玄徳道

道を語るブログです。

誠は神の道なり。これを誠に出来る人こそが弥勒の働きとする。

2024-10-08 18:08:00 | 大道
誠とは、そもそもなんであろうか。

誠は自神の発露であり、道心とも述べるのでしょう。

そして、道は、経であり、経は道であり、大道でもある。

経の多くは、仏教から来る真諦でもある。

吾が師が発揮される、北極真経は、人々胎内、体内に、深奥鳴る、七つの経があるとする。

それは、物質的には見えない、聞こえない、先天無形の存在。

その存在の働きも、人には識られない。

されどその、回転する音は、無音であるが、宇宙に、響く。
(鬼雷述べる。七経とは、現在知識のの七つのチャクラと混同する事なかれ。現在のチャクラの解説を鵜呑みにする事なかれ。自ら、悟り、奥竅に至り、道玄のあるあるを体験す。)

中庸に曰く「人心危うく道心微かなり。惟れ精、惟れ一、允" (まこと)にその中を執れ。」「誠は、天の道なり。これを誠にするが人の道なり。」

七つの経は、坐して、誠心、無心、無私にして回光するとされる。

されど、そこには何も無い。

施無畏あるのみ。

決して、開運もしない。

決して、金運も上がらない。

決して、社会的地位も上がら
ない。

即ち、誠を発する者には、地位も名誉も、金も、官位も関係無く、自ずから、自己の魂の本来の存在力を発揮するのみ。

誠とは、自ら、鳴る。

されど、道は、自らを導くなり。

ゆえに、誠は、神の道なり。

自ずから、己を神に導くが、人の道なり。

多くの人は、外に、神を求めておられる。

この誠を何たるか、悟られる人は、吾が内に、道を求める。

吾が師、先天老祖は、「外に神を求めるのでは無く、吾が内に道を見出せよ。」

惟を知って頂きたいです。




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令和六年五月 小長谷修聖 三六九神示霊視篇(令和六年五月八日示)

2024-06-24 20:01:00 | 神示道
奈良県吉野の天河神社の神体山、弥山の奥宮の所にら大きな、孔雀に乗られた、役行者(神変大菩薩)が姿を見せられました。

(注 役行者は、舒明天皇六年(638)、大和国葛城上郡茅原の郷に生まれたと伝えられる。

人々が日本古来の神観、山や海、自然の中に神と幸倍(さきは)ふ神道から、次第に偶像崇拝、体主霊従の宗教におもむく事を、国常立大神は憂い給い、神霊を分かち、役行者に授け、天地自然と共にある、日本の神の道を守り残す為、日本古来の神道、仏教、道教、陰陽道を習合し、修験道を開かしめられる。

行者は葛城山で行を重ね、孔雀明王の呪法を習得し、神変自在の神力を得て、葛城山を始め、大峯山、吉野熊野七十五靡の大峯山中の霊場、全国の神山、霊地に、役行者は飛来して、霊場を開き給う。

天河弥山に於いては、弁財天女を感得し、天河神社に祀られる。

弁財天女は、撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(瀬織津姫命)の事である。

亦、水の流れは、海に入り、海流を司る、宗像の神、龍宮の神との関係も出来る。)

次に、大峯山の山上ヶ岳(大峯山脈の吉野から、山上ヶ岳までの総称を金峰山とも称す)の上空に、青色に光る蔵王権現の姿が拝されました。

(注 山上ヶ岳で役行者、一千日の参籠修行された時、金剛蔵王権現を感得し、山桜の木に御姿を刻まれる。

蔵王権現は仏教では、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊合体であり、神道では、国常立尊、大己貴命、少彦名命等と習合される。)

次に出口直刀自が、御供を二人連れて、明治三十八年五月十四日か、二十五日まで、沓島(女島)に籠もられ、椿の木の下で、祈念されており、その姿は、龍宮乙姫の姿でした。

(注 あたかも、日本海戦の前夜であり、龍宮乙姫、出口直刀自に神憑りされ、「龍宮乙姫日本を守るぞよ」と言霊を発せられ、筆先もだされ、ロシア、バルチック艦隊に日本海軍は勝利す。
宗像龍宮の活躍でありた。)
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令和六年四月 三六九神示

2024-05-16 20:44:00 | 神示道
和合の道の開きに、素直にならねば救われぬと申しても、人の身は我を守り、生き通す為に素直になれば、我が身の負けと、自我強く我が意を通さむと、争いを起こすなり。

扨も、人の身はその昔、大海原に龍体と産みなされ、その龍体が玉を得る事によりて、人の身と進化する、道が開け、長い長い年月をかけ、龍は、海から陸に上がり、水中生活から、空気の暮らしとなり、段段と神に似せて、人の身と進化いたしたのであるぞ。

(注 脊椎動物の種は(細胞)は、海水より生ず。
人の身も母の子宮の羊水(塩水)の中で、長い精子(龍体)と卵子(玉)が結ばれて、人体となり、十月十日の水中生活から空気の世界へ生まれた来る。海原=産腹.子宮=龍宮)

龍体から人の姿と成る時には、神界は八百万の神々の神霊(みたま)を分けて、それぞれに御魂に相応の特技特性を授け、人の世が成りたぞよ。

長い年月、荒海の中で苦労いたし、その上、海中の龍体から陸に上がり、人の身と成るまでには、言うた言われん苦労いたしたから、人の身は、我を守らむ為に、やむをえず、自我や欲が強くなりてしまいたのであるぞ。

肉体の霊の自我や欲が、神授の御魂を押し込めておるから、中々、神の言う事を素直に聞けず、御魂の特技、特性も易く、発揮出来ぬので、あるぞ。

人の身が海中(塩水)の中から人として生まれる過程は、母の体内の水中生活から十月十日をして、空気の世界に生まれる事で教えておるのであるぞ。

(注 万物の種(細胞)は海中の水から生じ、末は水にかえる。)

龍体から苦労して、人の身と成り、生きてゆかねばならぬ故、自我や欲が強くなると申せ、人の身は我が身一人では暮らせぬものであり、家族あり縁ある人々、そして世界人類が時計の歯車の如く、かみ合い、助け合いて、人類社会が成りておるのであるぞ。

神には御魂や生命を頂き、生かされておると言えど、活きてゆくには、肉体の血の流れの中に伝わる様々の因縁(遺伝子)の浮上により、中々人生を楽に過ごす事が出来ずに、人それぞれ苦労があるが、それがとて、人をうらやみ、人の幸をうばうような事をいたしても、我が身が覚り、心改めぬ限り、争えば争うだけの因縁は深まりてゆくのであるぞ。

この日本の国も、よほど心いたして、政治の世界も改め、真を入れねばならず、経済も少し上向になりたとて、調子にのれば、これまで、以上に困らねばならぬ節目も来るから、常に引き締めて歩まねばならぬぞよ。

細かく申すようであるが、神が人類に任せた現の世も、神が構わねば行けぬ、ところまでなりて、おるのであるぞ。

このまま、世を持ち崩しては、世の元からの神々にも、祖先にも顔向けならぬ、事になるぞよ。

目先だけ、飾りた栄えでは、世は長続きいたさぬぞよ。

それぞれに、授けてある神授の御魂の特技特性を磨き、皆で活かしつつ、共存共生の世を開かねばならぬぞよ。

修聖には、小学五年生の頃、「ひろしま」と言う、原爆の映画をみて、焼けただれた、人々の右往左往する様を見て、恐怖心を起こし、こんな事になりたら、我も家族も世界の人類も如何になるか、真剣に重い、絶対に核兵器は、無くせねばと思い、それが神の道に入る、一つのきっかけにもなりたのであるぞ。

(注 映画「ひろしま」は、昭和二十八年公開、関川秀雄監督、原爆投下の映画、修聖、小学四年の三学期か、五年の一学期に見る。)

未だ世界各地で戦争は止まず、核兵器で威嚇し合い、国取り合戦や、宗教思想の争いを繰り返しておる有様であるぞ。

正月元旦、能登の地震もそうでありたが、地球の生命線、艮坤の神氣厳しく動き、各地に地震、天候異変が起こりておるが、神に任された責任を忘れ、我が世の春と有頂天になりておる人類の改心を迫る、神の警告であるぞよ。

早く、荒事は、現事(あらごと)、新事の始まりである事に気ずき、事ある度に地球を汚し、穢す事、人類相姦の悪事を改めてまいらねば、ならぬぞよ。

国々の頭(かしら)達も、我が身大事、国が大事と思うなら、核兵器、絶対使ってはならぬぞよ。

核兵器を如何にするか、人類発生以来の罪科を審(さば)く最後の審判の第一の課題であるぞよ。

その事を世界人類、真剣に考えねばならぬ、この時であるぞよ。

戦争に勝っても地球の人類が、滅びるような事となって、何とするのじゃ。

和の道じゃ。

話(わ)さねばならぬのじゃ。

腹の底から打ち開けて話すのじゃぞ。

良く考えよ、岩戸の開きとは、つつみ隠し無い言葉を発する事でもあるぞよ。

真の言葉(言霊)を発する事で、生命幸倍(いのちはきは)う道が開かれるのじゃ。

正しく生き、気の抜けておる、人類の生気を取り戻さねばならぬのじゃ。

枯れ木に花を咲かせる世

桃(百)の実りの世を開かねばならぬ

これからの世じゃ

さあ、闇の世を晴らす

日の出の神はすでに御現れであれど

それを覆う強い者勝ち

利己主義の黒雲を

祓わねばならぬのじゃ

天照国照日の出の神の宮が

天橋立籠宮じゃ

この年の四月の大祭には、久々に、日の出の神の大神輿も出でるぞよ。

皆々心の中の闇(病)晴らす、日の出の神を御迎えいたし、己が使命の全うに勇みて前へ進もうぞ。



言霊神也 ン。

令和甲辰六年四月二十七日

龍華斎修聖拝写。








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平成六年四月 小長谷修聖 三六九神示霊視篇(令和六年四月八日示)

2024-05-14 19:16:00 | 神示道
山上に残雪を頂き、美しい富士山と、その山下の桜の花も満開で、朱塗の社殿もあでやかな、木花咲耶姫命を祀る浅間神社が拝され、次に、伊豆半島の雲見にある、烏帽子山山頂の磐長姫命を祀る、雲見浅間神社が拝されました。

(注 木花咲耶姫命と、その姉の磐長姫命は、二人共、天孫瓊々杵の尊様の妃に上がらされたが、磐長姫命は、容姿がみにくいので返された。

木花咲耶姫命は、木や草だけで無く、万物万民、美しい花を咲かせ、栄えさす、神徳であり、その御栄えを磐の如く、末永く続く事を願っておられるのが、磐長姫命の神徳である。

木花咲耶姫命、磐長姫命一体となられて、花咲き実る末永き栄えの道が開けるとの神意であろう。)

次に、未だ、つぼみの広い、桃の林の中に、西王母に扮された、出口王仁三郎聖師が立って桃の木を見ておられました。

(注 西王母は中国の最も神聖な霊山、崑崙山に住まう仙女の長であり、東王父を厳の御魂とすれば、瑞の御魂であり、出口聖師と御魂通じる。

西王母は桃園の管理し、三千年に一度実る不老長寿の桃の実を持って下生され、その時は、地上天国成就の時と言う。

出口聖師は、瑞霊であり、地上楽土を開く先駆けをされたのであり、桃の実りは百(桃)の実りで、総ての事象の完成を意味する。

出口聖師は、大正十三年、五ヶ月にわたり、モンゴルで布教活動(東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する為。東亜とは、東アジアの事)をされる。

大本の、ある御神体(不明)を崑崙山に埋めてくるよう、笹目仙人(秀和)に預けられた。昭和十年、大本教弾圧の前か。)
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鎮心経道。

2024-05-05 14:01:00 | 大道
世を済(すく)い、民を経(たす)ける。これを経世済民と呼ぶ。

実際の意味は、世の中を治め、民衆を苦しみから、救済すること。です。

故に、どうしても、経をたすけるとは、呼ばない。

経の意味は、筋道をたどるとされて、おります。

北極真経では、七経とされ、七つの霊的器官(チャクラ)を現しております。

先天坐を修めれば、七つの経は、自らを助ける為に、働く。

なんせ、人が動かねば、七つの経は、動かず。

私の独善的思考では、経とは、また、仏典の御経も、人を救わないが、人を助ける存在であると、今の私では、思考しております。

また、神は、絶対に、人を救わないが、自ら動く存在を必ず助けてくださります。

私の神は、人の願いを叶いません。人を救いません。戦争があっても、人のカルマのままに、されます。

されど、自然力あり、けれども、人の悪意よりも、人の誠に善く繋がり、自助力を与えるのみと。


扨て、悪しき予言類、それは、夢であったり、胎内記憶による予言。

神様は、他人に生まれ変わるのに、人の記憶は残さない。

人の魂には、記憶が無い。

魂とは、方向、悟りて得た、性質、本性の在り方を示すのみ。

そこに記憶は無い筈です。

胎内記憶を宿すと称する、親を観ると、スピチュアルを学んだ人が多く、赤子から、以前、お腹に宿った瞬間から、言い聞かせが多すぎる。

お腹に宿ってから、教育するも、道でありまずか、それを度を越して過ぎれば全ては毒となるが、自然であります。

胎内記憶とは、人の妄想なのでしょうか。

否、確かに存在される。

前世の記憶が魂に深く根ざしておりますが、それは、脳の記憶に宿っているというよりも、感性感覚。

それは、不思議でもなんでもなく、母の胎内に宿ってから、脳が育って来たならば、その感覚を掴むのかと。

また、大日月神示を示されておる方は、胎内記憶とは霊による憑依の可能性もあると述べられておらます。

まさに、人間は生まれてから、すべからく、自然、環境、先祖、カルマ等等に、よって思想か定められる、悪癖があるのは、確かです。

しかし、胎内記憶や夢で観た、津波、天変地異などの予言類は、悪しき存在からの憑依であるのかも、知れません。
未来を予知する胎内記憶等には神様は働きません。

自然災害とは、地球の働きあり、また、人心(霊界)の悪意が積もり、溜まり、滞る故に、天は荒れ、地は揺れ、人も更に、悪意を育てる故に、起きるのでございます。

人は、天と地の間にあり、実に地球経綸の主体であり、天地運行のカナメ(要)となる働きが、あるのですが。

しかし、世界多くの人は、そこまで意識できておりません。

オカルトスピチュアル好きな方は、ハイヤーセルフ、守護霊云々が導き、また、悪魔、悪霊云々が邪魔をするなんて、想念しております。

故に、人の妄想を更に作るのが、スピチュアルや宗教なのかも知れません。。


故に、全ての蒙昧(宗教的観念)を打破すべきであると考えます。


人が自らを正義として、自分は、間違いが無く、正しいからと善悪、天使悪魔とタテワケル(自然には善悪は皆無)から、それが、悪因となり、カルマを造り、真善と真逆に働くから、宗教間の争いは絶えません。


扨て、鎮心経と云うお経があります。

私は、三十年前ぐらいに、当時銀座にあった東京総院にて鎮心経の存在を教えてもらいまたした。

当時の事務局の方が仰るには、「白光真宏会の幹部の方が、その宗教では大々的な催し事(神事、修行)をすると、結果、事故が必ず起きて絶えない、しかし、鎮心経を催し事の前に誦えると、事故が起きる事が無くなった。」

今の白光真宏会は知りませんが、創設時の教祖も、その養女も、共に、老祖の弟子でありました。その由縁により、幹部の方も老祖の弟子になられた方も多かったと考えます。

鎮心経。

老祖の弟子のみが誦える事が許され、世の刧劫を化する事が可能。

故に絶大な効果を発揮する為に、戯れで誦える事は許されません。

しかしこれは、道院に無断にて、書籍になりました。

私的には、鎮心経とは、老祖の真体でもあり、先天坐、後天坐ともに、坐による静寂を悟る者ならば、誠こころにより、誦える資質があると考えます。

また、一方、正当な道院の教えでは、道院から生まれた、経、咒は、老祖の弟子(修方)のみが誦えることを許され、修方以外の方は、誦えるのは許されておりません。

その理由は、一般の人が咒を挙げると神を穢すとも、神様に不敬になるとも言われております

道院の咒や、経、全てが、神伝(フーチ)による由縁であるからです。

確かに、かなり昔、深〇〇山さんが、強🔵と言う書籍にて、道院の咒を無断で公開されました。道院関係者からそれは、まずいと言われた、〇〇さんは、あわてて、香港総母宗に呈判(神様にお願い)し、お金を寄付して、理由を述べて、認めてくださいとお願いしましたが、却下。

「求修(老祖の弟子)もせず、また、誠のなんたるかを明らかにしない、一般の者が、どうして咒を信じ、誠によって感じることが出来るのであろか………たとえ、求修して長年にわたり、誠をもって咒を誦し、劫を化する事が出来る者であっても、多くの人がこの原理に不明であって、先天の大道を宣べ明らかにするに至っては更に論ずるまでもないことである。」

ちなみに、強🔵と言う書名も、「宇宙の主神に祈祷するのであるから、「強」の字を用いるのは宜しく無い。「誠運」と改めるべきである」とおっしゃっておられました。



扨て、日本道院紅卍字会とは、日本人には、厚い夙縁が無い限り、見向きもされません。

中国式のお祈り(九拝礼)がどうしても馴染めないと言われる方もおりました。

日本の神社のように誰でも気軽に参拝出来ないようです。

昔、大本教と提携していた、時代は、大本皇大神、即至聖先天老祖で、大本人が道院に来ても、神道式で祝詞を唱えたり、される方もおられたようですが、それは、出口聖師存命の間のみでしたし、日本人には、神社のように、親しみが全くありません。

また、道院日本紅卍字会自体も、修方以外の方には、公にできない事も多くあり、修方、老祖の弟子と成りたければ、東京総院まで、足を運びその上で、四誓顔の儀式を行わなければなりません。

また、フーチ(神示)の時代は終わり、自らの責務で物事を為される事を老祖がのぞまれておられます。

故に宗教にありがちな、御陰が貰える信仰でもありません。

坐と誦経と慈善活動を行うだけです。

言わば、神様を頼らずに、人自らが、その誠意により、道(坐道)を歩まねばならないのです。

故に、多くの日本人には広まりません。


その中で、先天坐の指南書「生きる意味と方法」や、「鎮心経」が道院という、組織に関わらず、世に出回ったのは、日本神界の働きが多少あったとも考えます。

地球には、人が生誕してから、人の思いが刧劫となり、積もっております。

人の歴史を見れば明らかで、お互いに争い、殺しあった事実があり、善き歴史もありますが、殆どが、奪い合う戦争の歴史であります。

人の思念か清からず、悪しき意図が増えて、それがカルマとなり、自然破壊も含めて、それが積もり、地球が苦しんでいるのであります。

その刧劫を祓い、清める為の法は、神国日本には、昔から降ろされております。(皇室の祭祀、古神道等)

また、出口聖師の「霊界物語」、道院での「太乙北極真経、午集正経」(これも修方が道院内でしか、誦えることを許されておりません)が活気的あります。

霊界物語などは、誰でも買え、誰でも音読すれば、効果があるとされます。

物語が長過ぎるため、根気が必要でもあります。(もしかしたら、必要な一巻を臨機応変に唱えれば善いのかも知れませんが)

故に、ここで鎮心経が道院に関係無く、世に出る、奇跡も、解る人には、判るかと思います。

言わば、世界と地球は、危機に瀕死ていると言う事であります。

ここで、鎮心経の書籍が発行(十年前)された、正否は、問いません。

ただ、坐や瞑想により、自身を回光し、誠心にて、鎮心経を誦えれば、自分の為には、なりませんが、地球の為になる事を明記致します。







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