「光秀の定理(レンマ)」by垣根涼介
~永禄三(1560)年の京。牢人中の明智光秀は、若き兵法者の新九郎、辻博打を行う破戒僧・愚息と運命の出会いを果たす。光秀は幕臣となった後も二人と交流を続ける。やがて織田信長に仕えた光秀は、初陣で長光寺城攻めを命じられた。敵の戦略に焦る中、愚息が得意とした「四つの椀」の博打を思い出すが―。何故、人は必死に生きながらも、滅びゆく者と生き延びる者に分れるのか。革命的歴史小説、待望の文庫化!(「BOOK」データベースより)
「ワイルドソウル」で、いっぺんに僕の心を鷲掴みにした垣根涼介氏の2作目です。相変わらず読ませる文章力、「男」が成長していく姿を描かせたら日本一かも知れません!本当に素晴らしい筆力です。
「明智光秀」と聞いて、日本国民の8割は「主君を討った裏切り者」という汚名を連想するでしょう。僕もその一人です。
その光秀が、美濃源氏(中世に美濃国に土着し本拠とした清和源氏の流れを汲む一族の呼称)の嫡流として一族の再興を期し、細川藤孝(のちの幽斎、細川忠興の父)の元に身を寄せ、極貧の生活をしながらも、そのプライドだけは捨てずに、成り上がっていく姿が描かれています。
明智光秀が織田信長のもとでメキメキと頭角を現し、あっという間に35万石(近畿県内をほぼ支配下においていた為、200万石とも言われている)の大大名になりました。
【マメ知識】
1万石の価値・・・お米1石は150キロ。1万石は150×10000=1500000キロ。いま、お米1キロを300円として計算すると、1500000×300=4億5千万円。その35倍とすると、明智家には157億5千万円の年商というか上がりがあった計算となります。
垣根涼介氏は、明智光秀が大大名になるまでの物語(実在はしないが、愚息と名乗る法師と新九郎という剣豪とともに人間的に成長していく姿や、妻・煕子との夫婦愛、上司である細川藤孝との関係性など)を描くことに本書の3分の2を費やしています。
読者としては、「さぁ、いよいよ本能寺!」と、歴史的大事件を垣根氏がどのように描くのかというところに期待を膨らませてページをめくるのですが、「何故、光秀は本能寺の変を起こしたのか!?」という光秀の心の動きや信長の仕打ち、その周辺の動きなどを一切描くことなく、本能寺の変の数年後に愚息と新九郎が思い出を語るように、光秀の「理」について思いを馳せるシーンで語られます。
どんな理由があったにせよ、主君を討ち、その仇としてかつての仲間に討ち取られる光秀、その一族郎党の末期を思うと、暗い気持ちになるしかないのです。敢えて二人の想像で語らせて、爽やかにエンディングを迎えるところに垣根氏のセンスを感じます。
作中で、愚息が語る言葉や所作に僕はすごく引き寄せられたんですが、この中には社会人として生きていく上で、大切にしていきたい男の矜持というか、心の中に持ち続けていかなければならない言葉が出てきます。
「物事は常に表裏一体となって変化し、うごめき、進む必然なのだ。
倫理や観念、一時の結果論だけで事象を判断しては、事の本質を見誤る。」
光秀のように、プライドを持ちながらも、社会の中で自己を抑え、家では妻に愚痴をこぼしつつも、仕組みの中で生きていくのか? それとも愚息や新九郎のように家族や同僚などを持たず、無頼で自由に生きていくのか? はたまた人を裏切り、踏み台にしながら、いわゆる「悪党」として生き残っていくのか?
背負っているものの重みや価値、またその境遇等によって様々な考え、行動パターンがあると思いますが、この「光秀の定理(レンマ)」は、社会人として生きていくうえで、自分の「理」を見つける為にも、是非読んでおきたい一冊だと思います。
★★★☆3.5です。
~永禄三(1560)年の京。牢人中の明智光秀は、若き兵法者の新九郎、辻博打を行う破戒僧・愚息と運命の出会いを果たす。光秀は幕臣となった後も二人と交流を続ける。やがて織田信長に仕えた光秀は、初陣で長光寺城攻めを命じられた。敵の戦略に焦る中、愚息が得意とした「四つの椀」の博打を思い出すが―。何故、人は必死に生きながらも、滅びゆく者と生き延びる者に分れるのか。革命的歴史小説、待望の文庫化!(「BOOK」データベースより)
「ワイルドソウル」で、いっぺんに僕の心を鷲掴みにした垣根涼介氏の2作目です。相変わらず読ませる文章力、「男」が成長していく姿を描かせたら日本一かも知れません!本当に素晴らしい筆力です。
「明智光秀」と聞いて、日本国民の8割は「主君を討った裏切り者」という汚名を連想するでしょう。僕もその一人です。
その光秀が、美濃源氏(中世に美濃国に土着し本拠とした清和源氏の流れを汲む一族の呼称)の嫡流として一族の再興を期し、細川藤孝(のちの幽斎、細川忠興の父)の元に身を寄せ、極貧の生活をしながらも、そのプライドだけは捨てずに、成り上がっていく姿が描かれています。
明智光秀が織田信長のもとでメキメキと頭角を現し、あっという間に35万石(近畿県内をほぼ支配下においていた為、200万石とも言われている)の大大名になりました。
【マメ知識】
1万石の価値・・・お米1石は150キロ。1万石は150×10000=1500000キロ。いま、お米1キロを300円として計算すると、1500000×300=4億5千万円。その35倍とすると、明智家には157億5千万円の年商というか上がりがあった計算となります。
垣根涼介氏は、明智光秀が大大名になるまでの物語(実在はしないが、愚息と名乗る法師と新九郎という剣豪とともに人間的に成長していく姿や、妻・煕子との夫婦愛、上司である細川藤孝との関係性など)を描くことに本書の3分の2を費やしています。
読者としては、「さぁ、いよいよ本能寺!」と、歴史的大事件を垣根氏がどのように描くのかというところに期待を膨らませてページをめくるのですが、「何故、光秀は本能寺の変を起こしたのか!?」という光秀の心の動きや信長の仕打ち、その周辺の動きなどを一切描くことなく、本能寺の変の数年後に愚息と新九郎が思い出を語るように、光秀の「理」について思いを馳せるシーンで語られます。
どんな理由があったにせよ、主君を討ち、その仇としてかつての仲間に討ち取られる光秀、その一族郎党の末期を思うと、暗い気持ちになるしかないのです。敢えて二人の想像で語らせて、爽やかにエンディングを迎えるところに垣根氏のセンスを感じます。
作中で、愚息が語る言葉や所作に僕はすごく引き寄せられたんですが、この中には社会人として生きていく上で、大切にしていきたい男の矜持というか、心の中に持ち続けていかなければならない言葉が出てきます。
「物事は常に表裏一体となって変化し、うごめき、進む必然なのだ。
倫理や観念、一時の結果論だけで事象を判断しては、事の本質を見誤る。」
光秀のように、プライドを持ちながらも、社会の中で自己を抑え、家では妻に愚痴をこぼしつつも、仕組みの中で生きていくのか? それとも愚息や新九郎のように家族や同僚などを持たず、無頼で自由に生きていくのか? はたまた人を裏切り、踏み台にしながら、いわゆる「悪党」として生き残っていくのか?
背負っているものの重みや価値、またその境遇等によって様々な考え、行動パターンがあると思いますが、この「光秀の定理(レンマ)」は、社会人として生きていくうえで、自分の「理」を見つける為にも、是非読んでおきたい一冊だと思います。
★★★☆3.5です。