沙宝
霊宝
済仏、妙山より来る。
衆星(多くの星)は極に拱し(北極星に向かい帰向する)天はまさに曙宿の霧が漸消し、月日が明かならんとす。
但だまさに、万霊一炁に帰して、天下坦蕩(ひろびろとして、こだわりがない)承平(太平)を見んとす。
哈哈(ああ)、四言(前記の詩を指す)で始まったが、談ずる程容易なことではないのである。
世の中が平穏で太平であるということは、人々の望むところである。
しかし、人心は昔と違って軽薄であるというのは、今日に始まったことでなく、時代が繁華(はなやか)になる程、天下の動乱が益々激しくなっていくのは、何故であろうか。
人心というものは、永遠にこれで良いと言って、満足する事はないのである。
そこで、人心が一たび満足することが無ければ、争奪して混乱が生じてきて、止む事がないので、聖賢といえども、又、ただ、嘆息するのみである。
大道(老祖の現化降臨した1920年)が世に行われるようになって、最近百年来、神聖仙仏は絶えず、災を消し劫を弭(な)くして来た。
そこで消えるものは自ら消えても、一方で増長し、神聖仙仏もまた、殆どこれに対応する方法が無いのである。
吾が道は天命を奉じて世の中の劫を消し、人心を挽回して太平の時代を早く見たいのであるが、いかんせん、乱の萌(きざ)しが日に日に酷くなり、今日に至るまで早く泰平を招来することが出来ないのである。
どうしたら、よいであろうか。
どうしたら、よいであろうか。
吾が道の修人(修方)は全国にあまねく、遠くは東西洋に及び、人々の初心はみな、各人の良知良能にもとづいて、世界の平和を祈念している。
たとへ、少数の人が誤って岐路に入っても自ら、又能(よ)く迷いの道から立ち戻り、天を助けて道を宣化するということに、復帰するのである。
今日の世の中を見たところ、末世に臨んでいるようだが、しかし、依然としてその「柳は暗く花は明かして又一村」(道が極まらんとして、又新しい展望が開けることを指す)の時代を見ることが出来るのである。
ただ、修人が初めの四顔(一こい願わくば上乗に至らせ給え、一こい願わくば真諦を悟らせ給え、一こい願わくば、功候を得さしめ給え、一こい願わくば衆生を済度なさしめ給え。)にそむくことが無ければ、遠くない将来に光明の時代が必ず、出現するのである。
各方、自らよく修めて、共にこれを満たすように求めるのである。
ここに厚く望むのである。
これを努めよ。