人は、自分が幸せと成る為に、ありとあらゆる工夫をなす。
音楽の道も然り。経済の道も然り。異性を愛する道も然り。同性も愛する道も然り。占いも、然り。信仰も然り。禅や瞑想も然り。ありとあらゆる信仰も然り。
人は幸せに成りたいが本性でもある。
故に人は、自らの運命を知りたい、悟りたい。
ははは、。人にもし、運命があり、宿命があるのであれば、何故、天災地震により、無垢で大多数の人が死ぬのであろうか。その人らには、神の守護なく、運命により、焼け溺れた潰れ死んだのであろうか。
人の運命論は人類の発祥より、数百年により、人間により、想像された。
それは、未来を観れない人がある程度の危害を逃れる為の救済の法であり、此を神は幇助された。
しかしだ、嘗ての文明と人類の滅びの如く、(かつての億年の最中、人類は数度に渡り、滅びを経験している。)その性命を放棄されている。
今の人が行い述べる、占い、運命、手相、等の類いは、妄想でしかない。
東北大震災に於ける、善男善女の人々は、運命により、死ぬべく為に産まれたのであろうか。かの人らは、それだけの報いある悪因悪果を為したのであろうか。
人々は天災による地球の変動により、已む無く、亡くなったと考え、それも運命と考える。
否。そこに運命などの言葉は無用。
この地球に於ける世界感を、歴史をつぶさに、観れば、ただ、人が己の手で害虫を殺すが如く、何の感慨も無く、人々は死んでいるのである。
汝らは、人類に於ける、死の原因が病や癌よりも、天災よりも同類の殺戮で有ることが、大多数である現実を知らないのである。
翻れば運命とは、自己無く、人類の呼応と相応に於ける、果であるのみ。