りを手伝っている。

その後自制心によって立ち直る、、彼曰く、「自分の意志で誘惑を断つこと、これも立派な行為」と云っている。「瞼の母」「一本刀土俵入」「日本捕虜史」などは、彼の生い立ちが生きている。とくに「瞼の母」の芝居を見るとどうしても涙が止まらない。


当時の映画スター、笠置シズ子、美空ひばり・中村錦之助・片岡千恵蔵・坂東妻三郎・長谷川一夫・エノケン・古川ロッパ・伴ジュン・原節子
高峰秀子・三枝子・東千代介・大河内伝次郎・三益愛子・・・・。片岡千恵蔵「二十面相」の物まねが流行った。
         西部劇の洋画もよく見ている。








金平糖とひよこ

2016-10-08 | 思い出


日本伝統駄菓子の定番「金平糖」
兵隊さんが携帯保存食、日持ちがする糖分の補給に優れ、戦後糖分に飢えていた子供には最高のお菓子であった。
その他にキャラメル・ドロップが。

昭和23年3月、新橋演舞場で「東をどり」が戦後初めて披露された。進駐した連合軍が続々と東京に入ってきた。
特に銀座はアメリカ兵でにぎわいを示し年頃の日本女性達は、背の高い外国兵士に元気ついた。
進駐軍には、白人兵、黒人兵、二世兵、大男、小男と初めて見る私も興味があった。
この連合軍と4年間も太平洋で戦っていたのだという事が信じられなかった。




進駐軍が上野動物園前の道路の舗装に来た時、彼らの作業のスピードに驚いた、ローラーで地ならししながら,その後に砂利を満載したトラックが続き、その後にコールタール車、ローラー車、でみるみるでこぼこの道路が見事に変身、あの機械化され無駄のない作業の彼らには、日本が負けたわけが解った気がした。

その頃、Sは、母を亡くし落ち込んでいた頃。
ある日、学校の帰り道で化粧の濃い派手な女性が、ハンバーグとチュウインガムをくれた。
無条件でその場で食べて生まれて初めての味にびっくり。その女性は、肌の白い日本美人系であった。
その家は、お手伝いさんと70才位の老人の三人住まいの広い庭付きの一戸建て、老人は風呂屋で数回会って知っていた。
それから数ヵ月後、友達が、この家「パンスケの家だぞ」と云いながら石を庭に投げ込んだ。
また、「夜になると外人が出入している」とも言った。この老人は、女性のお父さんであった。
数日たち、その女性と会い、石を投げ込んだのは友達と弁解し謝ると、一度家に戻り、ちり紙に包んで、「金平糖」を差出し、「正直で偉いわ、、」と褒めてくれた。半年後、その女性は、結核で亡くなり、家は売りに出されていた。




上野動物園前噴水広場の路上で、ひよこを売っているおじさんが居た、このおじさんに店番を頼まれた。そのお礼にと、二羽のひよこを貰った。おじさんがオス、メス一羽づつだから、大事に育てるんだよと云い紙袋に入れてくれた。
嬉しかった、急いで家に持ち帰り、段ボール箱にぼろ布を入れ豆電球で育てた。
だが一羽は一週間で残念ながらメスが死んでしまった。
兄は、二羽ともオスで、メスではなかったよと、素っ気なく言った。
残った一羽を大事に育ってた。貝殻を砕いたり、八百屋に行き大根の葉などを貰い餌にした。
日に日に大きくなって、餌の量も多くなり世話もかかるようになっていった。
古材で小屋まで作ってやり、立派なにわとりに成長し、大声で鳴くようになった。
日中は庭にだし、駆け回り、檻に入れるのに一苦労、近所の人が見に来るほど珍しく自慢していた。
ある日、野良猫が檻を破り襲いかかった。
にわとりも必死で檻の中で逃げ回っていた、私も一生懸命猫を追い出そうとしたが、
いったんかみついていた鶏の喉を離そうとせずそのまま咥えて、我が家の縁の下に潜り込んでしまった。
にわとりはグッタリして、血だらけであった。羽が四方に散り、すさまじい光景であった。猫は私を無視した。
私はただ茫然として見ているだけであったが、咄嗟に家の中に駆け込み、パチンコを取出し猫を目掛けて数発撃った。
その一発が胴体に当たり、声を上げて逃げていった。
頭の無いにわとりを取出し、急いで肉屋で鳥鍋用に調理してもらった。その夜の夕食は家族で鶏肉鍋を食べた。
この日から私は猫嫌いになった。が、45歳の夏に娘が子猫を拾い飼いたいと云いだし、13年間我が家に置いた。
可愛い娘の為耐え抜いたのである。



昭和26年、マッカーサー解任
フィリピンで日本に完敗したダグラス・マッカーサーは、日本に恨みを持ち、復讐心に燃えていた。
後に日本が原爆を落とされて負けて、マッカーサーがやってきたとき、彼はその恨みを晴らすべく、「日本は悪いものだ」と信じきって東京裁判をやらせ、自分たちの意向を反映させた日本国憲法をつくらせて日本を骨抜きにした。
が、朝鮮戦争が起こって事態は一変する。
そのとき彼は初めて東京裁判で弁護側が言ったことがすべて本当だったのだと気づく。
そして満州にも支那に対しても、日本がやったようにやらなければならないという結論に達する。
しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任してアメリカに戻した。
その後、アメリカはマッカーサーが予言したように朝鮮半島で負け始め、なんとか38度線まで押し返したところで戦争は終結する。
そしてアメリカに帰国したマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会という最も公式の場で、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語ったのである。
―戦後50年毎日ムックより―

昭和天皇の食料事情演説

2016-10-05 | 思い出

昭和21年5月
祖国再建の第一歩は、国民生活、とりわけ食生活の安定にある。戦争の前後を通じて、地方農民は、
あらゆる生産の障碍とたたかい、困苦に堪え、食糧の増産と供出につとめ、その努力は、まことにめざましいものがあったが、
それにもかかわらず、主として都市における食糧事情は、いまだ例をみないほど窮迫し、
その状況はふかく心をいたましめるものがある。
これに対して、政府として、直ちに適切な施策をおこなうべきことはいうまでもないのであるが、
全国民においても、乏しさくをわかち、苦しみを共にするの覚悟を改にし、
同胞たがいに助け合って、この窮迫を切り抜けなければならない。

戦争による諸種の痛手の回復しない国民に、これを求めるのは、誠に忍びないところであるが、
これを切り抜けなけれは、終戦以来全国民の続けてきた一切の経営はむなしくなり、平和な文化国家を再建して、
世界の推運に寄与したいという我が国の厳粛かつ神聖な念願の達成も、これを望むことができない。
この際にあたって、国民の家族国家のうるわしい伝統にいき、区々の利害を超えて、現在の難局にうちかち、
祖国再建の道を踏み進むことを切望し、かつこれを期待する。




第一回参議院選挙ー社会党47・自由39・民主29・国民共同・共産・無所属108「中野重治・山本有三・羽仁五郎・・等が」。
昭和22年5月ー日本国憲法施行。
    6月ー片山哲内閣成立。
9月ー国は、パン切符配給

共産党、徳田球一は、
フアシズム及び軍国主義からの世界開放のための、アメリカ連合軍日本進駐にとって日本における
民主主義革命の端緒が開かれたことに対して我々は、感謝を表す。米・英及び連合国を支持。
我々は、天皇制を打倒して、人民共和政府の樹立にある。
天皇の宮廷、行政官僚、貴族、寄生的土地所有者及び、資本家の結合体を掃する。
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ー戦後50年毎日ムックよりー

映画「鐘の鳴る丘」
N小学校全生徒が、5・6学年全生徒に、近くの映画館で「鐘の鳴る丘」をみた。Sは5年生。
戦争孤児収容施設の生活・仲間数人で施設を抜け出し東京上野へ、、、浮浪児に。最後は、鐘の鳴る丘 緑の丘の赤い屋根、施設に戻る話。
上映中女の子のすすり泣き。


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