玄徳道

道を語るブログです。

先天坐道雑記2

2016-11-13 03:28:30 | 私的考察
二十代は、先天坐をしたり、しなかったりと。本気で先天坐を間断なく行ったのは三十歳を過ぎてからでした。

道院の教えは、易経からの例えが多く、坐の境地も、水と火が交わる「水火既済の卦」により発展します。水と火が交わらない「火水未済の卦」では、先天坐とはいえません。

南雲暉芝さんは、「禅は臍下丹田に意識を向け、瞑想は、自己の潜在意識に意識を向ける。笹目先生の先天坐は、宇宙からエネルギーが額から入るをイメージする。根本先生は数息観から入る。人に拠ってやり方は、様々だが、私が一番良いと感じたのは、台湾道院の誰某(名前を憶えていません)で、全てを解放するイメージで、最も自然であり、この坐法が先天坐に相応しいと。」
現在の東京総院の統掌、黒川正備さんも、「坐すれば、妄想や妄念は、自然と出ます。無理して止めようとせずに、出る任せたら良いのです。任運自然体で。」
 
坐するにおいて、チャクラや身体の部位に意識を乗せる方法もあります。身体の中心である、心臓部に軽く意識を乗せるのが正しいと言われる方もおられます。しかし、部位に意識を乗せれば、「着相」しやすく、部位に執着し、そこが暗黒化してしまいます。
先天坐は、あくまでも自然坐なので、形坐に於いて、氣の流れを自然と感じ、竅を感じ得たら、初めて意識を添わせ「守竅」。守れば良いとも考えます。

南雲さんは、瞑想をダンテスダイジさんに付いて行った方ですので、初めて先天坐を笹目先生より、教えられた時、その時間の短さに驚いたようです。
「わずか十六分だよ、長くて三十二分、最長で六十四分。それ以上、霊的におかしくなるから、したらダメだって言うんだよ。瞑想は、短くて、一時間。普通で二時間ぐらいは、平気でするからね。」

瞑想者は、自己の潜在意識に入るためか、「瞑想部屋」と呼ばれる、意識の中に部屋があるそうで、ダイジさんも南雲さんもその部屋行った事があるらしいです。

瞑想者は、自己のグンダリーニに、体内の蛇に魅入られるとも言われます。人は社会に出て、労働しなければなりません。瞑想者は長時間に渡り瞑想をするために、働く意欲を忘れます。
自己の潜在意識の蛇に魅入られ、囚われ、その世界のみが正しい世界であるように錯覚してしまいます。これが瞑想に於ける弊害であるとも言えます。
弊害ついでに、瞑想には導師が必ずいなければなりません。そして、導師に絶対の帰依をしなければなりません。人は必ず過ちを冒す存在です。師も人なり。かつてのオウム真理教に於けるグルへの帰依は、信者自己の神性を深き地獄へ堕としました。

先天坐には、導師は、いません。何せ、師は、至聖先天老祖のみです。神が師であり、大乙北極真経がその教えでもあります。フウチによる神々の経訓による、助言と、先輩修方による、助けにより、先天坐は教えられております。後は自分の堅固な意志と誠心、継続する力により成り立つのです。

二十代の時、坐していると、手と膝が一体の感覚となり、そのうち、手足の感覚がなくなり、私自身が球体となり、また、球の身体が数倍に広がって行くのを感じました。物凄く気持ちがよく、宇宙との一体感を初めて感じました。しかし、一度この感覚を得ると、また、この感覚を得ようとするのが、人のサガであり、欲でもあります。
黒川さんも、坐して、素晴らしい感覚を得て、坐が完了した後、感動しすぎて、その場にて、九拝されたことがあるそうですが、「次の坐でその感覚を追ったらダメ。それは、唐突に訪れるもので、此方からは追わず求めず。また初心に戻りその感覚を忘れて坐をしなければと。」

つづく。
コメント (2)
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