syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

真鶴 三ツ石 荒井城址公園

2017-06-18 | syu散歩

「石橋山の合戦」-1180年源頼朝と大庭景親の戦い、夜襲を受けた頼朝軍は惨敗する。
平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いで、「治承・寿永の乱」と呼ばれる諸戦役のひとつ。
源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになる。

「大庭景親」 1180年 鎌倉景政の曾孫・「保元の乱」には兄景能と共に源義朝に従い、白河殿を攻撃して、後白河天皇方に勝利を。
頼朝挙兵では、平家の恩に報いるため、敵味方になっている。石橋山では、3000騎を率いている。

           三ツ石、三つの巨岩 千潮なら歩いて渡れる


頼朝は流人の身のまま20年以上を過ごしていて、その間読経に精進していたと言われている。その間に頼朝は北条時政の娘政子を妻とし一女をもうけ、伊豆国の豪族北条氏が流人の頼朝の庇護者となる。

治承4年(1180年)後白河法皇の子の以仁王は摂津源氏の源頼政とともに平家打倒の挙兵を決意。諸国の源氏、藤原氏に令旨を送り蜂起を促した。その使者となったのが頼朝の叔父の行家である。4月27日に行家は蛭ヶ小島(または北条館)を訪れた[1][2]。行家はほかへも令旨を届けるためにすぐに立ち去った。

5月、挙兵計画が発覚し、以仁王と頼政は準備不充分のまま挙兵を余儀なくされ、平家の追討を受けて戦死(以仁王の挙兵)。6月24日、京の三善康信(頼朝の乳母の妹の子)が平家が諸国の源氏を追討しようとしているので直ちに奥州藤原氏の元へ逃れるようにと急報を送ってきた。また、源頼政の孫の源有綱が伊豆国にいたが、この追捕の為清盛の命を受けた大庭景親が8月2日本領に下向して頼朝らの緊張が高まった[3][4]。27日に京より下った三浦義澄、千葉胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告する。

一方この頃伊豆国の元の知行国主であった源頼政の敗死に伴い、伊豆国の知行国主は平清盛の義弟平時忠となり、それによって伊豆国衙の実権は伊東氏が握ることになり、源頼政に近かった工藤氏、北条氏は逼塞していくことになる。またその頃治承三年の政変に伴う知行国主の変更により、坂東各地では新知行国主に近い存在となった平氏家人や平氏方目代により旧知行国主系の豪族達が圧迫されており、頼朝が挙兵した場合旧知行国主系豪族の協力が見込まれることが予想できた[5]。



「源頼朝股肱の臣 土肥実平」
関東に勢力を伸ばした平氏の一族・相模国土肥郷(現 神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。
源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となる。
富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られ、平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられている。
土肥氏と西国との関わりはここに始まり、平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を続けた。
「小早川家の祖」
湯河原町のJR湯河原駅周辺は、かつて実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残されている。
駅前広場に館跡碑と、実平夫妻の銅像が建てられ、土肥氏の領地はこの近辺だけでなく、小田原市内にも及び、実平の嫡男・遠平は、現在の小田原市内にあった早川荘からとった小早川を名字とし、また小田原に城を築いている。
遠平の嫡流は相模の領地を継いで「土肥」を名乗り、庶流は安芸の領地を継いで「小早川」を氏とし、土肥家は鎌倉時代に勢力を失いますが、小早川家は西国で勢力を固め、山陽を代表する武家となる。
土肥一族が備前の地の領主に返り咲くのは、1600年の関が原合戦後のこと、「宇喜多秀家」に変わって小早川秀秋が備前・美作に封じられ、秀秋は2年足らずで病没、鎌倉以来の名門小早川家は断絶する。「土肥氏菩提寺ー城願寺」



真鶴半島長さ3km・町の面積7km2と小さい。
箱根外輪山の溶岩流が半島の原型、そのため、採石場が集中し、石材加工団地が、墓石の研磨等が盛んで、江戸城用石調達の命を受け、越前大名
黒田長政が開いたと云う。鎌倉時代から利用されていたとある。「伊豆石」
現在でも年商20億円の生産額と云う。「割栗石・間知石(石垣)・割石(庭)・角石(墓石)・砕石など。

                        石の文化、真鶴


                   相模湾漁港町、かっては、ブリ漁が。


                  7月には、貴船祭がー日本三大船祭(貴船神社)


「荒井城址公園」
               湯河原土肥城の出城(監視城)では、?。






            頼朝・土肥氏等7人は、真鶴岩海岸から千葉県に逃亡している。

新緑の陣馬の滝 澄んだ水 syu散歩

2017-06-16 | 富士山麓日記
経の富士山6/3雪はまだだいぶ残っている。









陣馬の滝





五斗目木川 澄んだ水





遠照寺と太鼓石 陣馬の滝に連なる頼朝の話。





田貫湖 富士山は見えない、裾のみ


建久4年の1193年、
「源頼朝」は、富士の裾野で武将と数十万人の兵を集めて盛大な巻狩りを。
この最中、工藤祐経の陣屋にて夜半、曽我十郎祐成、曽我五郎時致の兄弟が親の仇討ちを果した。
「曽我兄弟の仇討ち」ーエ藤祐経の墓は、富士の巻狩りの際、工藤祐経の陣屋が置かれた場所(富士宮市上井出361、音止めの滝上流部東側)にある。

工藤祐経の墓所を代々守り続けてきた地域として「工藤祐経供養祭」を4月の「狩宿さくらまつり」の日程に合わせて開催していると云う。





吉田茂邸 庭園 syu散歩

2017-06-14 | syu散歩

県立大磯城山公園  「旧吉田茂邸地区日本庭園」
国道一号線を挟んで旧三井別邸地域とその向かいが、「旧吉田茂邸地区日本庭園」となる。

面積ー約3000m2
兜門(講和条約門)・芝広場・中池・上池・心字池・藤棚・十三重層塔・大滝・小滝・云い落ちの滝…バラ園。

                 久恒秀治設計の庭


吉田茂銅像はサンフランシスコを向いて立っているという。

                     高台では、相模湾一望できる


「吉田茂」 1878-1967 政治家 岳父は牧野伸顕。
外務省、奉天総領事・外務次官・駐英大使、東久邇・幣原両内閣の外務大臣ー1946年総理大臣に就任(片山・芦田内閣をはさんで、第五次内閣
まで政権を担当した。1951年サンフランシスコ講和会議首席全権委員として出席し条約・日米安全保障条約締結し経済復興を優先した。
ワンマンの非難も浴びている。(戦後初の国葬)



「片山哲」1887-1978 9か月で倒閣した社会党総理、憲法護憲国民連合の組織を。
「芦田均」1887-1959 大使館参事官、満州事変で辞職している。ジャパンタイムス社長に、昭和電工疑惑事件で倒閣、不運な総理。
「鳩山一郎」1883-1959 日ソ国交回復を実現、敗戦後自由党結成総裁に、脳梗塞で倒れ悲劇の人と呼ばれた。吉田首相退任後首相に
「岸信介」 1896-1987 東条内閣の商工大臣、満州開発を推進、1960年日米安全保障条約改定強行し安保闘争で退陣。
池田勇人・佐藤栄作・田中角栄・三木武夫等が続く。



吉田茂は晩年ここ大磯で過ごした。


建物から富士山を眺めるのを楽しんだと云う。


庭園には、梅・木蓮・桜・ツツジ・藤・菖蒲・アジサイ・スイレン・百日紅・萩・紅葉・椿などが


「松籟庭」黒松の林が広がっていた。「籟」とは、笛を意味し松林を吹く渡る海風の音。











昭和28年頃の「戦力なき軍隊」発言・馬鹿野郎解散が。
国会答弁で西村氏が「私は欧米政治家の見解を聞いているのではない・日本国首相として答弁されたい」
吉田首相は、総理大臣として答弁 中腰で「無礼なことをいうな・・・・」
西村「興奮せず答弁を・・・。





次回は、真鶴方面へ。

県立大磯城山公園 syu散歩

2017-06-12 | syu散歩

「海を見下ろす 湘南平」
高い山ではないが相模湾を一望できる眺望は素晴らしく、桜の木も多く花見の季節は家族連れで賑わう。
平塚市の高麗山(168m)の公園の一部で、北側の旭地区出縄から地続きでバス通り、高麗山公園と泡垂山の公園全体を、湘南平などと称される。
高麗山公園内にはハイキングコースが整備、四季を通じて家族連れや中高年ハイカーが訪れ、近隣の小学校では格好の遠足コースとなっている。
泡垂山から高麗山に向かう途中には浅間山があり、浅間神社と一等三角点がある。
平らな山頂に現在はレストハウスとテレビ塔(平塚テレビ中継局)が、「関東の富士見百景」、「かながわの景勝50選」、「かながわの花の名所100選」、「かながわ未来遺産100」、「かながわの公園50選」、「夜景100選」及び「平塚八景」に選ばれている所。
「泡垂山」の地名は
曽我物語に由来し、虎御前のもとにいた兄十郎の危急を聞き曽我の里から駆けつけた弟五郎が近道をしようと馬でこの山に駆け上ったところ山頂付近で馬が泡を垂らしたところからつけられたという。またその時に馬が前足を踏ん張った場所から泉が湧きでたとされ、のちに十郎が虎女への文をこの水で墨をすりしたためたことから「十郎の硯水」として現在も湘南平東側入口の横に史跡として残っている。
昭和の初期頃まで此処には茶店があったという記録もあり、昔の日本人の曽我物語好きを偲ばせる。
昭和16年、には高射砲陣地が造られ、終戦前のB-29による首都圏への爆撃の時、目標にした富士山からこの上を通って東京方面に向かったB29に向かって砲撃したが届かなかったという。
この高射砲陣地は米軍の爆撃の対象となり破壊され、山の北側にある古寺荘厳寺も、その巻き添えとなり焼失(現在は再建されている)した。
戦後暫くは荒廃したままであったが、昭和32年、に平塚市と神奈川中央交通がここを自然公園とする計画を立て開発・整備し、
「湘南平」と命名。その後、放送所設置及びレストハウス立て替え等が行われ、現在に至っている。

「太田道灌」 1432-86 扇谷上杉定正の執事を務め、主君に殺された名将。
江戸城を拠点に上杉氏勢力拡大に尽力、その名声を妬むもの多く主君定正に殺された。道灌は、「当方滅亡」と叫んで、その通りになる。

「長尾景春」 1443-1514 戦国時代武将、1471年父と共に古河城攻めに参戦している(享徳の乱)。
主君ー上杉顕定・足利成氏(古河公方)下に逃れた景春は、成氏から左衛門尉の官途名を与えられて奏者を務めながら再起をうかがっていたが、やがて道灌が暗殺されると、成氏の元にいた景春は道灌を討った後に顕定に攻められていた上杉定正に加担して相模国に入り顕定と戦う。
(長享の乱)。この頃に出家して「其有斎伊玄」と号している。ところが、1494年、に定正と結んでいた成氏が顕定と和睦すると、あくまでも顕定と戦おうとする景春と成氏の意向に従って顕定と和睦しようとする嫡男の景英が対立、最終的には成氏に従った景英は帰参を許されて顕定から白井長尾家の当主に取り立てられ、景春は当主の座を追われるとともに親子で敵味方に分かれて戦うことになったとみられる。

                          県立 大磯城山公園


景春が、古賀公方と共に乱を起こすと、神奈川県内の小沢城 金子掃部助・溝呂木城の溝呂木正重・小机城の矢部兵庫助などが呼応したが
大磯城(小磯城)の越後五郎四郎を協力するの反乱に対し、扇谷上杉家の「太田道灌」は、道灌に味方する相模勢と合流し、1477年溝呂木城を落とし
大磯城の越後五郎四郎は降伏している。(この戦いの記録は定かでないと云う)
「血洗川」は、その時の兵士が、刀や体などを洗い、川が赤く染まったと言い伝えがあると云う」



大磯城・小磯城の城郭は、旧三井邸(標高48.6m)頂上が「監視台」では?。現在の展望台あたりが駐噸地的役割としていたと推定。
現在、明確な人口堀切などは見つかってないと云う。
が、その後の北条早雲が1495年頃相模へ進出し、1512年三浦義周の岡崎城を陥落させており、その前には、ここ大磯も北条軍に陥落していたのではと
推定されている。



園内には、多数の横穴古墳があり、縄文土器などが出土、又鎌倉古道と思われるところも認められている。
明治31年この地に「三井財閥の当主が別荘を構え、全国の古社寺の古材を用いて「城山荘」を。
茶人織田有楽斎が建てた茶室「妙庵」等が点在している。



昭和62年、県大磯城山公園として開園している。


長い歴史に彩られ、豊かな自然と文化にかこまれた公園で多くの人たちに親しまれている。


公園には、シイやカシ・ケヤキなどの木々が枝を広げ自然を盛り立てている。


展望台に上ると遠区相模湾・伊豆半島・箱根連山から富士山が


紅葉時は、不動池・城山庵のライトアップされると云う


                   9.9Haの広さが (旧吉田茂邸の日本庭園も含まれる) src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/99/259249933ad3e3c4f95c9ee47ed47266.jpg" border="0">

「北蔵ギャラリー」
石造・瓦葺屋根ー絵画、写真など展示



                   入園無料


「三井高利」 1622-94 三井財閥の始祖
伊勢松坂屋の商家に生まれ、江戸の兄店で働く。兄死後、江戸で越後屋呉服店開業・薄利多売・現銀掛け値なし・正札販売の新商法で。





















旧吉田茂邸へ(公園と隣接しています。

大磯宿 syu散歩

2017-06-09 | syu散歩
神奈川県中郡 大磯町(宿)
県中南部、ここも相模湾に面し、大磯丘陵南麓の海岸段丘上にある。町名も長く続く磯からきている。
西部の国府は、相模国府のあった所で、中世から文学作品などの名がみえ、「曽我物語」には「大磯宿の遊女虎が曽我兄弟の兄「十郎」の愛人として登場
、様々な伝説が残っている。
江戸になると東海道の宿駅として栄え、南西に「西行」ゆかりの「俳諧道場・鴫立庵」がある。
1885年の明治18年、軍医総監「松本良順」が我が国最初の「海水浴場」を開設している。(こゆるぎの磯)
一年中暖かく「伊藤博文・山県有朋・吉田茂」ら政治家の別荘、邸宅地として知られている。

旧東海道松並木が国道一号線大磯駅西側の学校辺りに約300m続く松並木が。

               聖ステパノ学園と教会入り口


「大磯丘陵」
中部大磯駅から小田原国府津にかけての丘陵で「ゆろざ丘陵」とも云う。
東に花水川を境に相模平野・西国府津ー松田断層の急崖で足柄平野・北渋沢断層を境に秦野盆地・南相模湾、東西12km・南北8kmの長方形
北西部に曽我山(328m)、鉄道東海道線・国道一号線・海寄りに西湘バイバスでこの地、落花生栽培発祥地である。

              学園は、JR大磯駅前にある。


「学校法人聖ステパノ学園ー小学校・中学校」
創設者は、澤田美喜氏
1901年、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の長男・久弥の長女として東京に生まれる。
外交官・澤田廉三と結婚後、長期間海外で生活、イギリスにおけるドクター・バーナードス・ホームでのボランティア体験からキリスト教社会福祉事業に心ひかれ、自らも日本において同様の働きをしたいという願いをもつ。
第二次世界大戦の敗戦に際し、「戦争混血児」の窮状を目の当たりにし、「戦争混血児」の養育を決意。
私財を投じ、エリザベス・サンダース・ホーム及び聖ステパノ学園を創設する。
数多くの子どもの「母」として、ママちゃまと慕われる。1980年、78歳で旅行先のスペイン・マジョルカ島で客死。

               教会前の「カネ」


               教会の階段


「沢田美喜記念館」
エリザベス・サンダース・ホームを創立・多くの私財を投じることにより進駐軍将兵と日本人女性との間に生まれた子どもたちのなかで、様々な理由から養育を受けられなかった孤児を保護し、家庭にかわって保護・養育し、自立を助けようとする使命感を覚え、社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホームを創立した。
聖ステパノ学園の礎があると云う。1期生の子どもたちー1953年の昭和28年。
エリザベス・サンダース・ホームに生活する幼児たちが成長し、学齢に達し就学することになりましたが、当時の社会情勢は、地域社会の所謂一般の学校に入学させることには、種々事情もあり、必ずしも順調な受け入れ態勢ではなっかと云う。
保護されている子どもたちと、特に希望する子どものために独立した小学校を設立し、同じ年、小学校に併設して幼稚園も創設した。
昭和34年3月・第1回小学校卒業式 が。
昭和30年、昭和天皇・皇后両陛下ご来校 ー昭和34年、聖ステパノ学園中学校併設している。
               


「西行」 1118-90 世を捨てた漂泊の歌人
佐藤義清と云う北面の武士、23歳で出家ー仏教と和歌のみちに精進する。
陸奥・高野山など廻りのちに河内国に住む、漂泊の間ー叙情的歌風を確立する。 「山家集」2000余首を残している。
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」
鎌倉で源頼朝に会って武芸や和歌のことを語り、贈られた銀製の猫を、惜しげもなく門前の子供にやってしまったと云う。その時の心境を。

「鴫立庵」
大磯町にある俳諧道場。
京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つ。
敷地内に建てられた石碑にある銘文「著盡湘南清絶地」から、「湘南発祥の地」とされることもある。
名称は、「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」(新古今和歌集)による。
1664年、崇雪が草庵を結んだのがはじまりで、1695年、俳人大淀三千風が入り、第一世庵主となる。
1768年、白井鳥酔が再興し、庵主に。
                   鴫立庵ー国道一号線


「旧島崎藤村邸」
藤村が最後に過ごした場所。
国道一号線から少し路地に入ったところ、四季の移り変わりが楽しめ、温暖である大磯磯。
今でも周辺の路地は風情がある。



昭和16年,「左義長」を見に来磯した藤村は、温暖なこの地が非常に気に入り、春には、台町のこの家に住むようになり、71歳で永眠するまでの2年余この地で過ごした。昭和18年8月、大磯の地で、(藤村夫妻の眠る、地福寺)