
上の写真は、暖炉の前で仲良く暖を取る弟の家の評判の悪い不愛想なネコのミリセントと、夫です。
3年ぶりに訪ねたら一皮むけたように愛想よくなっていました。
...と言っても隠れるのをやめただけで、客人にさわられるのは嫌がります。
暖炉をつけると「おなかあぶり」に出てきます。
ケントは、のちに「アルファ・ヴァリアント」と改名された、コロナウィルスの英国変異種(ケント・ヴァリアント)が最初に確認された南東の海岸州です。
年末に高齢でなくなった夫の父のお葬式に出席してきました。

「森林葬 woodland burial」と聞いていたので、もっとうっそうとした自然な森を想像していたのですが、違いました。
広大な 私営の「自然埋葬地 natural burial ground」です。

いろいろな種類の樹木がまばらに育ちかけている植林地でした。

故人が生前に買い取った埋葬区画に行くまでにちょっと草の生え具合の違うところをいくつも踏んで通ったのですが、よく見ると名前の書かれた、十字に組んだ目立たない木の板が土に刺さっていました。
埋められた数々のご遺体の上を踏んで通っていたことが分り、恐縮したのですが...どうやらかまわないようでした。

土に還ったご遺体を養分に樹木が育つ、のが自然葬の意義なのですから。
墓石などおかず、そのうちだれがどこに埋葬されているのかもわからなくなるかもしれないのも自然葬の意義なのでしょう。
指定された場所に行くと、前もって掘ってあった深い穴の上に角材2本を渡し、その上に柳の枝で編まれたカゴ編のお棺が載っていました。
持参したタブレットから静かに流れる故人の好きだったクラシックミュージックをバックグラウンドに、夫の弟が故人の生前の人となりや英国のEU加盟実現に上級公務員として尽力した驚きの経歴(と故人が好きだったオヤジギャグのいくつか)が語られ、故人の妻が詩を引用して亡き夫への愛を語り、
ころあいを見計らって係の人がお棺を穴の底におろし、20人足らずの会葬者がカゴ一杯のハーブの葉や枝をひとりずつお棺にふりかけ、式は終わりました。
感動的で心のこもった素晴らしい式でした。
イギリスでも近頃は火葬がごく一般的です。
スペース不足や信者の減少などのせいか教会の墓地に埋葬する伝統的なやり方は現在あまりないようです。
本当は(遺体に限らず)何でも燃やせばガスが出てオゾン層の破壊につながり環境に良くないらしいのです。
夫の父の再婚相手である未亡人が特に環境問題に関心があるために2人で希望した比較的新しい形態のお葬式です。
となりに年の離れた妻の死後の埋葬場所も確保してあります。
それにしても故人夫婦のロンドン郊外のグリニッジの自宅からも、すべての子供たちの家からもずいぶん遠い不便な場所です。
夫の弟だけが同じケント内に住んでいるのですが、それでも1時間近くドライブしました。
埋葬地の外は一面の果樹園です。

となりにウマの放牧地を有する古い(16世紀ごろの建物?)果樹園経営の農家がありました。

自宅の広い裏庭を趣味で果樹園にするつもりらしい、退職した夫の弟は果樹に詳しく、「これはリンゴ、これはナシ、パブの周りの灌木はグーズベリー」とドライブしながら言い当ててみせました(あたっているかどうかは不明です)
とにかくあたり一面、果樹園でした。
ケント州は果物の産地として知られています。
平らで広々とした果樹園や耕作地がどこまでも続きます。
「白っぽい石を積んだドライストーン・ウォールに囲まれた丘陵の牧草地で草を食むヒツジ」が典型的な田舎風景である、私たちの住むイングランド北部の田舎とは全く違う風景です。
美しい田舎道の長いドライブのあいだ、家畜は乗馬用のウマしか見当たりませんでした。
埋葬のあと会葬者が集まって会食した地元のパブです。


イギリス北部では全くといっていいほど見かけない、木の板ばりの古い民家をケントではよく見かけます。
何となく、アメリカ合衆国の東海岸のイメージです。
日本でも「異人館」などでおなじみなのではないでしょうか。
16世紀創業のパブの内部です。


バーの上はぐるっとホップ(ビールの原料)のドライフラワーで飾られています。
ひさしぶりに会った親戚どうしの会話や孫たちが連れてきた婚約者たちの紹介などで盛り上がる、楽しく和やかな会食でした。
ケータリング会社が用意した、ベジタリアンのビュッフェです。
2時間の会食の後、希望者だけ墓地に戻って、私たちがいない間に厚く土をかぶせられた埋葬場所を見ていきました。

故人はイギリス人男性にしては非常に高齢で、自宅で愛する妻に見守られておだやかな最後を迎えられました。
来月にかんじんの「植樹」をする集まりがあるのですが、さすがに再びのイングランド縦断は負担ですので私たち一家は参加を見合わせます。
子供たちが選んだブナと、未亡人が選んだローワン...なんだか統一性のない人口の林になりそうです。
それもまた自然葬の意義なのかもしれません。(えーっと、どうでしょう?)

私は自分が死んだ後のことは残された人に一切を任せるつもりで、いっそのこと式も埋葬もなくてもよいと思っているのですが、もし埋葬地が選べるのなら、私のことをおぼえていてくれる人が行きやすい場所がいいな...とふと思いました。