釈尊は人には四苦悩があるとされた。
それは、死であり、生であり、老であり、病である。これを単純に考えれば、人間とは、苦しむ為に生まれてきたのかと、考える事もある。
老も死も、確かに克復は出来ない。それが神仙と成ったとしても。
しかしだ。生も病も、克復することも可能である。。。そして、それらをもし、克復出来たならば、それを楽しめる事も可能である。
この科学が、発達した現在でも、疫病が発生し、多くの人を苦しめ悩め、死へと導く。
否、文明が発達し、科学が万能となるからこそ、この相対的世界では、必ず、対抗する抗魔が働く。人々が楽しく安定する道が有れば在るほど、抗魔が来たりて脅かす。。。
陰あれば、陽、陽あれば陰。光あれば闇があり、闇があるから光が産まれるが如く。
好事魔が多しとは、この働きなり。
人々が疫病になるのは、現在医学では、感染力によると言うであろう。唾液、粘液等による感染。
そして、疫病とは地球に眠る生命力。怖れるは、人間のみ。
それらを防ぐ為に、うがい手洗い、マスク手袋、による保護の行いは大切である。
それらを含めて大切なのは、邪気や病気を怖れない事である。
病気を恐れれば怖れれば、嫌えば嫌うほど、病は、悪魔と同じで寄る。
意識すれば、するほど、よく感応する。
潔癖症程、病に憑かりやすいと、同じ道理でもある。
さて、坐する者は、免疫力は高い。故に病を退け、健康的であり、長寿でもある。
老祖の弟子は基より、多くの災劫を承け、それを化す。ゆえにその余波を受ける。だから、抗魔を最大限に抑える効果もあるのである。
ありとあらゆる生物の生命力を挙げる言霊は。
「はるち、うむち、つづち。」
出口運霊師の著作にも載っている。