blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

虚礼廃止

2018-01-12 07:47:56 | 日記
今年は枚数的にはわずかながら例年送ってくれる人からは年賀状が来た。
いつからか「送った人に返す」という方針に変更したわけだが、今年はついに返すこともしないというナマクラぶりであった。
富山市長のブログを読んでいると年賀状の返事はずっとしていないとのことだが、自治体のトップと違って、もらっても片手ほどしか来ない私がそれをやらないのだから、面と向かって責められてもおかしくない話ではある。

しかし、自分が出す立場になって考えたとして、今年くれた相手と今後顔を合わせる機会などほぼ永遠にないと思われる。
もちろん各人家庭があったりなかったりという事情はあるにせよ、盆や正月などけっこう故郷にみんな集まっているのが見え見えの時期、会おうと思えば連絡して今日の今日という会い方もできるところを結局お互いに声をかけることはないのだから、それほど強烈に会いたいという気持ちは相互に持ってはいないということである。

年賀状トモダチは年賀状トモダチで残しておけばいいのではという意見もあるが、心のこもったメッセージが思い浮かばない。
「お元気ですか?」はまだ救いもあるが、「また飲もう!」などという実現させる気のないメッセージを書く気には到底なれない。
年に一度のまさに儀礼とは言っても、それだけのために一枚62円を使う気にはならないし、わざわざ62円を使ってくれる人には申し訳ない気もするのだ。

かつての同級生で今は文筆業をしている某女史はブログで、確か過去の年賀状を思い切って捨てたというような内容を書いていたと思う。
そこに至るまでの葛藤は、彼女らしい軽妙洒脱で湿り気のない文章を読んで思わずうなづいたものである。
ここ数年のものは直近の住所という資料的な価値はあるかもしれないから別として、本当に昔の年賀状ともなると、まさに「読むかもしれない本」や「聴くかもしれないCD」と同じで結局は引き出しの中から出てこず目に触れることはないと思う。

年明け早々、過去の年賀状どころではない大きなものを捨ててしまいバチが当たりはしないかと心配しているところだが、スペースに若干余裕はあるとはいえ、やはりあまり昔のお手紙や年賀状などは処分した方がいいように感じる。
わずかではあっても、物理的なスペースを空けることは、心のスペースを空けることにもなる。
心のスペースを空けることで、そこに少しでも幸せが入って来てくれるなら、まさにダンシャリさまさまということになるだろう。

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