「神武天皇」日本初代天皇 紀元前711年・在位紀元前660年
「紀元節」
古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日で、日付はー1873年(明治6年)2月11日に定められたが、戦後は、1948年(昭和23年)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止。戦前は、祝祭日の中の四大節の一つ。現在の「建国記念の日」。
政府は、1935年(昭和10年)10月1日、紀元二千六百年祝典準備委員会(会長・内閣総理大臣岡田啓介)を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進。
準備委員会は、のちに「紀元二千六百年祝典評議委員会・会長:阪谷芳郎」が設置されると廃止された。
内閣に設けられた「内閣紀元二千六百年祝典事務局」の局長には歌田千勝が就いた。
1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」(総裁:昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王(総裁代理:昭和天皇、雍仁親王の弟宮・高松宮宣仁親王)、副総裁:内閣総理大臣・近衛文麿、会長:徳川宗家第16代当主・徳川家達)を創設。
神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された。
研究・教育機関では、神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格し、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催されたと云う。
1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后臨席の下、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催され、11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。
式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。(長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」(祝い終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。
紀元節 高崎正風
1)雲に聳ゆる 高千穂の 高根おろしに 草も木も なびきふしけん 大御世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
2)海原なせる 埴安の 池のおもより ひろき めぐみの波に 浴みし世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
3)天のひつぎの 高みくら 千代よろずよに 動きなき もとい定めし そのかみを 仰ぐ今日こそ たのしけれ
4)空にかがやく 日の元の よろずの国に たぐいなき 国のみはしら たてし世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
紀元二千六百年 増田好生
1)金鵄輝く 日本の 栄ある光 身にうけて いまこそ祝え この朝 紀元は 2600年 ああ 一億の胸はなる
2)歓喜あふるる この土を しっかと我等 踏みしめて はるかに仰ぐ 大御言 紀元は 2600年 ああ 肇国の雲青し
3)荒ぶ世界にただ一つ 揺るぬ御代に 生立ちし 感謝は清き 火と燃えて 紀元は 2600年 ああ 報国の血は勇む
4)潮豊けき 海原に 桜と富士の 影織りて 世紀の文化 また新 紀元は 2600年 ああ 燦爛のこの国威
「1940年東京オリンピック」
昭和15年・9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市(現・東京23区)で開催されることが予定されていた夏季オリンピック。
史上初めて欧米以外の、アジアで行われる五輪大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたが、日中戦争(支那事変)の影響等から政府が開催権を返上、実現には至らなかった。