玄徳道

道を語るブログです。

弭劫寿世要旨道12

2022-04-24 16:46:00 | 道院

功候に「初・進・完」の三段階があるのは、「静」の働きが始まる最初であり、必ず先に「明心見性」(自分の心を清浄にすることによって明らかになり、それによって自己の本性の働きが現れる)すれば、おおむね邪(よこしま)な道に堕落するようなことは無い。

恭(うやうや)しく孚聖が南京道院の扶乩に臨んで言われるには、事理(因縁によって生じること)が移り変わる事に対しては、性が幻影を識別する。

もし、心を明らかにしようとすれば、必ず先ず「見性」しなければならない。

「先天の心」と言うのが、即ち性であり、「先天の性」と言うのが、即ち「虚無の元気」(宇宙無限エネルギー)であり、それには一つの虚と言うものを知らなければならない。

人は生まれて来てから、気質の偏りによって囚われ、情欲によって蔽(おお)われ、愛欲によって纏(まと)わりつかれるのは、長い間、心が「虚」でなかった事が続いて来たからである。

気は心に使われ、精は神に使われ、馳せたり、迫ったり、妄(みだ)りにしたり、気ままに戯れたりし、消耗し、散じて殆ど無くなろうとしている。

そこで諸修方が修道(坐)を始める工夫として、精神を集中し息を調える事を重んじる理由がある。

そもそも、神が凝らなければ散らばってしまい、散らばってしまえば、気ままな思いや妄らな慮りがしきりに生じて来る。

その様な状態で、どうして神を凝らし、それによって、丹を錬り、自分を中心によって統一することが出来るだろうか。

神を凝らす事が出来れば、「一」となり、「一」となれば虚となる。
(易で言えば、陰陽から太極になり、太極から無極になること。悩みや苦しみや迷いの無い状態)

吾が心の「虚」とは自分の未生以前に、天から賦与された「性」(中庸で言う、「天の命これを性と言う」の性)であり、外から来た、太空の虚は、即ち未生以前の「虚無の性」である。

息が調わなければ、心が放たれる。

心が放たれれば、内において、臓腑、外においては皮膚に、一団の躁急(苛立ちや焦る気)が起こって来る。

神を凝結することによって、自分の命の働きの基礎になるのであって、言葉の上では言い表すのは難しい。

ただ、息を調える事が出来れば、「平」となり、「平」となれば、「和」となる。

自ら生じて来た「和」と言うのは、天地の命を受けているのであり、外来の太和の気と言うのは、未生にして天地の命によるのである。

これこそ、真の「性」であり、真の「命」であり、また、仙仏が修養して仙仏となる性命(性は本体を現し、命は用きを現す)なのである。

諸修方たちが、「帰根複命」し、神化の域に至ろうと思えば、別に、他の修業と言うものは無く、ただ、神を凝らして「静」に至るようにし、息を調えて、天地の気と一体になるようにし、「忘れる事なく、助ける事なく」、急がず、怠らず、緩急が無く、自己の心神気息を「虚無静篤」の境地に入るようにするのである。

(註 帰根複命…「老子」に「それ、物、芸芸たるも(盛んに生成し、繁殖する)、各々根に復帰す。根に帰るを静と言い、是命に複る(初めの本性に立ち帰る)と言う。命に複るを常と言う」とある。)

(註 忘れる事無く助ける事なく…「孟子」の中の一節で、修業(修道)を田の苗に例えて、忘れいる者はちょうど苗の回りの雑草を抜かないで放棄しているようなものであり、助けようととする者は、苗を早く成長させようとして、無理に引っ張って抜くようなもので、どちらにも害がある事をいっている。)

(註 虚無静篤…「老子」に「虚の極を致し、静の篤きを守らば、物物並び作(おこ)れども、吾れ以て複るを観る。」(虚の極みに到達するように努力し、日常生活で心の妄念や妄想を起こさないように厚く誠で努力すれば、万物が生成化育され、自己の本性に複(かえ)る事ができる)とある。)

その「虚」は、「人為の虚」ではなく、「自然の虚」であり、それが天地鬼神人物(全てのもの、森羅万象)と一体になる源である。

実とは虚で無いが故に「実」なのである。

自分の心神が虚であれば、天地の清和の気と、自然に一体となる。

人が天地の働きに参加し、化育を賛(たす)け、変幻窮まりない働きをする理由は、清空の極や、気が内に入って来ることを感じる事が出来るからである。

これを「虚中実有り」と言う。

長い間に、神が凝って来れば、心身の内外に、「剛健中正にして、純粋明精」の境地があらわれて来る。

この様に見性してこそ、はじめて真の性が現れる。

つづく。






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