syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

紀元節

2020-08-14 | syu散歩

「神武天皇」日本初代天皇 紀元前711年・在位紀元前660年

「紀元節」
古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日で、日付はー1873年(明治6年)2月11日に定められたが、戦後は、1948年(昭和23年)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止。戦前は、祝祭日の中の四大節の一つ。現在の「建国記念の日」。
政府は、1935年(昭和10年)10月1日、紀元二千六百年祝典準備委員会(会長・内閣総理大臣岡田啓介)を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進。
準備委員会は、のちに「紀元二千六百年祝典評議委員会・会長:阪谷芳郎」が設置されると廃止された。
内閣に設けられた「内閣紀元二千六百年祝典事務局」の局長には歌田千勝が就いた。
1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」(総裁:昭和天皇の弟宮・秩父宮雍仁親王(総裁代理:昭和天皇、雍仁親王の弟宮・高松宮宣仁親王)、副総裁:内閣総理大臣・近衛文麿、会長:徳川宗家第16代当主・徳川家達)を創設。
神祇院が設置され、橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された。
研究・教育機関では、神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格し、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催されたと云う。
1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后臨席の下、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催され、11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。
式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。(長引く戦争による物資不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた さあ働かう!」(祝い終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。

紀元節 高崎正風
1)雲に聳ゆる 高千穂の 高根おろしに 草も木も なびきふしけん 大御世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
2)海原なせる 埴安の 池のおもより  ひろき めぐみの波に 浴みし世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
3)天のひつぎの 高みくら 千代よろずよに 動きなき もとい定めし そのかみを 仰ぐ今日こそ たのしけれ
4)空にかがやく 日の元の よろずの国に たぐいなき 国のみはしら たてし世を 仰ぐ今日こそ たのしけれ

紀元二千六百年 増田好生
1)金鵄輝く 日本の 栄ある光 身にうけて いまこそ祝え この朝 紀元は 2600年 ああ 一億の胸はなる
2)歓喜あふるる この土を しっかと我等 踏みしめて はるかに仰ぐ 大御言 紀元は 2600年 ああ 肇国の雲青し
3)荒ぶ世界にただ一つ 揺るぬ御代に 生立ちし 感謝は清き 火と燃えて 紀元は 2600年 ああ 報国の血は勇む 
4)潮豊けき 海原に 桜と富士の 影織りて 世紀の文化 また新 紀元は 2600年 ああ 燦爛のこの国威

「1940年東京オリンピック」
昭和15年・9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市(現・東京23区)で開催されることが予定されていた夏季オリンピック。
史上初めて欧米以外の、アジアで行われる五輪大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたが、日中戦争(支那事変)の影響等から政府が開催権を返上、実現には至らなかった。


















広瀬中佐

2020-08-11 | syu散歩
「広瀬武夫中佐」 1868-1889 帝国海軍 旧万世橋駅前に幻の銅像があった。 大分県竹田市(現在の地名) 西南戦争で自宅焼失 1家飛騨高山へ。

海軍兵学校入校、同時期に講道館で柔道も学び、1889年の明治22年、卒業(15期)。
入学時席次は19番、卒業時は80人中64番(49番という説もある)。兵学校卒業後、翌明治23年、軍艦「比叡」に乗船、二度にわたり遠洋航海。その間に少尉に任官。半年だけ、測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事。この時期、静岡県清水に寄港し、清水次郎長の知遇を得たと云う。
明治27年、の日清戦争に従軍し、28年、大尉に昇進。30年、ロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。
旅順港などの軍事施設も見学、ロシア駐在武官となり、1900年の明治33年、少佐昇進。明治35年、帰国。
ロシア駐在中にペテルブルク大学で日本語を教えていた黒野義文から頼まれたこともあり、後に海軍少将となる義文の二男・森電三の相談相手となり、格別の世話をする。
明治37年、日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事し、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。
撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の「杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)」がそのまま戻ってこないことに気付いた。
広瀬は、杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。
やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。37歳(満35歳)だったと云う。(即日中佐に昇進)
広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見され、戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬。
青山霊園に、兄の勝比古と並んで墓所。日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には、昭和10年に、「岡田啓介(当時の内閣総理大臣)」らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。
文部省唱歌の題材にもなり、直撃を受けた際、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。
その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。また、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が、朝日の乗員から講道館に寄贈され、その後も講道館2階の柔道殿堂に展示されている。
嘉納治五郎は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」という。
大正12年9月1日・午後11時58分・関東大震災 慶安・元禄・安政江戸三大地震をはるかに上まわるものであった。東京市街を瓦礫の山と化した。
下町中心に3日間も燃え尽くしたと云う。万世橋・神田郵便局・市電などすべて灰になった。
以降、交通は壊滅状態であったが、市電は、9月6日ー神田神保町車庫から上野公園間が開通したと云う。
万世橋の広瀬中佐と杉野上等兵銅像は、取り壊された。

文部省唱歌 広瀬中佐
1)轟く砲音 飛来る弾丸 荒波洗う デッキの上に 闇を貫く 中佐の叫び 「杉野は何処 杉野は居ずや」
2)船内隈なく 尋ぬる三度 呼べど答えず 探せど見えず 舟は次第に 浪間に沈み 敵弾いよいよ あたりに繁し
3)今はとボートに 移れる中佐 飛来に弾丸に 忽ち失せて 旅順港外 恨みぞ深き 軍神広瀬と その名残れど

関東大震災 焼失29万・倒壊1万5千・死者74000人、行方不明25万とある。 
 












皇軍将士に感謝の歌「兵隊さんありがとう」

2020-08-07 | syu散歩


「橋本善二郎」 作詞「兵隊さんよありがとう」 牛込の印刷工場の工員
大坂朝日新聞が1938年昭和13年ー皇軍将士に感謝の歌を懸賞募集
全国民愛唱歌に
1位ー「父よあなたは強かった」 福田 節
佳作ー「兵隊さんよありがとう」 橋本善二郎 ・・・少年少女の純真な気持ちをそのまま童謡風に、 レコード40万枚販売されたと云う。

兵隊さんよありがとう
1) 肩を並べて兄さんと 今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです お国の為に お国のために戦った 兵隊さんのおかげです
2)夕べ楽しいご飯どき 家内揃って語るのも 兵隊さんのおかげです お国の為に お国の為に傷ついた 兵隊さんのおかげです
3) 淋しいけれど母様と 今日もまどかに寝るのは 兵隊さんのおかげです お国の為に お国の為に戦死した 兵隊さんのおかげです

父よあなたは強かった
1) 父よあなたは つよかった 兜も焦がす 炎燃を 敵の屍と ともに寝て 泥水すすり 草を噛み 荒れた山河を 幾千里 よくこそ撃って 下さった
2) 夫よ貴方は  つよかった 骨ま凍る 酷寒を 背の届かぬ クリークに 三日の浸って いたとやら 十日も食べずにいたとやら よくぞ勝って 下さった
3) 兄よ弟よ  ありがとう 弾丸も機雷も 濁流も 夜も日に 進む軍艦旗 名も荒鷲の 羽ばたきに 残る敵機の 影も無し よくぞ遂げて 下さった  
4)  友よ我が子よ ありがとう 誉れの傷の 物語 何度聞いても 目が潤む あの日の戦さに散った子も 今日は九段の 桜花 よくこそ咲いて下さった
5) ああ御身らの いさおこそ 一億民の 真心を 一つに結ぶ 大和魂 今大陸の 青空に 日の丸高く 映える時 泣いて拝む 鉄兜

「召集・徴兵令」
日本では、天皇の名において、集まるよう命じる場合を指す。
一般に、招集とは異なり、指定 ... 1879年(明治12年)10月、徴兵令改正(太政官布告第46号)で3年間の常備軍の後さらに3年間の予備軍が設けられ、その後を4年間の後備軍 ... 延長するだけでなく、召集も広く行われ、兵だけでも1938年(昭和13年)に約47万人が召集された。

女優「岡田嘉子」と新協劇演出家杉本氏とソ連亡命。  ドイツ国防軍が改組となり「ヒトラー」が統師権を掌握する。