故人となった作家立松和平さんは、
小説『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞した行動する作家だった。
栃木訛りの独特の語り口でテレビ番組のレポーターとして活躍したことは、
皆さんご承知の通りである。
その立松さんと知り合ったのは二十数年前。
私が白老町役場で働いていた頃。
町内にある滝を世に知らしめ町おこしをしようと活動し、
それが功を奏して、当時全く無名だった“インクラの滝”を日本の滝百選に推薦し、
一躍全国的に脚光を浴びたのである。
この話題を立松さんが日本経済新聞の夕刊に書いてくれた。
このことがきっかけとなり交流が始まった。
以後白老で講演をお願いしたり、
私たちも機会があると東京の自宅を訪ねるなどのお付き合いをさせて頂いた。
私たちの活動は、ニュースステーション『立松和平 心の水紀行』でも、
全国放送で紹介してくれたのです。
以後立松さんとは、北海道を訪れた際に、時々お会いする関係が続いていました。
立松さんは、満六十二歳のという若さで他界したことは、残念でたまりません。
我が家に立松さんの人柄を表す、
優しさに満ちた文字で書かれた色紙があります。
「花のさかりは命なりけり」と書かれています。
十八年前に我が家でお酒を飲んだときに書いて下さった色紙です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/b7/310a0b0360a7f3da647c9e86379c73dd.jpg)
小説『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞した行動する作家だった。
栃木訛りの独特の語り口でテレビ番組のレポーターとして活躍したことは、
皆さんご承知の通りである。
その立松さんと知り合ったのは二十数年前。
私が白老町役場で働いていた頃。
町内にある滝を世に知らしめ町おこしをしようと活動し、
それが功を奏して、当時全く無名だった“インクラの滝”を日本の滝百選に推薦し、
一躍全国的に脚光を浴びたのである。
この話題を立松さんが日本経済新聞の夕刊に書いてくれた。
このことがきっかけとなり交流が始まった。
以後白老で講演をお願いしたり、
私たちも機会があると東京の自宅を訪ねるなどのお付き合いをさせて頂いた。
私たちの活動は、ニュースステーション『立松和平 心の水紀行』でも、
全国放送で紹介してくれたのです。
以後立松さんとは、北海道を訪れた際に、時々お会いする関係が続いていました。
立松さんは、満六十二歳のという若さで他界したことは、残念でたまりません。
我が家に立松さんの人柄を表す、
優しさに満ちた文字で書かれた色紙があります。
「花のさかりは命なりけり」と書かれています。
十八年前に我が家でお酒を飲んだときに書いて下さった色紙です。
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