世に、ハンセン病がある。
私は、若木時に、早朝の千日前線の地下鉄にて、顔が崩壊し、爛れておられる人が私の向かいの席におられた。
私は、その姿と形を見た瞬間に、自分の不運を呪い、また、その穢れが私に入らない事を即座に望んだ。
ひるがえれば、その方の病を何なるかを私は、詳しく存じ上げない。
しかしだ、その醜い姿を見て、不運であると感じたのは、真実なり。
また、そこに、美人な、女性がいたならば、今日はラッキーと思ったであろう。
今、私には、その醜さがおのれ、自信である事が理解出来る。
私の心は、相当に醜くかった。
神は愛なり。仁とは、忠恕なり。大道廃れて仁義あり。人心を破棄して天理に至る。
などの知識は、あったが、知識のみを理解した、悪人であり、邪悪でもありました。
また、今、振り返り、その嫌悪とは、カルマへのガソリンであることを理解しました。
私は、二十代前半にて天帝老祖の弟子となったが、師の名を穢す行為と思想は、はてしなく、申し訳無いです。
私より、遅く、至聖先天老祖の弟子となられた、双子の姉妹は、私の遥か彼方の上を行く。
さて、私が一目見た、その顔の崩れた、男性を穢れと感じた、瞬間に神は私へ、更なる試練を与える事となる。
私は、坐して、それを坐道として、また、神は内在し、その覚醒を神鳴るとする。
されど、若木時には、人を神と観れず、穢れとするは、吾がカルマなり。
ああ、天罰覿面なり。
私的に、反省して、述べる。
人の御魂は、見たままと、真理なり。
されど、神は人に試練を与え、人の思考の逆をいかれる。
こんな、反戦病を創る神など、拳で、ぶっ飛ばしてやれば、良いのであろうけれど、神には、肉体もなく、我無く、意識無く、善悪無く、人間には、その意図は永遠に関する事は不可なり。
坐してからこそ、かつての自らの未熟を理解し、また、若き時の嫌悪感は、相手の御魂の鏡により、私に降りかかる。
今の私の審神では、ハンセン病の方は、すべからく、天使からの転生者が多く、御魂で、言えば、国祖国常立尊、大山祇神。
それは、未来の地球が崩れて行く姿を、吾が姿な投影されて、大難を小難に。小難を無難にされるべく、生まれたこられた、尊い御魂なのであられる。
これを知り、これを悟れ。
そして、ごめんなさい。
かむながら、たまちはへませ。