何を内流と言うのであろうか。
神と人とが、他人、宗教、教祖と関わらず、神と一対一に直接に交わる。それを内流と呼ぶ。
ちなみに、守護霊や眷属神との会話とは、大分意味が違う。
スピチュアルの世界では、人を教育し、守る守護霊があるらしい。
人を守る為の霊。また、反対の人を害毒する為の霊。
まあ、守護霊云々の御伽話に頼れば、世界には争いは生まれるはずもない。なんせ、人には必ず、守護霊が教育すると言う。しかし、邪悪なる因縁霊や悪魔的要素が、人を惑わすと。
いやいや、人が神と親しむ時代の太古には、守護霊もいないし、因縁霊や悪霊も居なかった。
霊界の増大は、人の私欲、智慧、人の産み出す想念に伴っている。
仮に守護霊が太古から居れば、教育宜しく、戦争なんて起きるわけがない。
人と人との争いは皆無である。
例え農作物による、指導者と従事者との身分差などあろうとも、正しき聖霊や守護霊が憑いておれば、人の役割の尊さは変わらなかった筈。
善も悪も守護霊も邪悪霊も人がその歴史と造化の最中にあらわれた。
まあ、なんにせよ、人の歴史とは、互いに欲しがり、奪い合い、大いに戦争をして、互いに殺し合ったのが真実である。
都合勝手な人の欲望こそが、あらゆる思凝霊(善霊悪霊)を膿んだに過ぎない。
道を修める人は、守護霊や云々に拘り、関わるべきではない。また、存在を否定すべきでもない。
道とは、克己復礼。内省。誠。潜修あるのみ。
自ら歩み、自ら修める。修身斉家治国平天下。
さて、神は外にも内にも居られるが、現代人は、外的要素をもってのみ、神へと交わろうとされる。
パワースポット、神社仏閣などなど、自然や、樹木、磐座などの、外的要素に概念を向ける人がほとんどである。
故に、人と神との垣根を自らがつくる。
吾が内なる神を覚神せずして、外の神の何が判るのであろうか。
神は神をもってしか通ぜず。
内流には、みなもとがある。
人には御魂が備わり、それは、親神に繋がり、授かれた、内的な吾が主神でもある。
水に源あり、木に根本あり。
これを水源木本と呼ぶ。
人は親に基づき、親は先祖に基づき、先祖は神に基づく。
内流的には、「人は自然に基づき、自然は神に基づき、神は宇宙に基づく」なり。
全ての人は神から天授の玉(魂)を備えられておられる。
故に、自己の本源(御魂の素性)を知りたいと思考するのであれば、自らの源を探求、探索せねばならない。
しかし、今の人は、娯楽に溺れ、地位や名誉に囚われ、文明社会に犯され、自己の天命を知ろうともせず、また、悟れず、自己の素性を覚れず、ただ、環境に流され、また、思想の渦に囚われて、神たる人の本質を見失っておられる。
まして、我自身こそが、神の魂そのものである事を知らない。
なんせ、他人を見れば、神の様な人は一人もいないからである。
他人の中の御魂を見出す事もできない。
そもそも、神は悪も善も内包する。
神は全てを含む虚包なり。
善悪を兼ね備え、括り、超越する神を直覚で信じる事が出来る、人が少ないのである。
他人や、親や、宗教により、教えられた神を神とするが、人間であります。
神は観念では無い。
神は人の思考を超えた存在。
さて、簡単に言えば、内流とは、神との対話である。
神とは人にあらざる。
故に、会話は成立しない。
何をもって、神と対話するのであろうか。
真神は語らず。示さず。感合(和)するのみ。
神は炁。
神は光。
人の魂もまた、光。
神は闇。
人の魂もまた、闇。
相対する世界の垣根を超えた世界にこそ、素(す)あり。素は、糸あり。素から糸をほぐせば主。
主は、意図なき、我無き、産土心なり。
神と対話とは、魂と魂との響き合い。
言語に頼らず、鳴り響き共鳴、共感して、明らかとなり、覚る。
人間は、人と同様に、神との会話や対話を求め、それを概念に思凝り、観念するが故に、誤るのである。
草や木と動物と会話するに、言語は必要ない。
ただ、スピリットあるのみ。
「内流をより、多く受けるには、どうしたらよいでしょうか。」
「小我を出さぬようにして、気持ちをつねに、神様の方へ向けている事が第一です。」
「向けようと思っても、向かない気持ちの時がありますが。」
「自分で自分を引きずる努力が必要です。どんな場合でも、神様へ向かうということは、一番大事な事に決まっているのですから。」
無邪気なる 子供ごころに 神様と おすがり申すが 宜しかりけり。
み光に 会うたびごとに 内的の 視力いよいよ 強まりてゆく。
内的の 視力すすめば おのづから ものの判断 かわりてぞくる。
神は空。
神は虚。
神は霊。
自我(我よし)を無くし、小我(正義)を無くし、大我(調和)へ至り、虚(霊)を悟り、真炁來復して、無我(虚空)へ至れば、神と日竎(ひび)き合うなり。
道を修めるには、坐よりはじめるが適格です。
そして、虚空に至る道こそが先天坐法なり。
神は万物普遍の霊。
炁とは、唯一、虚霊のみ、感合するなり。
内流も外流も和合して、はじめて、神人合一となるのです。