玄徳道

道を語るブログです。

大斎原道

2021-02-08 18:43:30 | 神業道
ここは、どこだったけかなあ。

かつての神跡。熊野本宮神社の跡地である。

明治期に洪水により、熊野の聖地は、遷界された。

人には、神の眼、天目が無いのであろうか。然り、無し。否、個人に依る。

現在の熊野本宮に熊野素神が居られるのであろうか。素神は、相も変らず大斎原に降臨する。


人は、愚かにも、神を遷神するが、神は動かず。

人間如きの意向で行動される神等、皆無。なり。

神が、思いを寄せる自己の信仰で動くと想う人間心も然り。未熟なり。

神が人間の事情により、動く事は無し。

神が動くのは、人欲を捨てた、無欲の、主一無適の至誠のみ。

神は、決して、宗教団体の想念では動かず。

しかし、人間は、宗教の感化に寄る神を信じる。

宗教を信じない人間は、スピリチュアルによる神を信ずる。


宗教の神とは、観念であり、妄想である。スピリチュアルの神とは、他者から自己思想に被れるなり。そして、想いが凝る。思凝りによる、想念の悪化。一念三千。その凝りにより、悪魔が来るなり。

ハヒフヘホう。

人が活きる神と出逢える事があるのであろか。

ある。


神と出逢った人はそれを宗教的にもったいぶらず、このように述べた。

「吾が自身の内なる神、内在神、内なるキリスト、即身成仏、神人合一、内なる御本尊、自己本来の面目。天命を知る。様々。。。」


そして、共通して、金銭はかからないのである。

神は人に金銭の享受を求めることは、断じて皆無なり。

是を知れ。



内なる神、自神を覚神としてのみ、外なる神を感化出来るのである。


何て事は、神のみが知るが。

自分を知らないが者が、天を覚り、地を悟り、人を理解する事は基本できないのである。





扨て、此処は、大海原を知ろ示す神素盞能王之大神の聖地でもある。

私は、大斎原は、二度目であるが、此処は、人の魂を安らげる、地場である。



大斎原の河原で無意識に拾った石である。

そして、磐笛である。

そして、この磐笛は、光明咒を以て道とす。













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三輪山。道への回帰。

2021-02-05 18:34:36 | 神業道
三輪山とは、信仰の対象であり、御神体山である。磐境、神奈備、山岳信仰の真髄でもある。

当然に三輪山には、数多の磐座が存在する。龍の磐座。仏の磐座。蛇の磐座。天狗の磐座。稲荷の磐座。眷族神のほど、磐座が、三輪山には、存在するのである。

三輪山とは、三輪神仙界。

多くの現世利益を願う存在には、永遠に知れないが。

なんせ、三輪山の頂上の神とは、太陽神。

日の出の神。

三輪(さんりん)なる、天と地と人の主体は、太陽。

これは、直覚によるのみ。

三六九神示の小長谷修聖師は、それを覚られておる。

三輪山を蛇扱いするのは、その眷族を観るのみ。その当代を覚れない。

三輪山自体を神と見る。ゆえに、それを登拝することに、反対される存在もある。

欲望多き人間は、登らない方が良い。欲を叶えられても、不敬であれば、確実に祟る。それ程、眷族界神の機能は、凄まじい。

簡単に述べれば、神に仕える、志しがある、人間のみが、登拝すれば、呼応する、練気となり、励み学びとなる。

三輪山に登る人と拒む人の境とは、神に仕える人か、望みを持つ者か、否かに尽きるのである。

平たく言えば、神を利用するか、無垢に憧れるか。

人間の存在として、産まれたとたん、オギャアと、欲望に目覚める。生存本能なり。食欲。睡眠欲。知識欲。親愛欲。恋愛欲。差別欲。従う欲。従わせる欲。八百万の欲。

神に従いたい欲。


ははは。


信仰とは、人間の欲でもある。人間の良さでもある。


無垢とは、即ち、高次の自身の表れでもある。


まあ、この地球。愛すべき、憎むべき。

その最中に我々が存在する。

地球の中、日本の中、三輪山。

登るも登らないも、自己の小宇宙次第。


そして、神の元へ、回帰する道こそが三輪山道なり。

































コメント (2)
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