東大が加藤教授の細胞に関する論文43本に疑義を唱えた。部下に当たる準教授や研究員の論文を教授が盗用する話は小説やドラマでも在り来りである。どうも今回は改竄と捏造の疑惑がもたれている。
加藤教授の分子生物学なる学問の研究所には国から20億円もの資金(税金)が投入されている。これで20名ほどいる研究員が博士論文などを書いたようである。
税金が投入されれば、その使い道やその成果物に対する監査は厳しくなるのは当然である。全柔連の助成金の不正流用とその根幹は同じではないのか?世間知らず所は同じであるように思える。結果は同じである、学者とスポーツ特待生は、こと社会性については大いに疑問が残る人種である。
ただ、東大は流石に自浄作用が働いたようである。人間の歴史をみれば組織に不祥事が起こることは防ぎようがない。その時どれだけ自浄作用を発揮できるかにある。これは官僚組織に言いたいことでもあるが、東大は今回自浄作用が働いたようだ。
これは喜ばしいことである。日本の学問の頂点たる東大において組織の自浄作用が発揮されたことは喜ぶことである。出来得るならば、各学会で頂点を占める東大卒の学者先生もその学会で自浄作用を発揮していただきたいものである。硬直化した学会が政府の決定事項の裏づけや権威として官僚の失敗した時の逃げ道となっている。学閥主義や権威主義は日本の学問の世界の構造的な癌でもある。
明治の日本人、市民はなかなか侮れない、シタタカである。文豪と呼ばれる夏目漱石と森鴎外、圧倒的に森鴎外は国民に支持されていない、現在も。日露戦争中、陸軍軍医総監であった森鴎外は、「麦」食がカッケの対策であると言う民衆の経験を「ドイツではそんなことは言っていない」と麦食の採用を蹴っ飛ばした。戦死者12万人の内半数がカッケによる。一方海軍は「麦飯」を採用していたため、カッケによる戦死者は0であった。このドイツ権威主義の森鴎外が、逃げ込んだのが文学の世界であった。しかし明治期の庶民は賢く、夏目漱石は持ち上げるが森鴎外は徹底的に無視した。舞姫など純文学的には評価されてもいるのだろおうが、庶民は無視した。
この森鴎外が陥った「権威主義」、現在の官僚組織は陥っていないであろうか?陥っていると思うのは私だけではあるまい。
今回の東大の自浄作用に胸を撫で下ろした。組織として未だ腐っていなかったと。但しこの意見は加藤教授が東大出身者であることが大前提の話である。異なる大学出身者であれば単に他の学閥を潰すためのこうどうだったことになる。