老祖訓「天地の間に盈ちるものは皆、青玄の氣なり。」
密(ひそ)かに考えてみるのに、天地の天は空の至極であり、地は静の至極である。
その天地が生まれて来るのは、先天の炁より生まれて来るのである。
その活動は霊によるのである。
それは、先天の炁の中に於いて、これを化するのである。
そこで一切のものには、それぞれの形を授けているのである。
これらは皆、霊の中に於いて、育てられているのである。
息息として(絶え間なく)息吹いて、実体を作り上げるのである。
これを推し進めて行けば、始まりのない始まりに至るのであり、それは、先天の一炁だけである。
至聖先天老祖は、天地日月星辰を生み出し、これらを全て宿しているのが先天の一炁胞である。
儒教ではこれを無極と言い、道教ではこれを太虚と言い、仏教ではこれを真如と言い、キリスト教ではこれを上帝と言い、回教(イスラム教)ではこれを真宰と言っている。
老祖の本体について言うなら、それは大道である。
道は本来無名であり、これを名付けて道と言う。
五つの教え(道教、儒教、仏教、キリスト教、回教)と言うのは、それぞれ異なっているが、それはその土地により、その時代によって教えを設けて来たのである。
全ては、老祖の大道に基づいて、ここに道院を設立し、ここにこれを祭るゆえんである。
"青玄宮一玄真宗三元始記太乙先天老祖"と更に五教の聖人をここに配列されている。
これによって道を明らかにし、五教を合わせて、これを統一し、そこで六と成るのである。
老祖が「坐釈法言」の中元編で述べる。
天地の未だ定まらない前に於いては、先天の先があり、それが乾元と坤元とによって、造られた所の機(はたらき)となり、それがコツリン(勿⬜︎侖⬜︎=⬜︎に勿や侖の文字が入った漢字。変換出来ず。)の一胞(注 コツリンの一胞とは、天地陰陽が分かれる前の先天の一炁胞は、楕円形にして、天地万物の原素である。)の中に隠されている所の本体である。
これより、乾坤(天地)が分かれるようになってから、陰陽のニ気によって形が分かれて来るのである。
一元の働きはこれより分かれて、三となり、五となる。
これが合わさって、九となるのである。
そして、これが大千世界となるのである。
これによっても、精一の水が一を孕み育てるので、これによって、運化の功を知る事が出来るのである。
しかし、先天の炁が生ずるところの初めには、コツリンコツリン(そっくりそのまま)本来の姿である。
混沌としている際においては、所謂孕むとか、運(めぐ)らすとか、育てるということがないが、それから、化して、孕み、運らし、育てるという働きに頼るのである。
これらは、皆、老祖(先天)の初まりの本体の働きではないものは無いのである。
水の精の源の原素は、この一元より生じて来るのであり、従って、その為に各弟子に坐を語るのである。
そこで先ず初めの原素のもとより、分かれる前の相(すがた)を語らねばならないのである。
それには先ず吾を知ることがその根源である。
そこで、その形が分かれるところの必然性を知れば、即ち生成化育の正しい働きに至るのである。
生成化育を知ることが正しい運化の至極である。
そこで先天の炁が孕み、後天の気がこれを運らし、このようにして、男女の功用(はたらき)を悟る事が出来るのである。
そこで先天の炁と後天の気の男女の精が交わることによって、二五(陰陽と五行)の妙用となるのである。
そこで性命の生成化育を知る事が出来るのであり、これは循環して、変わることが無く、さらにこれを改めることは出来ないと言う道理を知るべきである。
これによって、先天と後天の自然の功侯を悟る事が出来るのであり、そこで又、人の霊の始まりも知る事が出来るのである。
人の霊の始まりとは何であろうか。
それは虚の中の虚の至極であり、これによって、虚の至極が化育して、虚中の実を生み出すのである。
そこで、虚によって化し、実によって生み出すという、道理になる。
これによっても、後天の一気によって形が形成されて来るので、これより千差万別の種類に分かれて来るのである。
これらは、全て定まっている不変の道理であり、そこで各弟子は、先天がこれを運らし、先天の炁が化育するところの功用を悟る事が出来るのである。
吾人の最初は何であったか。
それは源の原素だけである。
原素とは、これ精一である。
精一とは何であろうか。
それは陰陽のニ気が交わったものである。
このニ気はどうして交わるのであろうか。
先天の一炁が虚から化したものである。
先天の一炁の虚から化したというのはどういうことであろうか。
それは水の精である。
水の精は先天の炁となり、先天の炁は童子(男)であり、精一にして水となり、後天の気が妃女(女)である。
一元とはその関係するところ、乾坤二つの道が分かれたところである。
それが更に分かれて千差万別となるのである。
これらの最初の根源はただ、一だけである。
一より二となる。
二より三を生じ、これが天地人の三つの位が定まることである。
その一元が未だ分かれない前においては、一より、正炁に至ることを知らなければならないので、これがコツリンである。
各弟子は、嬰児が一気胞の中で、休んでいる時に於いてこれを明らかにする事が出来る。
先天と後天の本の始まりを求めるのである。
そこで坐を捨てて、虚によって運らすところの功用を生ずると言う事は、恐らく不可能であり、坐以外には、この秘訣は無いのである。
故に一元が先天の炁の根となるのであり、そこにニ気は一元を運らすことになるのである。
性命(本性と天命)とは性霊の主宰となるのである。
そこで始めて真一を生じるところの至極の道理を知る事が出来るのである。
更に吾人の霊とは、最初の時は静と動の機は隠れているのであり、これらは純粋の虚である。
故に、人が生まれる時には、人と動物の違いが無く、又識別の自覚も無いのである。
そこにあるのは、僅か一点の霊だけであり、それは虚を運らすだけである。
従って老人(老祖)が石門に於いて、坐を伝えた時、天の老母(斗姥星君)が私に道を聞いた。
その時は僅かに草が歩き、木が語り、これらの為に解説したのである。
動物と植物との区別が無いと言う事を証明するのである。
そこで人の霊を知ろうとすれば、それは草木の霊と同じである。
草木の霊は人の言語に表されるのであり、又動物の霊も同じである。
そこで、ゴリラや鸚鵡など、これらは全て猿の類であり、皆言語を持っている。
そこで先天の一元の主宰を知る事が出来るのである。
即ち、先天の炁の虚の働きが霊を運らしているのである。
即ち、有は天地人の分かれたものであり、そして、天地人の分かれた後に、動静の働きが現れて来るのである。
これによって陰陽ニ気が運る事になる。
そこで、人類に妙用を与えて、これを成就させるのである。
即ち有とは、これを生成化育の相循環する所の働きによるのである。
これら有とは陰陽消長を断絶し、奪うところの無の中にあるのである。
老人(老祖)は七回石門で道を伝えた。
各弟子たちは、先天の大本を実証し、一元の根本に関わる道を明らかにし、各弟子は坐の運用を知る事を期待したのである。
これは正気の根源に従って其の本来に帰ったのである。
各弟子は道の系統に基づいて、これに合し、さらにこれを細分し、先天と後天の妙を体得することが出来るのである。
蓮台聖(観世音菩薩)が女社の訓文で言うには。
老祖の命を奉じて、特にここに来て述べる。
老祖の本来の面目とは次の通りです。
老祖とは先天の炁であり、いわゆる炁胞です。
故に人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道をに法り、道は自然に法るのでございます。
自然とは、先天の炁であります。
天の日月星辰は老祖がこれを分布配列したのであり、これが大なる先天の炁体の世界でございます。
老祖はそこに居るのであります。
万物は皆、その先天の炁がこれを孕み育てたものでございます。
故に道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じるのです。
吾が師(老祖)が化するものとは、万劫を経ても滅びず、混沌を経ても滅びることはないのです。
数千万紀(一紀は十二年)を経てもその化育の跡を留めないことはないのでございます。
生物においても、これを知る事が出来るのです。
人の霊性は、もし虚に返る事が出来れば、喩え大災劫に会っても、少しも損なわれることが無いのでございます。