三輪山とは、信仰の対象であり、御神体山である。磐境、神奈備、山岳信仰の真髄でもある。
三輪山とは、三輪神仙界。
当然に三輪山には、数多の磐座が存在する。龍の磐座。仏の磐座。蛇の磐座。天狗の磐座。稲荷の磐座。眷族神のほど、磐座が、三輪山には、存在するのである。
三輪山とは、三輪神仙界。
多くの現世利益を願う存在には、永遠に知れないが。
なんせ、三輪山の頂上の神とは、太陽神。
日の出の神。
三輪(さんりん)なる、天と地と人の主体は、太陽。
これは、直覚によるのみ。
三六九神示の小長谷修聖師は、それを覚られておる。
三輪山を蛇扱いするのは、その眷族を観るのみ。その当代を覚れない。
三輪山自体を神と見る。ゆえに、それを登拝することに、反対される存在もある。
欲望多き人間は、登らない方が良い。欲を叶えられても、不敬であれば、確実に祟る。それ程、眷族界神の機能は、凄まじい。
簡単に述べれば、神に仕える、志しがある、人間のみが、登拝すれば、呼応する、練気となり、励み学びとなる。
三輪山に登る人と拒む人の境とは、神に仕える人か、望みを持つ者か、否かに尽きるのである。
平たく言えば、神を利用するか、無垢に憧れるか。
人間の存在として、産まれたとたん、オギャアと、欲望に目覚める。生存本能なり。食欲。睡眠欲。知識欲。親愛欲。恋愛欲。差別欲。従う欲。従わせる欲。八百万の欲。
神に従いたい欲。
ははは。
信仰とは、人間の欲でもある。人間の良さでもある。
無垢とは、即ち、高次の自身の表れでもある。
まあ、この地球。愛すべき、憎むべき。
その最中に我々が存在する。
地球の中、日本の中、三輪山。
登るも登らないも、自己の小宇宙次第。
そして、神の元へ、回帰する道こそが三輪山道なり。