人は、死ぬ。
例え、それが聖人であり、仙道の奥義を究めた仙人でありとも、神人合一を窮めた神人でも然り。
神界、神仙界なる世界は存在する。
そこは、やはり、死んだ魂がおもむきます。
もちろん、天国と地獄は存在し、其処は、自己の想念、思念により赴く世界でもあります。
それは、真実でございます。
日本古来の神道で言えば、隠り世であり、人は死ねば、魂は、神に還り、魄は、大気に返り、肉体は地に帰るのみです。
故に、神道では、教えはありませんが、神なる根源に戻り、また、復活を致します。隠れたら、また、必ず現れるからです。
佛を述べれば、人が死ねば葬式があり、その想念の流れは、三途の川があり、姥捨が俗世の着物を脱がし、魂魄は、人生の功罪により、閻魔の裁きを受けます。
子孫は、先祖にあの世で幸せになって欲しいために、戒名をつけて、お寺にお布施して、あの世の裁きを少しでも楽になって欲しいと、極楽に行って欲しいと願いますね。
佛道には輪廻があり、六道を巡り、また生まれ変わる事となります。
縄文時代には、葬式なんて無く、人が死ねば隠れて古い着物を脱ぎ捨て、時が経ち、時節か来たらば、復活すると確信して、死とは、穢れではありませんでした。
太古の時代は葬儀もなく、自然こそが、全てであり、人の屍は大地へと還元され、土へと還るのみであります。
言わば、魂は、根源に帰り、魄は、人の思念なる、世界(霊界)に留まり、身体は大地に還ります。
人情でいえば、愛する家族が死期を迎えるのは、耐え難く、また、家族の情は、それを納得せず、様々な情念に覆われますね。
それが今の人でございます。
人が死ねば、魂は神に帰り、魄は、天国と地獄に堕ちて、そして、残された人は、嘆き、悲しみ、その情念は、霊界を更に、穢す行為ともなり得ます。
愛する人が死に、何故、人が悲しむのでありましょうか。
全ては、執着でございます。
愛欲でもあります。
愛するが故に、死んだ後も、ひたすら心配、執着を致します。
道を歩む者は、人の死の本質を覚り、人の魂魄の行き先を観て、人の神の本質を悟ります。
故に、道を修める者には、超祭を許されます。
超祭とは、神の赦し。
自然なる根源なる先天炁に委ねる法であります。
超祭の功徳は、粉砕された、魂魄ですら、回光救済、致します。
戦争、テロ等で殺された、人の魂と心なる魄は、肉体と繋がっており、特に、爆弾等で死んだ人の魂魄は、肉体と同様に粉砕し、偶然に、魂は神に帰っても、魄なる人の心は、粉砕、破壊された無限ループに囚われるのでございます。
故に戦争等における肉体の破損は、魂と心を破砕し、修復する事は、かなり難しいとされます。
されど、唯一取り戻せるのが、先天の炁でございます。
炁とは、原初の始まり。
炁とは水。水は万物を育む親。
水炁を化すれば、火炁となる。
言わば、超祭とは、水炁と火炁の祭り。
祭りとは、真釣り。火水合わせ。
阿衡なり。均衡なり。調和なり。
そして、超祭ありてこその超抜冥修。
道院による超抜冥修とは、神様から、許可を得て、修方の先祖の為に、子孫なる修方自身の功徳、功行によりて、故人を輪廻の軋轢から度(すく)い、その霊人を聖霊、神霊の元で修行させる、法でごさいます。
女霊であれば、蓮台聖なる観音様が、霊界の聖域、「潮音」にて、霊修、冥修してくださります。
男霊は酒仙、済仏さんが霊界の聖域、「南屏」にて、霊修、冥修してくださります。
当然に、日本人であれば、その霊は産土神が働き、その神縁により、産土界により、超抜冥修が行われると考えます。
超抜冥修とは、例え、人殺しや自殺し、地獄に囚われている霊魄でも救える唯一の神宝でもあります。
人殺しも自殺も共に、人の御魂、自分の御魂を殺した、神殺しであり、大変な罪業であります。
それを救える、超抜冥修は、古神道にある十種神宝なる、死返しの宝(法)と同様であるの考えます。
かつて、道院では、香資(献金)により、フーチにて神使により、超抜冥修を許可されておられたようであります。
フーチ無き今、真の修道者は、坐功により、自己の小周天を大周天へと回光させ、自らを回天の礎として、多くの縁ある諸霊、先祖霊を聖域へと導く筏となり、神霊、聖霊、産土神と共に、諸霊を超抜冥修の法により、済度される事を行って頂きたいと考えます。
太陽なる光があり、漆黒の闇があり、それらに、照らされ照らすが月照神。
弥勒神とは同履なり。
未来へ至る道を示し、全てを救う当体なり。