政友会と立憲改政党とが過去の日本における2大政党制です。何時ごろかともうしますと大正期を中心とした明治期後期から昭和初期までです。昭和も2桁になりますと政党がなくなり大政翼賛会なるモノが幅を利かせます。明治の初期はまだ軍閥政治(薩長土肥)でした。こう見ると大正期の2大政党制がすばらしいように思えますが本当にそうだったのでしょうか。
この時、政権が変わるたび役人も変わり行政の一貫性がなくなくなります。国家的な長期計画など進めようもありません。常に政策変わるのですから。また、国会も与党のスキャンダラス追及に終始し、マスコミもスキャンダル歓迎です、なぜなら新聞が売れるからです。唯一軍部だけが長期的な政策を実行できました。
この当時、ある陸軍の幹部の日誌には、「陸軍省に私服で通勤し省内で軍服に着替えるモノが増えた」とあります。戦前が軍国一辺倒だったのとは、異なるようです。また、軍縮も世界的に進みました。ワシントン軍縮条約では対英米比6割と海軍の軍縮が進みました。しかし、終戦まで陸軍と海軍との予算は全く同等でした。なにか現在の予算配分みたいですね。満蒙国境で旧ソ連が軍備拡大、それを旧日本陸軍がシュミレーションした結果対応できないため本国に増援を求めます。しかし、当時の政府はそれを無視します。ロンドン軍縮条約で予算がないと言って、当時の総理は加藤友三郎元海軍大臣です。陸軍は6個連隊で1個師団を5個連隊で1個師団とし、余剰人員で新たな師団を編成し満蒙国境に派遣しようとします。しかし政府は人員の削減だけ認め後は知らぬ顔です。ここでかの有名な「統帥権は天皇陛下の専権事項である」と言う言葉が生まれます。その後この錦の御旗だけ乱用されました。
また、浜口雄幸首相が東京駅で暗殺されます。これにも軍が関与していました。その後実行力のない政府は国民に見放され、軍政に国民が指示をはじめます。
後は転がり落ちるのみです。軍は消費機関であり生産機関ではありません。汚職官僚の打破は強行にできますが、自らも汚職官僚に成り果ててしまいます。
いずれにせよその政治システムを運用する人間(国民)の質にその政治体制の善し悪しが左右されるのです。