南海大士が南京の女道徳社に臨んで扶乩に示して曰く。
修道には、本来他に妙は無く、洗心滌慮(心や想念を洗い清める)を先となし、明心見性(心を明らかにして本性を見る)する事が真の悟りであり、そして初めて、一片の清霊が現れるのです。
富貴栄華は仮の虚像であり、夫妻児女は、空言であります。
人生の楽しい境遇というものは、何年続くのでありましょうか。
臨終が来た時には、各々、自分で処置するのです。
人生はこの世に在って、どれ程の歳月を過ごす事が出来るのでありましょうか。
もし、早めに修持(修道を歩む事)して、固有の天に帰らなければ(鬼雷述べる、今、生きている人は既に、天に属し、地に属し、人に属し、天国地獄に属している。人が生きている間に、神に会わねば死んでも神に会えない。また、生きている間に、天国に登らなければ、死んで天国に至る事は難しい。只今の心境が人を不滅とし、また、亡者となるのでございます。)一旦足を踏み外すと、鬼となるか、虫となるか、或いは獣となるか、或いは禽鳥となるか、如何なる道に堕落するか分からないので、どうして悲しまないでいられましょうか。
よく考えてみると、結局は徳を修め、道を明らかにするに、こしたことはないのです。
修練は、人生にとって素晴らしいことであるが、いかんせん世俗に押し流されて、既に本来の真性を失っています。
もし、真の師匠の指導が無ければ、また、どうして道を知り、道を行なって、その正道を失わないでいられるのでありましょうか。
この混濁の世に天災が流行り、人劫が充満している時に当たって、吾が師(至聖先天老祖)は、天災を悲しみ、人禍を憐れみ
霊を降し世を度(救おうと)、道院女社を成立させたのは、普(あまね)く極(すく)うことがその主旨であります。
わたくしは師の命を奉じて社壇をしきり、扶乩に臨んで教化します。
喜ばしい事は、各地の社の修方が女子の身を以って能(よ)く修道の要旨を明らかにし、且つまた、多くが仏門の弟子であって、慧業を具(そな)えていることが、宏深であり、非凡なる女流であって、深く欣快にたえないのでございます。
修道とは何かを知ろうとすれば、それは他なく、ただ洗心滌慮に在り、その心を虚にすることを以って基とします。
虚であれば、霊となり、霊であれば、真心が現れるし、元性が生じて来ます。
これが即ち明心見性の一端となります。
明心見性を知得しようとすれば、それは非常に難しいことではないのでございます。
それには、己自身の一念を丹田の中に返して、常に明らかに照らすのでございます。
始めに念を動かすのは心です。
明心の明とは則(すなわ)ちこれを明らかにするので、その他に明らかにするものはないのでございます。
未だ念を動かさない以前は、一片の空明で虚虚渾渾として、明らかに一物も無いのです、これが即ち性でございます。
見性の見とは則ちこれを見るので、その他に見るものはないのでございます。
明心見性とは、この様なものでございます。
これは、群陰(陰の極)が凝り閉ざされている時に於いて、忽然として、一陽が初めて動き、突然回光します。
即ち古人の言う、一年では、冬至の陰極まって、陽が生じ、一日では夜半の活子の時が来る所の一候であります。
そこで、乳房を回光返照すれば、これが乃ち、水源至清の候で、神を練って仙に上ることの出来る薬でございます。
これは、病いを却(しりぞ)けて、寿命を延ばすだけでなく、真人とも、聖人ともなるのも、この一候が基礎とならないものは無いのでございます。
然し、わたくしは言います、女社の修方が未だあまねく、会得する事の出来ない事を極めて恐れ、そこでわたくしは再び平易な学を示すのです。
蓋し、人身に得難いのは、性霊の不滅が難しいのです。
師の道は、功行を以って世を化すのです。
功とは、己自身の霊を修め、行とは、広く善徳を植える事であります。
その功夫に、着手する時は、身はきちんと正しく、坐定し、心は安らかで平穏に鎮静させ、自ずから自分に言い聞かせるのです。
思うに、天下の事は、何一つとして、人生為に真実に役立つものはないのでございます。
それは、たとえ、富貴栄華であれ、夫婦の恩愛であれ、児女への愛情であれ、たとえ、どんなに、長くても、数十年にしか過ぎず、最後には、離別しなければならないのです。
それは、あたかも、宿泊している旅客のように、遂には各自が君は君、私は私で、東西に別れてしまう事になるのでございます。
たとえ、この一身の肉体といえども、自ら愛さない者は無いが、一旦目を閉じ、気息が絶えてしまえば、この身も土に帰るのであります。
しかし、ただ、この一点の性霊のみが千古にわたっても、滅びる事が無いのであります。
もし、よく修練する事が出来れば、一片の清霊の昇降の機は明らかであって、絶対に昏沈に、陥ることが無く、終には、天堂(天国)に昇る事になります。
例え、輪廻に転じても、我が心はそのように明かであり、本性は、このように清霊であれば、また、非道に堕落することは無いのです。
この様に見てくると、徳を修め道を明らかにし、性霊の千古不滅の楽しみに勝るものかありましょうか。
諸子たちは、この理を徹底的に悟って、身心を堅定にして、静坐を本として、乳房を黙観し、元息を調養し、その自然の流れに任せれば、長期の一陽が自ら動いて、身体は、健康で気力は充実して、どれを取り、どれを捨てるかは自らが明らかにして、分かれるところでございます。
人生も又、一つの旅館に過ぎないのです。
突然に来て、突然に去って行き、それ程問題するに足りないのです。
ただ、わたくしが、院社の諸子が吾の今の言において、再三これを、注意すれば、師の恩の一片の世を度(すく)う苦心に負(そむ)く事が無いでありましょう。
各々が勉めてください。
(注、乳房とは、両乳頭の中間、みぞおちの上。)