ここは、どこだったけかなあ。
大斎原の河原で無意識に拾った石である。
かつての神跡。熊野本宮神社の跡地である。
明治期に洪水により、熊野の聖地は、遷界された。
人には、神の眼、天目が無いのであろうか。然り、無し。否、個人に依る。
現在の熊野本宮に熊野素神が居られるのであろうか。素神は、相も変らず大斎原に降臨する。
人は、愚かにも、神を遷神するが、神は動かず。
人間如きの意向で行動される神等、皆無。なり。
神が、思いを寄せる自己の信仰で動くと想う人間心も然り。未熟なり。
神が人間の事情により、動く事は無し。
神が動くのは、人欲を捨てた、無欲の、主一無適の至誠のみ。
神は、決して、宗教団体の想念では動かず。
しかし、人間は、宗教の感化に寄る神を信じる。
宗教を信じない人間は、スピリチュアルによる神を信ずる。
宗教の神とは、観念であり、妄想である。スピリチュアルの神とは、他者から自己思想に被れるなり。そして、想いが凝る。思凝りによる、想念の悪化。一念三千。その凝りにより、悪魔が来るなり。
ハヒフヘホう。
人が活きる神と出逢える事があるのであろか。
ある。
神と出逢った人はそれを宗教的にもったいぶらず、このように述べた。
「吾が自身の内なる神、内在神、内なるキリスト、即身成仏、神人合一、内なる御本尊、自己本来の面目。天命を知る。様々。。。」
そして、共通して、金銭はかからないのである。
神は人に金銭の享受を求めることは、断じて皆無なり。
是を知れ。
内なる神、自神を覚神としてのみ、外なる神を感化出来るのである。
何て事は、神のみが知るが。
自分を知らないが者が、天を覚り、地を悟り、人を理解する事は基本できないのである。
扨て、此処は、大海原を知ろ示す神素盞能王之大神の聖地でもある。
私は、大斎原は、二度目であるが、此処は、人の魂を安らげる、地場である。
大斎原の河原で無意識に拾った石である。
そして、磐笛である。
そして、この磐笛は、光明咒を以て道とす。