ここ最近、「生と老い」について、新たにその指標を示した作品と出会う事ができた。特段宗教じみた話ではなく、どちらかと言うと科学的な話である。
現在これだけ遺伝子工学が発展しているのにも関わらず、生物の定義さえ確立されていない。
基本となるものが確定していない中、議論を展開してきた宗教に心引かれることはなかった。
私は長年情報処理に携わって来た関係で、情報そのものは瞬間的なものであることを学んだ。情報はそれを記録する媒体により保存活用される。エジソンが蓄音機を世に出すまでは「音」は瞬間的なものであった。それまでは、「紙」に音を擬音化し、または、音符化し、言葉を文字や絵画で留める方法で、情報を記録してきた。この場合情報の整理は「紙」と言う記録媒体の整理を指した。
800年ほど昔、藤原定家は、小倉山荘で式紙に書かれた和歌で百人一首を編纂した。
従来の和歌集は、帳面や巻紙に書かれていたが式紙に書かれたことで、自由に順番を決めたり選択したりして、(自分たち勢力の象徴である天智天皇を最初にもってきた)、おそらく千首近いなかから100首編纂した。理屈的にはカード型データベースある。
「紙」という媒体に「情報」は記録され活用されてきた。
現在コンピュータの記憶媒体の記憶容量は10年前では考えられないほど進歩した。この記憶媒体に個人の「記憶」と「思考パターン」を記憶させ保存した場合、宗教的な「魂」と呼ばれるものの記録ができるのではないか。身体はロボット工学と医学の進歩により移植技術が考えられないほど進歩をとげている。このまま人類が進歩するという条件のもと100年後には、たんぱく質やカルシウム以外で出来た骨格を手に入れるのではないだろうか。
このような発想のもと描かれたSF作品が押尾学氏の「甲殻機動隊」という作品であった。
ハリウッドで「マトリクス」の原案となった作品であるが、この前提が上手く翻訳されていないために理解できた日本人は少なかったと予想される。
また、遺伝子工学の世界では、21日で人間の細胞は新しく入れ代わると言われている。「老い」はその細胞分裂時に遺伝子の端にある「テロメア」なるものが、短くなることであることが認められた。原生動物「ゾウリムシ」等の遺伝子はリング状であり「テロメア」がない。細胞の耐久時間がその固体の終焉である。コピー作業を続けているとオリジナルよりコピーの質が劣化していくことに似ている。しかし、高等生物は雌雄で遺伝子を作ることで、代替わりのたびにオリジナルの遺伝子を手にすることができる。正に生物の根源が遺伝子であるとい言う証明ではないか。遺伝子の材料が塩基と呼ばれるが、六塩基構成、九塩基構成の二つの構成から四つ塩基(アデニン、チミン、グアニン、シトシン)で遺伝子を作る。DNAと言われるものである。そのコピー(細胞分裂)時に、RNAと言う写真で言うところの「ネガ」を作りコピーする。正に生物の本質ではないか。
その場合、ヴィルスはどのような意味をもつのか疑問が残る。RNAの方がDNAより先に存在していたと言う説さえある。
日本のロケットの父と言われた糸川博士が、この遺伝子のルールが中国の「易」に似ているとおっしゃられていた。非常に興味深いことである。易でも最初の卦は「初九」と表現するそうだ。また最後を六を使って表現するそうだ。偶然の一致にしては、他にも共通する事項が多いようだ。
しかし、これはたんぱく質を主材料とした現在の身体である。
機械化と生物学とが融合すれば自然死とは無関係な強靭な身体を手に入れることが、夢物語から一歩現実に近づいてきている。
また、神が許さぬ遺伝子の操作により現在の身体のまま寿命を驚異的に延ばすことも可能性がでてきた。クローンではない。
来世なるものがあったとしても、現在の自分の記憶、自分の思考パターンでなければ、全くの別人ではないか。
このような考察から、「記憶」と「思考パターン」さえ保存できれば、身体のスペアはいかようにも供給される時代が来るのではないか。その場合、人間は果たして幸せなのだろうか。新たにそういう疑問に当たってしまった。手塚治氏の「火の鳥」はある意味そういうテーマである。
機械化された身体を入手した人類は、(「甲殻機動隊」や「マトリクス」でも)ネッワークを使い、個人情報の共有化が容易になる。個人が見たり聞いた情報を複数の人間が誤解無く共有できる。伝言ゲームの必要性と不完全さが一掃される。しかし、逆にインターネットでもよくあるハッキングも起こる。
自分が信じていた記憶そのものがニセの情報だったりもする。
人間の見るという作業は、目で見た情報を脳に送り、脳が処理して記憶している。この目から送る情報をハッキングした場合、人間は目で見た情報と異なる情報を自分の目で見たように信じる。
結局は現在のネットワーク社会の弊害がそのまま個人レベルの日常生活にも付き纏うことなる。