古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

鶴亀句会1 1月例会 2020-11-20

2020-11-20 14:51:51 | 鶴亀句会

会日時   2020-11-20  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   10 

指導者   山澄陽子 

出句要領  3句投句 5句選   兼 題  立冬

佐藤武敬 096-364-60612 出席希望の方は左

次 会   12月18日(金)10時パレア9F  兼題 木枯・凩

山澄陽子選

掃き寄する音の大きく冬に入る    岩城小夜子
散紅葉今朝も掃きゐる駅舎かな      〃

立冬や不知火の海静かなり       山内良一
冬浅しぎんなんの実のをちこちに     〃

平家村鎮めて深き紅葉谷       澤田安月子
立冬や老舗の蔵の大吟醸         〃

初時雨老けたる友と出会ひけり    佐藤武敬
掃く人に挨拶しつつ散る落葉       〃

暮れなずむ道の灯りの石蕗の花    木村純子
立冬や天守を守る武者返し        〃

白い花近寄り見れば冬の蝶      小山和作
コスモスの花波にゆれ阿蘇五岳      〃

立冬の干潟彩る海苔の榾       中川 久
朝靄に水鳥群るる江津湖畔        〃

身構へる猫の目先に寒雀       小林優子
癌の友作りしマスク冬うらら       〃

立冬やセーラー服の紺深し      平川礁舎
坪庭の歯朶の綠や今朝の冬        〃

選者の句
鎮魂の歌と聞きをり初時雨      山澄陽子
冬立つや心新たにペンを執る       〃
盛りてもどこかさびしき石蕗の花     〃
菊作り現世(うつしよ)遠くしてをりぬ    〃
立冬や凜凜と立つ常緑樹          〃


鶴亀句会 10月例会  2020-10-16

2020-10-17 16:12:49 | 鶴亀句会

会日時   2020-10-17  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   11人(不在投句4人) 

指導者   山澄陽子 

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  秋高し

佐藤武敬 096-364-60612 出席希望の方は左

次 会   11月20日(金)10時パレア9F 3句投句5句選 兼題 立冬

山澄陽子選

干柿の簾の奥に老夫婦     和 作
群雀声聞こえぬか古案山子    〃

月明り小さな庭の虫の声     久
古民家に色を添えたる彼岸花   〃

秋晴や園田神社の大祭日    良 一
十六日朝の名月西空に      〃

鵯の声わが耳いまだ確かなり   武 敬
朝寒やバスの乗客われ一人     〃

まかげして仰ぐ天守や秋高し   礁 舎
衣被戦後を生きて老いにけり    〃

落ちる日の黄金に染めて秋の川  小夜子
唐臼の貯めては零す秋の水     〃

満月や猫の首輪の音色する    優 子
天高し芒なびけばなほ高し     〃

山間に鐘の音流れ秋の旅     安月子
この叢を終の住処と虫すだく    〃

デイの日の折紙もまた秋の色    興
画津塘の句碑二つ三つ秋高し    〃

黑塀にゆらりゆらりと蓼の花   純 子
葛の花活くる娘のみちたりて    〃


俳誌「松」 令和2年鰯雲號

2020-09-27 07:49:05 | 

 主宰五句     村中のぶを

俯きし提灯花の一隅よ

ゆくりなく「只管写生」碑に夏茜

梅雨夕焼球磨の山河をおもへとや

冷酒やいのち冥加と申すべく

麦稈帽下駄履きわれの自尊心

    ※「只管写生」は松本たかしが唱えた俳句作法

松の実集

リハビリ   安永静子
リハビリの秋庭周回蚊遣香
明日あるを信じリハビリ星涼し
冷房や籠り居に脚弱りゆく
生きなんとリハビリ続け秋に入る
リハビリにふらつく足や秋暑し

雲の峰   山並一美
涼しさも届く受話器の向かうから
草を取るときどき海を眺めては
逢へる日の当てなき別れ菊に酌む
独りには非ず仏と満月と
雲の峰時折り遠き子のことを

風合いと色合ひ   伊東琴
紫草(むらさき)や母の好みし色吾も
織り上げし麻布の風合母に問ふ
藍刈るや手に染む藍もこぼさじと
経も緯も糸はカシミヤ草茜(あかね)染め
八千草や織機を踏めぬ足となり

先師の忌   西村泰三
岩すべり覚え幼や水遊び
逃げろ逃げろパパの水鉄砲追ひ来
芦の音波音ときに通し鳰
忍び入るかに空堀を葛伸びゐ
 夕野火忌・連葉子忌
梅雨に祈る十日違ひの先師の忌

 

雑詠選後に   のぶを

 

 


鶴亀句会 9月例会  2020-9-18

2020-09-18 22:53:38 | 鶴亀句会

会日時   2020-9-18  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   6人(不在投句2人) 

指導者   山澄陽子 

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  晩夏

佐藤武敬 096-364-60612 出席希望の方は左

次 会   10月16日(金)10時パレア9F  兼題 秋高し

山澄陽子選

秋草を活けてやさしき部屋となる  岩城小夜子
秋夕焼け褪めて生まるる星一つ     〃

音楽も体育もある夜学かな     佐藤武敬
閉園の一角占むる秋の草        〃

仏壇の灯に供へたる秋の花     木村純子
茎みどりいつものとおり曼珠沙華    〃

突然の芒の風におぼれけり      澤田安月子
鉢物を戻し安堵の野分後        〃

坪庭に靑木そのほか秋涼し      平川礁舎
朝風や零れてやまぬ萩の露       〃

新しき雑誌の匂ひ夜半の秋      小林優子
台風の過ぎたる朝の一番機        〃

先生の句
ぽつぽつと秋草増えてゆく小径    山澄陽子
台風一過方之力の抜けにけり       〃
一陣の微温(ぬる)き風立ち雷鳴す      〃


鶴亀句会 八月例会 2020-8-21

2020-08-21 12:32:23 | 鶴亀句会

会日時   2020-8-21  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   6人(不在投句1人) 

指導者   代行 平川礁舎 

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  晩夏

佐藤武敬 096-364-60612 出席希望の方は左

次 会   9月18日(金)10時パレア9F  兼題 露

 

精霊船須磨の浜辺に流しけり     佐藤武敬
熊蝉や疫病なんか知らぬごと       〃

あばれ川今は静かな晩夏光      岩城小夜子
面影の遙かになりて夏の星        〃

積み捨てし水禍の跡や秋高し     澤田安月子
在りし日を偲びつつ組む盆灯籠      〃

夏の果アクアドームの屋根眩し    本田良一
蝉しぐれ夕日に映ゆる普賢岳       〃

緑蔭の黒猫の目の黄金色       小林優子
閑けさのさざ波に似て風鈴音       〃

墓参りほおずきを手に坂上る     木村純子
突風の吹き攫ひたる夏帽子        〃

夏シャツの衿ピンと立て山のシェフ  柳水 興
台風のニュースひとりの仕事増え     〃

下駄履いて甚兵衛を著て手に団扇   平川礁舎
水災の村に燃えたつ百日紅        〃

 


鶴亀句会  20207-17

2020-07-19 11:49:19 | 鶴亀句会

会日時   2020-7-17  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   7人(不在投句2人) 

指導者    山澄陽子先生(ホトトギス同人)

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  なし

佐藤武敬 096-364-60612 出席希望の方は左

次 会   8月21日(金)10時パレア9F  兼題 晩夏

山澄陽子選

水滴のビーズあまたに蜘蛛の糸   小林優子
さまよへる小さき蛍や星となる    〃

蛙鳴きでで虫は這ひ梅雨楽し      平川礁舎
雨の夜のしみじみと聴く青葉木菟   〃

虫干しや探し続けし本発見     佐藤武敬
滝落つる下に白衣の祈り人      〃

憂き事もしばし忘れて夕端居    澤田安月子
駅頭に夏帽高く振るわかれ      〃

枇杷熟るる波音絶えぬ志賀島   岩城小夜子
菜園の我に親しき夏の蝶       〃

更衣へいつにもまして念入に    木村純子
グイグイと喉にしみ入る生ビール   〃

紺碧の空春の雲一片        柳水 興
ディの日や隣り合わせの春の人    〃

(先生の句)
かく降りてかくあるるなり出水川  山澄陽子
おおと神降し給ひて茅の輪組む    〃
万緑の覆ひきれざる堂一宇      〃

 

 

 


俳誌「松」向日葵號 令和2年7月号

2020-07-17 20:51:48 | 

主宰五句  村中のぶを

潮騒に松籟に貝寄風のころ

との曇り濱豌豆のなだれ咲き

明け空の豊旗雲や桐の花

海へ向ふ立浪草の道であり

「松」若竹號表紙繪に
南の國の竹の子粗粗し

松の実集

燕の巣   祝乃 験
遅れゐる燕の巣作り店改装
抱卵か巣に籠もりゐるつばくらめ
サプライズ母の日贈る胡蝶蘭
日の出時の天子の梯川鵜飛ぶ
診療所裏は蛍の宵となり

赤い薔薇  金子千世
朝涼に両手を広げ風を比(たぐ)ふ
手づかずの庭の夏草雲走る
赤い薔薇何となくつい買ひにけり
庭詰めに耐えて過ごすも夏の風
髪切ってさらりと街へ夏の風

峰の奥  浅野律子
持て余す一匹買へる桜鯛
四・五本の夫の牡丹の気取りをり
三密をさけてテラスにサラダ食ぶ
朝明(あさけ)なる屋根より下りるはたた神
峰の奥夏山にして雪光る

メダカ生る  西村泰三
メダカの子生れをり動く照りながら
芥とは違うて動きメダカの子
二ミリの身動く子メダカ光り受け
慣れ来る目に子メダカの増え読めず
梅花藻咲く五ミリとなれる稚魚の槽

雑詠選後に  のぶを

春寒や笑ひの志村けん逝けり   勝 寄山
   いはゆる正鵠を射る、といふ言葉がありますが、一句は正に当節の世情を詠み取ってゐて余り有ります。それもコロナ、コロナ禍といふ直接的な表現ではなく、「笑ひの志村けん逝けり」と風刺的にも強く批評を込めた、鋭い感性の時事を詠じた句です。

天を差す指より乾く甘茶仏    伊織信介
 「甘茶仏」とは、誕生釈迦立像の事で、誕生会、つまり4月8日の花まつりの本尊として祭られ、右手を挙げ、左手を下げ、それぞれ掌を見せ、施与といふ手印をとってゐます。説に依れば像の7歩歩いた足跡には蓮華の花が咲き、天上から竜王が香水を降らせたとあり、誕生仏の姿に甘茶をかけるのは之によつてと云はれてゐます。
  掲句は「天を差す指より乾く」と、その添景を叙して、誕生仏と周りの状況をよく伝へてゐます。
 なほ釈迦の降誕のことばに有名な、「天上天下唯我独尊」とあるのを付記しておきませう。

生もあり死もあり田植えさ中にて   山並一美
 「生もあり」「死もあり」、つまり生老病死の事を表白したのか、それとも子供が産まれ、ある日は弔ひがあったりして、それも「田植えさ中」の頃-。
 味読して実に深い息遣ひの詠情です。作者は96歳の方、その老境の自在さに感じ入ります。そして自然と人生とを見据ゑた句境に肖りたいと切に思ひます。

初夏やマスクの柄もストライプ   伊東 琴
 先にも触れてゐますが、昨今は日日コロナとマスクの話題で持切りです。而し掲句に限つてその深刻さは皆無です。して「初夏やマスクの柄もストライブ」とは、夏の到来に合はせてマスクも縞模様の柄にと明るさに満ちてゐます。それに作者は確かに染色に携はつてゐる方、然もあらんと納得のゆく作句です。

キャンパスに三叉路五叉路さへづれる   山岸博子
 大学構内を詠じた句。「三叉路五叉路さへづれる」、如何にも生気に満ちた、学生たちのそれぞれ講堂に向かふ光景と、その辺の草木の鳥たち、総じて春さきの学内の四辺を活写してゐます。作者は札幌市在住、北海道大学所見でせう。先にも作者の句を挙げてゐますがね、ここでも北国の爽やかな大気の見える句柄です。

混血の名の堂々の初幟   那須久子
 「混血の名」、言ふまでもなく日本人と外国の方との子の名、その「同堂の初幟」、作者は先にも引いてゐますが、宮崎熊本県境の市房山麓に住む方、想像しても幟のはためきが山野の空に眩く見えて来ます。それも混血の名といふ措辞が強く印象に残ります。それはまた現代の新しい鯉幟と言ふべくー。

有明海に引力みたり遠干潟   吉永みつせ
 広大な景観を骨太く描出した句、「引力みたり」しは起潮力といふ言葉もありますが、月と太陽の引力の事でせうか。大らかな力感に満ちた句です。それも「有明海」「遠干潟」とは誰もが知る懐かしい眺望、古くから文や詩歌にも詠まれ、特に干潟の生物の睦五郞、蝦蛄などは愛玩其の物でした。なほ筆者も様々な思ひがあつて、松永伍一文の写真集「有明海」、それに諫早出身の詩人伊東静雄の詩集を机辺身近に置いてゐます。詩集には世に膾炙した〈有明海の思ひ出〉があります。

亀啼くやほろ酔ひ帰る湖畔径   村田 徹
 作者の住む熊本市東南の江津湖「湖畔径」、そこを「亀鳴くやほろ酔ひ帰る」、つまりほろ酔ひて帰る宵の水際に何か声がしたのか、それを亀鳴くとー。季題の斡旋も然ることながら、何とも風流韻事の一句ではー。筆者も酒家の一人として、その作意に改めて敬意を表します。

野あざみや棚田天辺家一軒   園田のぶ子
 田園風景の写生句。「棚田」の畦をを伝ふ「野あざみ」の花が印象的です。それに「天辺家一軒」との叙景、叙法がまた鮮やかに棚田の丘の全景を描出してゐます。島原半島の一景でしょうか。

花冷えや罪人のごと家に籠る   温品はるこ
中七の「罪人」西教的にはつみびと、ここでも祈りのごとくに詠むべきでしょう。「花冷えや」「家に籠る」、それは暗に世に言ふ自粛のもたらす故なのか、さうでなくとも花冷えという時節と共に、罪人とよぶ措辞に何か私小説的な詠風です。

増えに増え二人志静の庭なりし   荒牧多美子
 「増えに増え」はいはゆる同じ言葉の繰り返し、リフレインに依つて咲き溢れた「二人静」を表出し、結句の「庭なりし」はその庭情を強調してゐるのです。

 

 


 

 

 

 

 

 

 


東映映画「点と線」

2020-06-04 12:09:48 | 映画

 松本清張のベストセラー小説「点と線」を読み返しました。何度読んでもその度に新しい発見があって興味の尽きない作品です。この小説は光文社から単行本として出版されるとたちまちベストセラーとなり、つづいて出た「ゼロの焦点」、「砂の器」などの推理小説は社会派ミステリーと呼ばれ松本清張はその創始者として不動の作家的地位を築き上げます。

 映画化。小説がベストセラーとなつて版を重ねている最中の昭和33年には早くも東映によって映画化されます。

 東京駅の風景
 有名な「四分間の目撃」の場面。犯人安田辰郎を演じているのは時代劇悪役スターの山形勲、隣にいるのは赤坂にある料亭「小雪」の女中たち、お時も「小雪」で働いている女中仲間。3人が立っている13番線ホームから博多行き寝台特急「あさかぜ」が停車している15番線ホームを見通せるのは1日の内でも17時58分~18時02分のたった4分間しかない。この目撃ははたして偶然なのか・・・。

 仲睦まじく列車に乗り込むお時と佐川を13番線ホームに立っている3人の人物が目撃していました。お時と佐川はこれより6日後に博多湾香椎海岸で情死体となって発見されます。地元福岡署はこれを情死事件として処理してしまう。その決め手になったのが東京駅での目撃証言でした。

香椎海岸での検死風景
 この場面なかなかリアリィティがあって、まるで自分が検死に立ち会っているような臨場感があります。私服の6人は福岡署の刑事たち、制服の巡査が2人、白衣姿の5人は鑑識課の職員なのでしょう。昭和32年1月20日午後10時~11時頃の死亡と推定されました。お時の白足袋が真っ白で直前に履き替えたものらしく、「覚悟の心中ばい・・」と鑑識官が呟きます。右端の私服が刑事鳥飼重太郎。

 鳥飼重太郎(加藤嘉)はこの心中に少し違和感を感じていました。玄界灘から吹き付ける寒風の中の、こんな荒々しい岩礁の上で「覚悟の死」とはいえ、もっと穏やかな場所もあるだろうに・・?、というささやかな疑問でした。それを上司に言うと「そらあ生きてるモンのせりふたい、これから死ぬるモンには関係なか」とにべなくあしらわれてしまいます。

 署に帰って遺留品を調べていたら一枚の領収書が佐川のズボンのポケットから出て来ました。それは「あさかぜ」の食堂車のもので「1人様」と書いてあるのに、鳥飼はまたもや引っかかります。なぜ1人なのか、女は食堂車へ同行しなかったのか、上司の係長に話すと、「女は腹がいっぱいで食いたくなかったのだろうよ・・」、と一言で片付けられてしまいます。情死行である、この場合愛情はいっそう濃密であるのに・・・。鳥飼の疑問が1つ増えました。
 ※・・・領収書の日付が10月14日になっていますが、小説では1月14日です。なぜそこを映画では変更したのか撮影の都合でもあったのでしょうか。

 そんな時、警視庁捜査二課の刑事、三原紀一(南広)が佐川を追って福岡へ出張して来ました。佐川は××省の役人で、今××省で汚職摘発が進行していて、実務に通じている佐川課長補佐は逮捕寸前にあった人物だったらしいのです。佐川の死で捜査は行き詰まり、現に佐川の上司である石田部長は拘留を続けられなくなって釈放されます。××省には佐川の死で難を逃れた役人がどれほどいるか分からないと三原は悔しがります。三原は鳥飼の疑問に興味を示しました。
 写真は当時の香椎駅、駅前はまだ未舗装です。

こちらは西鉄香椎駅。この駅舎も建て替えられて今ではすっかりきれいになっています。

青函連絡船(1908~1988)

 三原刑事は香椎海岸で心中のあった夜そこに安田がいた、という仮説をたてます。三原刑事の推理ては安田は飛行機を利用して北海道へ渡っているのだから、青函連絡船に乗っている筈は絶対にないと確信して函館駅の乗船客名簿を調べに行きます。ところが存在してはならない安田直筆の乗船カードがあったのです。安田辰郎のアリバイは鉄壁でした。

 写真は当時就航していた青函連絡船の1隻ですが、船名が分かりません。昭和32年当時は以下の8隻が就航していました。

第12青函丸

大雪丸

石狩丸

日高丸

摩周丸

渡島(おしま)丸

羊蹄丸

十勝丸

 上記8隻は、皆似たようなスタイルで写真を見ても船名は分からないそうです。船名は船尾に大書してありました。

 安田の妻亮子(高峰三枝子)は結核を患っているために鎌倉に一軒家を宛がわれて療養生活をしています。多忙な夫は週に1度くらいしか帰って来られません。東京駅の13番線ホ-ムは鎌倉行き電車の発着ホ-ムなのでした。だから安田は4分間の空隙に気がついていたのだろうと三原刑事は考えたのですが、安田の妻の亮子が療養生活のつれづれに書いた文章を読んで考えが変わります

 「長い間、寝たきりでいるといろいろな本が読みたくなる。しかし、このごろの小説はみんなつまらなくなった。三分の一まで読んだら興を失って閉じることが多い。ある日、主人が帰って汽車の時刻表を忘れて行った。退屈まぎれに手に取ってみた。寝たきりのわたしには旅行などとても縁のないものだが、意外にこれがおもしろかった。」

 という書き出しから始まる文章は、小さな横組みの数字がぎっしりと詰まっている、あの無味乾燥な時刻表の中に、得も言われぬ詩情が横溢していると言うのです。たとえば、ローカル線の駅名など、列車の通過時刻と結び付けて読むと、それだけで時空を超えた空想の世界が果てしなく広がつて、へたな小説などより何倍も面白いというのです。
 偏執的なマニア趣味と結核患者に特有の頭脳の冴えとが結合したような奇妙な文章でしたが、三原刑事は「四分間」の発見者はこの亮子ではないかと思うようになります。

 三原紀一は事件が解決した後に鳥飼重太郎へあてた手紙の中で、亮子について次のように書いています。

 「亮子が病弱で、夫とは夫婦関係を医者から禁じられていることに思いいたってください。いわば、お時は亮子の公認の二号さんだったのです。歪んだ関係です。われわれには想像もできないが、世間にはよくあるのです。封建時代の昔には当然だったことでしよう。」、「安田の妻の亮子は、夫の手伝いよりも、あんがい、お時を殺すほうに興味があったかもしれません。いくら自分が公認した夫の愛人であっても、女の敵意は変わりません。いや、肉体的に夫の妻を失格した彼女だからこそ、人一倍の嫉妬を、意識の下にかくしつづけていたのでしょう。その燐のような青白い炎が、機会をみつけて燃えあがったのです。」

 こういう人間に対する深い洞察があることによって登場人物に存在感が生まれ、現代社会の不条理を示すことができるのです。そこが謎解きだけの「探偵小説」と違うのです。

公僕の精神

 上の扁額は警視庁の会議室に掲げてある額です。これは映画のセットですから警視庁にあったとは限らないのてすが、当時の警察の雰囲気をよく伝えています。戦前の「オイ、コラ」警察から国民に親しまれる警察へと生まれ変わる時代精神を反映しているのです。警察は常にこのようであってほしいですね。

 写真は安田逮捕に向けた捜査会議ですが、福岡署の鳥飼刑事が加わっています。これは原作にはないシーンですが映画となるとそういう場面設定が必要になるのですね。

 


第二回 宗像夕野火顕彰俳句大会投句要領

2020-05-22 09:30:09 | 

趣 旨 

 郷土が生んだ俳人宗像夕野火を偲んで、その業績を讃え、伝統ある俳句文化を後世に引き継ぐため、顕彰俳句大会を開催する。

開催日時
 令和2年9月26日(土)、受付開始午後1時、大会開始午後1時30分より、終了予定午後5 時

会 場
 球磨郡多良木町駅前 多良木町交流会館 石倉

募 集
 小学生 中学生 高校生は1人2句まで
 一 般 2句1組 何組でも可 雑詠未発表の句に限る 所定の用紙、又はB5判200字原 稿用紙
投句用紙


                   この画像をB5判用紙にプリントしてお使い下さい。

投句料
 小学生、中学生、高校生は無料
 一 般 2句1組1,000円 何組でも可 郵便小為替または現金書留にて納金

投句締切
 令和2年7月15日 厳守 当日消印まで有効

投句先
 〒862-0922 熊本市東区三郎2丁目19番9号
 俳誌「松」発行所内 宗像夕野火顕彰俳句大会事務局 電話 096-381-3774

選 者
小学生低学年の部  村田 徹(俳人協会会員・松同人)
小学生高学年の部  西浦大蔵(俳人協会会員・松同人)
中学生の部     園田篤子(俳人協会会員・松同人)
高校生の部     岡本ゆう子(俳人協会会員・松同人)
一般の部      西村泰三(俳人協会評議員、支部顧問、俳誌「松」発行・編集責任者)

後 援
 多良木町・同教育委員会・同文化協会・湯前町・同教育委員会・同文化協会・あさぎり町・同教

 育委員会・水上村・同教育委員会・熊本日日新聞社・熊本放送・熊本県俳句協会・俳人協会熊本

 県支部

 

 


俳誌「松」若竹號 2020-05

2020-05-21 20:39:27 | 

 主 宰  五 句     村中のぶを

金鳳華北の雪嶺日を浴びし

春寒き拈華微笑(ねんげみせう)の遺影かな

 (子規の頭おもふよ洋梨見てあれば 占魚)
芳墨の一軸かかげ春の燭

遠嶺雪斑らに春田鋤く日かな

あめつちの明るさのなか辛夷咲く

 松の実集

 花満る  福田祐子
災を飛ばしてしまへ春疾風
春宵やスマホで交はす宴かな
花満る母と乗り会ふ人力車
風光る海の匂ひの観覧車
風光る亡き子を想ふ葛西沖

 庭牡丹  酒井信子
閂の固き牡丹の客案内
春風や待ちし合格通知来る
はくれんに塀越えて来る風眩し
花荊見上げ息つぐ朝の試歩
蝶つまみ損ねてはまた泣く子かな

 四旬節  坂梨結子
朝ミサの帰りにしかと初音かな
笹鳴きの庭木蓮の一斉に
帯となり中州まぶしき花菜かな
きらめきて集ひて稚魚や春の川
祭壇に供へ小手毬四旬節

 遺 影   鎌田正吾
畑仕事終へ庭仕事日脚のぶ
とどまれる雲の光りや野梅咲き
和太鼓の音のこだまや梅まつり
中天を野火のうづまく草千里
診療を待つ間見とれるシクラメン
 三月二十九日死去、熊本「松」句会への最後の投句より五句抄出。

雑詠選後に    のぶを

春陰や祈りをとかぬ石仏   菊池洋子
 句は「春陰」の或る一隅に存す、合掌した「石仏」の姿を、未来永劫に「祈りをとかぬ」と詠じています。つまりその事実からして、詩として、より鮮明に対象の姿が見えて来る表現をとって、季題も季題らしく、ひいては私共の(写生)に対する要諦をよくよく示してゐます。

犬なだめつつ東風の門出る女  安部紫流
 「東風」とは春を告げる風、逸り立つ「犬なだめつつ」、その「門出る女」、門はむろん、かどと読むべく、一読してなにか雰囲気のある一句です。結句の出る女、それは普通の門先ではなく、句柄からして高い門扉から現れた女人らしく、それも資産家風の人では-。それにしても印象的な詠出ではあります。

凧揚げに倦みて眺むる城普請  村田 徹
 掲句は、作者自身の「凧揚げ」と、同じ空のもと「城普請」とを詠んでゐます。それは単調といへば単調な遊びの凧揚げ、片や城普請と、言はずと様々な機材と覆ひの中での綿密な作業、「倦みて眺むる」は、言葉以上に作者は複雑な思ひでお城を見つめてゐるのでは-。むろん作者は在熊本市。

ポプラの芽札幌の空果てしなく  山岸博子
 素読して実に通りのよい晴れ晴れしい景。それも春先のポプラ並木の、区劃された札幌の街筋の空が見えてきます。
 水彩画のやうな淡彩の句。

きまぐれ東風まろく毒突く老いもよし  浅野律子
 きまぐれは気紛れの事、変はりやすく予測のつかないこと。気まぐれ天気といふ言葉もあります。「気まぐれ東風」とは面白い用語です。「まろく毒突く」もまた意表を衝く語、つまり角をたてずに悪口を言ふこと。「老いもよし」は自画自賛。総じて既成の言葉に捉はれない、自由闊達な一句です。

啓蟄や開け放ちたる農具小屋  鎌田正吾
強東風や片寄る竿の灌ぎもの  酒井信子
 掲句に就いてですが、高浜虛子の言葉を擧げます。「俳句は平俗の詩である。」「俳句は春夏秋冬の現象を透しての生活の記録である。」「写生とはそこに作者の心が働いて、その万物の相の中から或る一つの姿をとらへて来る事を言ふのである。
 改めて掲句を未読して、虛子の言葉は心を揺すります。

啓蟄や畦に立ちたる夫婦雉子  高橋すすむ
 「啓蟄」は三月五日、この頃の作者の住まふ球磨の田野の一景を詠み取つてゐます。「夫婦雉子」とは、作者自身の用語で、雉子は目の周りに赤い肉垂れなどがあつて多彩な色と、雌は褐色一色。この色どりの、餌を探す夫婦雉子の向かうに、読者は長閑な盆地の広ごりが、否応なく見えて来ます。因みに雉も春の季語で、一つの歳時記に「万葉集」家持の歌がしょうかいされてゐます。<春の野にあさる雉の妻恋ひに己があたりを人に知れつつ>。

余生とは嫌な言葉よ春を待つ  藤井和子
 甚(いた
)く心情を吐露した詠句。誰しもが心の底に抱いてゐることかも、共通した想ひが去来して。しかし作者の面と向かつての此の一句、その強さに読者は大いに救はれます。

夫います心のよるべ恵方とす  池原倫子
 亡き夫のいます、心を寄せる方が恵方といふ、如何にも古歌を思はせる詠句です。それに作者の沁み沁みとした心情が伝はつて来ます。

カルストの空に溶け込む雲雀かな  北本盡吾
 「カルストの空」とは、作者の住む北九州市の、国定公園でも知られる平尾台の所見でせう。その石灰岩の様々な形容の広がる台地の空に「溶け込む雲雀」とは、その天空の広がりに、雲雀の点々とした飛翔を鮮明に表出してゐます。して溶け込むとの表現は実に作者の手柄といふべく。


手習ひのショパンの調べ春の風  那須久子
 「手習ひ」とはなんとも古風な懐かしい語句。そして「ショパンの調べ」とは、その対比がまことに新鮮な詠情で、その「春の風」に乗つて、さしてはピアノのワルツの曲が流れて来る様です。作者にとつて至福のひと時。

夫と行く黙(しじま)も楽し冬木道  細野律子
 冬木とは、葉を落しつくした木々の姿、その「冬木道」を「夫と行く黙も楽し」。閑かな林間の日ざしに、冬木の影と二人の影と-。鮮やかに心に残る諷詠です。

 

 

 

 


幕末の儒者 木下 韡村

2020-05-19 18:29:22 | 熊本の偉人

  中央区京町2丁目8-4京町台公園に隣接して「木下 韡村塾跡の碑」が建っています。 「韡村書屋」と称する私塾ですが、この塾から竹添進一郎、井上毅、古荘嘉門、木村弦雄、宮崎八郎など明治維新後に大活躍をする人材を輩出しました。熊本の幕末を語るとき横井小楠(1809~1869)、林桜園(1798~1870)とともに木下 韡村(1805~1867)を外すことはできません。 
 木下 韡村日記(天保11年~慶応3年)があり、嘉永5年まで は「早稲田社会科学総合研究(代表島善高教授)」によって翻刻されていますが、嘉永6年以降が未翻刻です。原本のコピーを取り寄せて翻刻を試みているのですが、これがなかなかの難物で、日記という文書の生質上、他人に見せる意識がないので、崩し方が丁寧でなく殴り書き体のところがあるのに加えて虫食いカ所が多いのです。まあ、気長に構えて挑戦しようと思っています。

木下韡村(いそん)の略歴
1才  文化2年1805   8月5日生まれ
10才  文化11年1814  桑満伯順に入門
19才     文政6年1823 大城霞萍(時習館訓導) に入門。4年間在籍。
22才  文政9年1826郡代直触となり、苗字帯刀を許される。
23才  文政10年1827時習館居寮生。天保5年まで8年間。
31才  天保6年1835中小姓、近習組脇。軽輩から士席へ。10石5人扶持。江戸へ。
32才  天保7年1836高橋弥四郎長女伊津(喜多)23才を娶る。
33才  天保8年1837江戸で佐藤一齊の教えを受けるようになる。
36才  天保11年1840世子慶前(よしちか)御次勤。
37才  天保12年10月16日林家塾頭川田八之助の紹介で林家に入門。
44才  嘉永1年1848慶前 死去で国元へ。吉村多茂と再婚。
45才  嘉永2年1849時習館訓導助勤。
47才  嘉永4年1851訓導本役。
49才     嘉永6年1853両助教家塾の世話を仰せつけられ、隣チョーカー賜る。
55才     安政6年1859擬作100石。知行取格。
59才  文久3年1863公儀召を辞退。
62才  慶応2年1866座席御物頭列。
63才  慶応3年没。龍田山に葬る。

 諱は業廣、字は子勤。通称宇太郎。号は犀溧、いそん。藩主斉護護次勤6年。世子慶前御次勤9年、訓導当分3年、訓導本役16年。

 上記は嘉永6年1月11日~18日の分です。ここは虫食いも少なくよく読めたところです。画像はパソコンに落とすと拡大できるので興味のある人はどうぞ。

十一日 同様 ○北野隆右衛門、御中小姓ニ進席被 仰付候

十二日 渡部子八郎、大塚伊之助、福島亀之允、福間一左衛門一同大城家年酒

十三日 出勤、館中儀式例之通

十四日 在家、丑三郎出府

十五日 丑三郎引取

十六日 夕番 ○屋敷方根取中より手元屋敷内ニ家塾取建置候 何間梁ニ何間と申儀
    見合ニ相成儀有之候間、知セ候様申越ニ付弐間梁ニ四間弐坪半之下屋付各ニ取
    付九尺之九尺ニ弐坪半之下屋付、其外居宅之内弐坪取囲置候段返答
    ニ及候事

十七日 詩文会宅受持

十八日 出勤

十九日 〃  加藤傳吾、筑紫より罷越今晩石光宅江逗留

  

 


67年前の松竹映画「君の名は」

2020-04-17 21:24:59 | 映画

 外出自粛で人に会うのも避けるとなれば、自分の場合は家に籠もって古文書の翻刻をやるくらしかすることがない。今「木下 韡村日記」の翻刻に取りかかっているが、これが虫食い文書で中々の難物である。根をつめると、年のせいで集中力がぷつんと切れてしまう。
 それで退屈しのぎにDVDの「君の名は(松竹映画)」を借りてきて観た。これが、とてもよくできた映画で並のメロドラマなんかでなく大いなる人間賛歌の映画であり、近ごろめずらしく感銘をうけた作品であった。
 小学校高学年のころに同名のNHKラジオドラマを毎回欠かさずに母が聴いていたので、その傍で聴くともなく耳にしていた。だから冒頭のナレーション、「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」は意味不明ながら、そのセリフは今だに耳底にこびりついている。しかし映画を観るのは今回が初めて・・。あの時代はハリウッド映画の全盛期で、スターと言えばゲイリー・クーパー、ヘンリー・フォンダ、タイロン・パァワー、ジョン・ウエインなどが西部劇で活躍していた。そういう映画にかぶれていたから見損なったのだ。
 でも、「君の名は」はいい映画である。反戦映画といえばそうも言えるかもしれないが、映画の底に思想はない。しかしこれを観た観客は「あんな戦争はもう御免だ」と思ったはずで、そういう意味で反戦映画である。

昭和20年5月24日未明、東京は空襲に見舞われた。3月20日が大空襲だったと云われているが、この時も大規模だった。火の海となった市街を二人の男女が、ふとした偶然から互いに励まし合いながら行動を共にすることになる。どこをどう逃れたのか、空襲が止んで夜が明けたとき二人は数寄屋橋の上に立っていた。後宮春樹(佐田啓治)と氏家真知子(岸惠子)である。二人は無事に生き延びた事に互いに礼を言い合い喜び合った。そして、もし生きていたなら半年後の11月24日に、その時来られなかったら1年後、更に1年半後にこの場所で逢うことを約束する。そうせずにはいられない衝動が二人の心を衝きあげていた。別れ際に春樹は「君の名は・・?」と問いかけるが、再びけたたましく鳴りだした空襲警報のサイレン音のために、名乗り合うこともできずに別れてしまう。
 半
年後、春樹は約束どおりにこの場所に来るが真知子は現れなかった。1年後も同様だった。真知子には事情があったが、春樹はそれを知らない。

二人が再会したのは1年半後の昭和21年11月24日であった。再会できたものの、「明日、結婚します。お別れを言いに来ました。」と苦しそうな表情を浮かべて真知子は告げた。この映画はここから春樹、真知子の愛情物語の始まり、始まりである。このシーンのバックに古関祐而の曲が流れて印象深い・・(君いとしき人よ 唄 伊藤久男)

佐渡へ渡る連絡船の中で真知子の寂しそうな姿に同情して励ましの声をかける石川綾(淡島千景)。
 映画は
この船上シーンから始まる。空襲の場面、数寄屋橋の場面は真知子の回想として石川綾に語られるのである。そして今日が約束の日であることを告げて真知子は涙ぐむ。真知子は封建的な因習のしがらみの中にいた。早くに両親を亡くした真知子は伯父の勧める縁談を断ることができなかつた。佐渡行きは浜口勝則との見合いのためであった。綾の真知子への深い同情と、女同士の友情とはこの船上での出合いから始まった。淡島千景の演技がひかる。

昭和30年代の2枚目。佐田啓治

嘗て銀座にあった数寄屋橋。東京オリンビックの時埋め立てられてしまった。


100年前のスペイン風邪 井上微笑句稿より

2020-03-27 20:22:38 | 日記

 今からちょうど100年前スペイン風邪というインフルエンザが大流行して死者は世界中で2千万人~4千万人に達し、我が国では39万人が亡くなっています。いまコロナウィルスの感染が流行の兆しを見せ、対応を誤ると大事にいたる恐れがあることから、100年前のスペイン風邪に関心が集まっているそうです。
 ここで、なぜ井上微笑かといえば、微笑は流行のさなかに県立病院(現熊大病院)に肋膜炎で入院しており、感冒患者でごった返す病院内の様子などを句稿に書き留めているのです。印象深い文章なのでここに紹介します。

  井上微笑は慶応3年、筑前国秋月藩の藩士の家に生まれますが、1歳のとき明治維新、3歳の時廃藩置県という激動の時代に幼少期を過ごします。父親が人吉の裁判所に職を得た関係で微笑は湯前村役場の書記となります。
 微笑と同年生まれに正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉がいます。子規、漱石は俳句でつながりができる人ですが、紅葉はと言えば、明治23年当時、月刊雑誌「国民之友(主宰徳富蘇峰)」に「拈華微笑」という恋愛小説が連載されていました。微笑は湯前村にいてそれを読んでいたのですね、その作者が尾崎紅葉だったのです。
 明治29年に五高教師として来熊した漱石が寺田寅彦等と俳句結社「紫溟吟社」をおこすと微笑は熱心な投句者となり、たちまち頭角を顕しますが、俳号は「拈華微笑」から採ったものでした。
 微笑はその後九州日々新聞(現熊本日々新聞)俳句欄の選者なって新派俳句(正岡子規が広めた俳句)の普及に功績がありました。「井上微笑句集」あり。 

大正9年(1920)の句稿
 流感新春に入り益々猖獗。隔離室は満員。昨日三人、今日は一人死亡。形勢甚だ険悪。愚妻遂に襲はれ、一時は39度以上の発熱。三日間全く枕離れず。
 飯食はで三日を続く蜜柑哉 微 笑

久しく病臥中の院長谷口博士十一月十四日遂に逝く。全院哀傷の気漂ふ。
 火鉢の火茲に尽きたる寒さかな 微 笑

球磨より舅来たる。年六十八。矍鑠壮者を凌ぐ。
 此流感臆せぬ老をたたへけり 微 笑

舅は二泊して帰る。家は昨年流感の為め嗣子を亡ひ、其子の三歳なる孫を鞠育す。
 甥に贈る冬帽と太鼓頼みけり 微 笑

 

序でに当時の雰囲気を伝える「マスク、マスク」の写真を掲載します。


豪州メルボルンのナースたち


北九州の女性たち


堀内傳右衛門聞書 P91~P94 熊本県立図書館蔵

2020-03-25 22:21:49 | 堀内傳右衛門

 

P91

置不申嶋原之時分もわるきと人々申たる仁ニ而候事五百石より上ノ男ニ而
御座候つる
一.内蔵助ハ御預り之翌朝より髪をゆひ被申度由被申坊主衆之内ニ二三人
ゆい申もの有之ゆわセ申候残ル衆ハ二三日迄ゆわセ不申其夜之髪ニて
い被申候拙者申候ハ常ニ御ゆわセつけぬものニ御ゆわセ候ハいかにも心持しきもの
ニ而候得共久々其儘ニ而御座候よりハ下手ニ而も御ゆわセ被成候ハハ御心持能
可有御座申候申候得ハそれぞれより何もゆわセ被申候事
一.堀部弥兵衛被申候は津軽越中様ニ大石無人と申私同年七十八ニ罷成候前
かど古宗女方ニ勤い申唯今ハ津軽越中守様ニ大石郷右衛門とてセがれ
御知行被下御側御用人ニ而い申ものニかかりい申候今度私之志承候而右之
無人も同志と申候故扨々無分別御家も替り子ニ懸り居候而道理ニ叶
不申事と申候得ハ得心仕候御滞留中御障御座候刻御知ル人ニ被成御咄

P92

被成候得古キ事共能覚い申候と被申候故拙者申候ハ得其意申候定而名無人
と書可申候御名ニ而察申候御心安ク御語被成たる由或ル人御知ル人ニ成可申
と申候得共右之御屋敷本庄遠方殊ニ所も不存候間弥兵衛果被申候而後
尋候而罷越申候得ハ幸無人子息郷右衛門三平三人共ニ出被申候而色々馳走
ニ而ゆるゆると語悦被申候無人噺ニ弥兵衛ハ若キ時より心懸成るものニ而御座候
初而主取仕候時分使持方斗取候ニ早馬を持申と御家ニ唯今い被申候哉
斉藤勘助とハ古宗女所ニ児小姓傍輩ニ而勤居申候勘助親父又大夫大身
ニ而御家ニ罷出申故勘助ハ暇をもらい親一所ニ御家ニ参候と被申候故扨ハ左様
ニ而御座候や勘助ハとく果申唯今ハ孫の代ニ而無事ニ勤めい申由申候無人
被申候ハ泉岳寺ニ而今度一巻之もの共之刀ワき差諸道具掛物ニ成候由
承色々才覚仕調申候ものも御座候内蔵助着込御家之御伝衆御所望
被成御取被成候様承及申候誰様ニて御座候哉と尋被申候いかにも存候へ共

P93

自然所望被仕候而ハいかがと存候間越中守やしきも方々ニ御座候而侍共も方々
にい申候大勢之儀御座候へハ定而左様之儀も可有御座候しかと承不申候当分
私町屋敷ニい申候故泉岳寺ニ掛物有之と申候儀承候得共神以偽ニて可有御座候
併衣類様成ル類ニ而可有之哉武道具大小共に寺之宝物ニ成り其値
召置被申段々子孫有之候間所望被仕候ハハ定而子孫ラゆつり被申候心底ニ而
中々掛被申間敷と神以奉存候故才覚も不仕候其後承候而きもつぶし
申候扨々私共も武具大小ハ望ニ存候ニ残念至極と申候右之無人ハ大石内蔵助
なとも同名之由大石瀬左衛門大伯父之様承候内蔵助甲着込ハ去ル人泉岳寺
之法師に別而心安ク有之方々より定而望ニ可被存とて参候を拙者身申候随分
かくし被申ハ何方よりぞ所望被申理りのならぬ事も可有之とて右之趣ニ而
しのびの緒と内蔵助ニ歌頼申時分同シ様ニ弐枚調くれ被申候様冨森助右衛門
頼申候而被願弐枚調被申候内一枚ハ右之内蔵助しのびの緒ニ替へ遣申候

P94

後々ハ承被申候内蔵助ニ何とそ此歌かかせ置候得とて則歌も彼仁
下書仕くれ申され候拙者ハ神以心もつき不申候唯今存候へハ能クかかせ
置候と存候も右之仁之かげと存候事(歌内蔵助ニかかせ置候へと気つけ申候仁定読ニ而い被申候而名ハ書付不申後々知レ可申候入江又左衛門ニ而候)
一.助右衛門被申候ハ此方ニ参ル一両日各々様之たばこ参候にほい仕候間扨々何も
好物ニ而給度奉存候ニ其後何やかや段々之御馳走共誠以冥加ニ叶
たる儀水風呂も一人宛ニ而湯御かへさせ被成候事却而迷惑仕候大勢
入候湯やハらかに能ク御座候と被申候それゆへ後ハ二三人ニ而替さセ候
やう申付候毎度下帯なとも出シ申候へ共度々替申されす候由承候

 


堀内傳右衛門聞書 P81~P90 熊本県立図書館蔵

2020-03-23 19:12:30 | 堀内傳右衛門

P81

と奉存候と申候事
一.次之座ニ而助右衛門被申候ハ吉弘加左衛門殿之御先祖之御咄承申候と被申候故我等
申候ハいかにも大友之内ニ而吉弘加兵衛と申者秀吉公の時代九州合戦
之刻打死仕候石垣原之合戦と申候豊後言葉ニ而子供迄も其後
小歌にながい刀をしやふとぬいて切てさるけハゑれゑれ皆はいま
わるうたい申申候と申伝候就夫加左衛門を若キもの共心安咄申もの共
ううゑれゑれとてなぶり申と咄笑申候得ハ助右衛門被申候ハあれニ居申候矢田
五郎左衛門も加左衛門殿御先祖ニまけ申間敷候三河記なとニも御座候矢田作十郎
と申かくれなきものニ而御座候と被申候いかにも承及申候と申候後ニ承候得ハ
大村因幡守様か御出被遊 太守様へ今度之十七人何もの御咄被成候処ニ
矢田五郎左衛門先祖作十郎事三河ニ而三人之内弐人之子孫ハ唯今御旗本
ニ而御鉄砲頭被仰付候由名ハ失念仕候其内ニても作十郎ハ就中すくれたる

P82

武功之仁と御咄被成候由承申候堀部や兵衛事も御咄被成今時之聞番之様
成ルものニてハ無御座などとの御咄乗仕此方之聞番衆も承笑申と承候事
一.或夜堀部弥兵衛ねいり被申候而矢ごへをかけ被申候夜八ツ時分ニ而も加有之候
拙者もねずの番ニてい申候何もきもつぶし申候故我等申候ハ定而弥兵衛
ニ而可有之ハ見候而被参候得と坊主ニ申候得ハ其儘参候而いかにも弥兵衛殿
にて御座候と申候其時拙者申候ハ何も之内之弥兵衛ハ老人ニ而有之故ワか
き衆ニおとり申間敷との常々のたしなミふかくね入り候而も矢こゑ
を懸けられ候事扨々感入たる事とほめ申候常ニも食後ニ咄い申候得ハ
御覧可被成候老体ハ足スクレ申候てえんがわに出被申あなた此方とあ
りき足をからし申とて笑被申候事能ク得候つる其後夜四ツ過之比
瀬田又之丞ねいり候てはぎり被仕候を去ル仁参候而おこしはぎしりを
つよく被成候か御気色なと悪敷候哉と尋被申候由已後拙者ニ又之丞

P83

被申候ハ先夜誰殿之被入御念候而御心を被付下候私くセニ而ねいり候而間に
はきり仕候扨々被入御念忝存候へ共扨々迷惑仕候と被申候故拙者も笑候而
それハ念入すごし御目ざめ御迷惑可被成と申笑候惣体万事念を入
勤申様ニ毎度毎度何も承申事ニ候へ共事ニよりたる儀と存候名も
又之丞被申候而承候得共わざと書付不申ハ能々万事ニ能ク心付候而御了
簡可有候事と書付置候
一.何も度々被申候内蔵助も拙者ニ被申候ハ何も様ニ度々御断申候ハ如御存゜
知牢人ニ而居申かろき料理迄ニ而暮申候処ニ結構成ル御料理数々
頂戴仕殊之外御かへ候而此間之麁飯ニいわし恋しく覚申候何とそ
御料理かろく被仰付被下候様ニと被申候我等申候ハ誠ニ左様ニ可有御ざ候
私共も逗留中御相伴之料理を次ニ而給申候が少シ御かへ申様ニ覚申候
御尤ニ存候随分御このミ被成候得かろき料理可申付候併采数等之儀ハ

P84

ぐれ被成候御実儀故と申候得ハ何もそれハ誠ニ左様と被申何も喜兵衛
方を見被申候故我等も見申候得ハ能ク申たると存知られたる顔色
ニ而わらゐわらゐ拙者方へむき何も共物ハ不申忝と斗の様子ニ而おりいり
たるぢき被仕候夫故終ニ咄も不仕しかと言葉もかわしたる事終ニ
無之所に最後の時ニ側ニより何ぞ御口上之御用可承と申候得ハ懐
中より辞世書たるを給候  辞 世  間 光延
 草枕むすふかりねの夢覚(さめ)て常世にかへる春のあけほの
一.御老中秋本但馬守様御内ニ中堂又助と申間喜兵衛聟居申由ニ付侍
を以此辞世喜兵衛娘右又助妻ニ見せ被申候へ定而所望ニハ可被存候得共
是ハ拙者ニくれ被申候事故其段ハ御断申とて遣見せ候ヘハ又助方より即刻
礼ニ状くれ被申候其儘状も召置候御覧可有候事
一.吉田忠左衛門被申候ハ私ハ今度裏門より入申候大形隠居我ハ奥座敷

P85

うらの方ニ立申事世の常ニ御座候故幸と被存候而吟味仕候処ニよし垣有之
雪隠之様成所ニ人おと仕候故おしやぶり参候へハ何ものか其儘座敷江
はいり申候もの御座候大形ハ台所より仕込申かこゐの様成ル所を両方より
セりこみ候処ニ三人居申皿或ハ茶碗すミなとニ而なげ打仕候故其儘
間十次郎鑓つけ申候上野介殿の前に両人立帰さがりふセき申もの
殊之外能ク働申候両人共ニ果候而上野介殿も脇差ぬきふり廻り被申
候處を十次郎鑓をつけしるしをあげ見申候得ハ古疵之様子白小袖
上野介らしく吟味仕候得ハ上野介殿ニ極り申候寝間と見へ申候処を見
申候得は刀斗御座候而ふとんもあたたかに唯今迄寝候而被居候様に
見へ申候扨左兵衛殿も長刀ニ而出合被申候得共手負其儘長刀を捨退
被申候後ニ夜明候而長刀見申候ヘハ金具ニ定紋つきこしらへ結構ニ御座候
扨ハ左兵衛殿と存候惣体手むかひ仕候ものハ打捨迯落或ハかまハぬ

P86

ものハ其儘召置候様ニ兼而内蔵助申付置候故其通ニ何も心得
居申候扨上野介殿討取候故別ニ望無御座何も相図の笛をふき
惣様集申候刻わかきもの共其外早水籐左衛門なとハ弓ニ而長や長や
人の居申そうなる所ニ而上野介殿打果立退候か出合申さぬか申さぬかと高
声ニ而申候得共一人も出合不申候家老之小屋と相見へ門之脇ニ有之
路次口之座みじかく上をのね板ニ而つぎたる所一尺斗見へ申内之あ
かりもあんどんのひかりとは見へ不申らうそくと見へ申候早水籐左衛門と
名乗かけ二筋迄矢いこみ候へ共物音なく候故何も立退候と咄被申候
是ニ而存出シ候故喜加へ申候熊本ニ而先年手取ニ火事有之候刻同名
角之丞屋敷之中程ニ沢村二代目之宇左衞門殿やねニ上りい被申候処ニ田中
次太夫ハ心つきたる物ニ而水をのまセ申候が肥前やきのかやうかやうのそめ

P87

つけニ而有之候由次太夫ニ尋候得ハ少も覚不申と被申候定而宇左衛門殿心に
いそかしき時ニ慥ニ茶碗のそめつけもらふまて覚候との事ニ而可有候
右之忠左衛門咄ニのね板ニてつぎたる様子あんどん、らうそくのひかり迄
見ワけたるとの心ニ而拙者へ咄被申候と存一入感シ入申候急成時或ハいそ
かしき時などてハ平生之心懸萬事ニ気をつけ可被申候事と書加へ置候
一.右之通いつれも咄い申我等申候ハ上野介殿御仕廻ニ被成候而別儀も無御座之ゆへ
それより無縁寺へ御立退被成候得共住僧内へ入レ不申候故それより泉岳
寺へ御座候間誠ニ段々御心遣共御尤奉存候夜明殊ニ十五日之事ニ御座候ヘハ
一入往来之人も多ク御屋敷へ之辻番なども道すから多ク御座候へハ
見とかめ何角と申候而も様子ニより御障も入可申ニ何之つかへなく上野
介殿しるし迄御持参被成候事ハ誠ニ御忠義不浅偏ニ天道之御
めぐみふかく奉存候と申候得ハ如仰十五日之事故御登城之御衆と

P88

見へ御乗物或ハ御馬ニ而御通被成候御衆誰様とハ不存候得とも
二三人ニも御目ニ懸り少御不審そうに御覧被成候得共火事場など
に出候物かなどと思召辻番なども右同前ニ存候かな何之つかゑもなく
泉岳寺へ参候事ハいか様仕合成る儀と存候由被申候事
一.右之咄之内ニ高田軍兵衛と申候小知遣候もの御座候此モノハ赤穂籠城と
承由承由申候而大形一番ニ罷越候然共不実ものニ而今度之一巻ニハ中々
加り申様なるものニ而無御座候然ル處ニ今度仕廻候而泉岳寺へ立退申刻
三田八幡之近所ニ而逢申候故何も扨も不申通り候処ニ堀部弥兵衛申候ハ何も
如此志をとげ上野介殿しるし唯今泉岳寺へ致持参候見申され候得と
申候得ハ其儘返答ニ扨々何も御安堵か被成候私も唯今も三田八幡宮江
社参仕各々様御本意被届候様ニとの志ニ而候ニ扨々目出度存候と申候
其後軍兵衛泉岳寺ニ酒など致持参門番を頼内蔵助其外何衆へ

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いわい心ニ酒持参仕候御いれ被下候得懸御目度由候故何もワかきもの共
承候而扨々にくきやつめニ而御座候幸之事ニ而是へよびいれ候而ふミころし
可申候刀をよごし申事ニ而無御座候と悦申候を内蔵助承候而扨々各ニあの
様成るものをふミころしても何のえきなき事ニ候軍兵衛事ハよびいれ
何も逢申ものニ而無御座候間酒も御返し被下候得と門番ニ申付候由咄シ
被申候拙者申候ハ扨其仁ハ定而平生ハ何ニ被召仕候而も能埒明能キ奉公人と
ほめ申程之仁ニ而可有御座と申候得ハいかにも其通ニ而内匠頭家中ニ而も大
形すくれたるもの何を勤させ候而も能勤候と申たるものニ而御座候と被申候
拙者申候ハ□々左様ニ萬事ニ宜ク見へ申ものの本心之実儀なく世渡り之
上手昔よりも類い多く御座候由古今承伝申候けいはくの上手ニて出頭人ハ
不及申□々主人をだまし候ハ本心之不実故ニ而御座候と申候つる是ニ而其儘
其座ニ而おもひ出し申候故書加へ申候同名古文左衛門節々咄被申候

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真源院様御代ニお江戸いりわりの御座候むつかしき御用ニ而去ル人御
えらひ被成被仰付候處ニ然所なく御心ニ叶候様ニ埒明申候其後之御意ニ
彼物ハ何ニ被召仕候而も御気味よく思召候されとも一所ニ被召仕にくく
御座候との御意承候其時分文左衛門ハ御児小姓ニ而も御意ニ入たる内
ニ而御座候能覚申由ニ而名まて被申聞我等共能承い申候いかにも其仁後
々迄も息災ニ居申候而右之咄ハ其外老人衆も被申覚申候御大名之内ニハ
色々様々之侍多ク有之候能く上大工之材木を用申ニゆがミたるもすぐ
なるも大小共にそれぞれニ用申様ニ名将も其通ニ而正成なとの事申伝候
然レ共我が身になりてハ何事も不調法ニ而常ニ不被召仕候とも一所ニ
可被召仕被思召常々御用埒明かね不被召仕候共一所ニ御用ニ立可申と思召
候様ニ心実ニ存候ハハ武士之冥加天道之めぐミも可有之候誠以不及是非
冥加ニつきはてたる生レ付と存候右之仁唯今ハ名跡も絶無之候名ハ書キ