1頁 原画
嘉永六年八月十一日林式部少輔殿を以
参政遠藤但馬守殿江差出候愚衷草案
※ 黒船は1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に午後5時に現れ停泊した。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。(ウイキ情報)
※ ぺりー来港は6月3日であり大槻上書は8月11日付けである。2ヶ月余の間にこれだけの識見を表明できる知識人が存在していた事に驚く。
※ これは磐渓自筆文書であるところ貴重です。
2頁 原画
愚衷
米利幹人渡来ニ付書綴置候愚衷奉入御内覧候
此内壱ケ条も御取用ニ相成候ハゞ書生之大幸不過之奉存候
一 此度米利幹人持参之書翰浦賀表ニ而御請取ニ
相成候ハ全一時権道之由左可有御座御義ニ候へとも其節
大艦四艘共猥りに内海江乗入候を其侭差置候ハ
如何なる御深慮ありて之事ニ候哉、愚存ニハ書翰既
ニ御請取ニ相成上ハ直ニも出帆可仕筈之処俄ニ内海江
乗込冨岡沖江碇を下シ候ハ全我国を軽蔑致候
3頁 原画
而之義可憎之至ニ御座候就而ハ即刻御用船御差出
浦賀奉行衆自身出張被致通詞同船ニ而彼船を
追掛使節江面会惣而浦賀以内江不乗入我国之
定法ニ候所其段不案内之事ニ候ハゞ早速乗戻可申
若又国法を心得候而乗入候事ニも候ハゞ萬里之外ニ
使節をも承りなから其国之定法不可犯之弁へも
なき程之人物何事も相談出来不申請取候国書
其侭差戻し候間早々持帰可申旨厳重ニ御断被成候
ハゞ如何なる剛腹之者ニ候とも辱使命候罪過を思
合必承服可仕其節ハ戦艦為乗戻候而已なら
ず一札之謝状をも為出可申哉ト奉存候乍去既往之
事今更申上候迄ニも無御座候へとも来寅年二、三月比
返翰承りニ再渡致候節ハ戦艦も増可申何分夫
迄之内篤と御深慮被為有候而再ひ内海江不乗入
手段肝要之御事と奉存候因而先其愚策を申
上候当年之内海岸御備へ方を初御返答振其外
諸事御決定相成候ハヾ来春ハ早々浦賀御奉行並
守衛四家江被仰渡此度ハ渡来之義も前以知居候
※ 守衛四家 弘化4年(1847)、幕府は「御固四家」体制を敷き、江戸湾防衛を川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩の有力4藩に負わせた。
4頁 原画
義其期に至り必見落申間敷沖合一点之白帆
見へ候ハヾ早速相図之狼煙を揚浦賀御奉行より即
刻御用船差出御組之者乗組神速ニ彼船江乗
付使節江面会前条申上候我国之定法を厳ニ御断
被成尤此度ハ口上而已ニ而ハ行届申間敷兼而御船手
江被仰渡御座船御供船並チヨロ之類迄数十
艘御差出右江葵章之御幕を張廻シ御纏吹流
之類夫々御飾付ニ相成候上相当之御役人為乗組右を
観音崎より冨津之方江向凡三四町置位厳重ニ
陣列為致置扨夷人共江彼所江啚船差置候ハ
内外之分界ニ有之必乗入申間敷旨通詞を以為
御断被成候ハヾ彼等も葵章之御幕ハ兼而心得居候義
夫を犯し候而乗越候義必仕間敷ト奉存候此儀
御軍艦ニ御座候へば命宜敷候へとも惣而事ニ文武
之差別御座候来春彼国より御返翰承りニ参り此方
より御渡しニ相成候義皆文事ニ而武事ニハ無御座候然ハ
御番船も軍艦ニ無御座方却而一時之体を得候
歟と奉存候
5頁 原画
一 次に御返答御掛合振之義を申上候彼国書翰御
請取ニ相成候ハ一時之権道ニも可有之候へとも来春使節
船御返翰承りニ再び渡来之上ハ事体も不軽義
此方ニ而如何にも厳重ニ御構へ壁立千仞之勢を
為御見相成候而ハ不叶御義依之彼使節ペルリを江戸
迄御呼寄ニ相成閣老御役宅歟又ハ
御城ニ而閣老方御応対之上御返翰御渡しニ相成
義御国体ニ於而相当之事とハ奉存候へとも夫れニ而ハ
余り御手重過候而御取扱も御六ケ敷御座候ハゞ一等
を下シ矢張当年之振合ヲ以浦賀久里浜江此度
ハ相応之仮御殿御出来ニ相成閣老御在職之外新
規御壱人被仰蒙諸有司一同同所江御出張ニ相成
彼使節ペルリを船より被召寄新閣老御出座諸有
司列座ニ而貴国使節官位も有之才識兼備之由
被申越此方よりも貴重之大臣差出候条諸事応接
議定可致
上意之趣申達先我国体人情より説起シ議論公平
義理明白ニ御弁シ虚飾欺罔之事ハ一切御用ひ無之
6頁 原画
扨通信通商も沙汰ニ不及上ハ別段返翰差出候
筋ハ有之間敷旨迄被仰諭其時使節より一封之
報書も無之而ハ復命も難成段申出候ハヾ兼而閣老
より彼国外国事務宰相江之一書以問易明白之文
ニ認置右を御渡し可成如此厳重ニ御取扱被成候
ハゞ自然彼等之心を畏服せしめ軽蔑之意も
折ケ候道理ニ御座候右も無御座候而唯々浦賀御奉行
を以御返翰而已御渡しニ相成一言之御論解も無
御座候而ハ所詮彼等之心中打解不申如何様之
難題申掛候も難斗候此所実ニ
御国家安危之所係ニ御座候へば能く御深慮被
為在候様仕度奉存候
一 此度彼国より差越候使節ペルリ義ハ識見端正ニ
して有才能之由別紙ヲ以申越義も候へ共左様とハ
不被存短智狭量の小人と愚鑿仕候其仔細ハ
彼国より之申付ニも無之一己之存付ヲ以数十艘之軍
艦を以御返翰催促ニ参り可申なと虚喝之言を以
我国を威し掛候ハ誠ニ浅智之至腹底之知たる
7頁 原画
男子ニ御座候其上書翰容易ニ御請取ニ成候を
幸と存し国法を犯し猥に内海江入勝手我侭
之振舞致候も皆小量之心より起り候も深沈大度
之處ハ更ニ無御座彼先年魯西亜使節レサノフ
人物とハ格段之相違ニ御座候是ぞ正に我国之大
幸とも可申候此所を能々御呑込御座候而何分臆し候
念を御絶被成従容寛大ニ御諭解被成候ハ必
思召通り事済可申哉ト奉存候
一 閣老より彼国外国事務宰相江被遣御返翰ハ
此度御評議中之第一義ニ而乍恐
公儀を奉初親矦諸公閣老参政諸有司
より外矦大小諸矦ニ至迄惣評定一決之上
御認ニ相成候義中々以拙者如き書生輩之喙を
容る所ニハ無御座候乍去兼而外国之事情をも
察し尚又此度彼書翰中意味合も篤と熟
覧仕候義も候間ケ様之者ニも可有之哉ト愚案十条を学
びがてらに書綴り申候余り僭越之至恐入候御義ニハ
御座候へとも萬々一御見合之一助にも相成可申哉と左ニ
8頁 原画
認奉入御内見候
愚案十條
側北閍貴国其初欧羅巴より人種を移せし
頃ハ人民稀少ニして風俗も貪陋なりしが追々
土地広大ニ民口蕃殖し今ハ三十余州合衆国
強盛之国ニ成事に天運ニも叶い年々千百
五拾弐万千七百両之黄金を産するニ至其他
貴重物品之多きハ推て知へし誠に他之小国
区々贏利を営み求る比類ニハあらず我日本
ニ在るも竊に欣羨ニ堪さる所なり
貴国我日本と宜く和好すへき之旨極て
其懇切之情を知れり抑各萬里之夷
域に在て国体風土其宜きを夷にし殊ニ
此国より報謝すへき船艦之設けもなく徒に有
来而無往ハ豈礼之宜き得る者ならんや
貴国世々ワシントン氏之定律を守れるハ
獨我祖宗之旧制を守るが如し各其国法
を守りて定律を失ハざる事獨立国之本意
9頁 原画
ニあらずや
先年魯西亞国より使節を立我国ニ通信
通商を乞ふ時我固く祖宗之旧法を守
て其乞ひニ応じ難きを諭せしかバ使節ハ
承諾して速に帰帆し尓後再び我国ニ来る事
なし此事僅に四十餘年前ニあり今若新に
貴国之乞ひを評諾せハ信義を魯西亞国ニ
失ふニ至ん豈貴方正実友愛之国之望み
欲する所ならんや
支那和蘭之我国ニ来るハ通商ニして通
信ニあらず且其通商を訴せしも既に弐百五十年
之前ニあり当今祖法一定之渡を以例して
これを諭し難し
交易之事ニ至てハ其国有餘之品ヲ以我国之利益
と為そんとするハ懇切之至なれとも我国毎年支那和蘭
貿易定額之外永久別国得輸送すへき物品
に乏しく假ひ交易を結ハんとするも其国之
不足を補ふニ足らず況や祖宗之旧律畢竟
10頁 原画
不可改者ヲや
貴国之船支那に航し又ハ鯨猟之為日本近海
ニ至り若破船ニ逢ふ事あらむ其難民を接䘏
し財物を保護せんと之旨其意を領せり我国
之吏民堅く耶蘇教之禁を守るか故に時とし
て痛く外邦之民を拒く事あり不得已に出と雖
畢竟仁慈之道ニあらず今より以後貴国之民
何之浦ニ而も現在難船ニ逢ひたる者と知
らば必救ひ取て接䘏を加へこれを長崎江
護送すへし必帰国之便宜を得る事あらん
貴国蒸気船近海通行之節若石炭欠乏ニ
至る時ハ我国所産之石炭を得て其船を接済せん
と之旨是所其意を領せり此品我西海之貧民晨
夕自炊之常用ニして他之外国江供給すへき有餘
あるニ非すと雖尚此義ハ追而議する事もあるへし
薪水及ひ食料之如きハ宜しく長崎ニ至りて其
事を弁すへし必他之港口に入こむなかれ
我国従来長崎を以外国応接之地ニ定メ置
11頁 原画
しハ貴国之兼而 聞知れる所なり今若南
境ニ於而新に一處を定めん事畢竟我国之
政治を妨ぐる事ニ而貴邦別国之民を労勤
せしめざる規律ニも叶ハざるべし
合衆國製造之珍品数種園路嘉恵せし事
之旨厚意誠に所謝既ニ和親交易
も貴意ニ不為任上ハ徒に投納せんも本意ニ
あらず幸に郤くるを以て不恭と為ことなかれ
書し畢て佒而祈る
貴国之君主益天神之眷顧を蒙り永
々無殭之福寿繁栄を保たれん事を
嘉永七年甲寅三月某日即米利幹建国
七十九年四月某日
右之内魯西亞之一条ハ既に御振合も変り可申候
へとも最初存付候まゝを認置申候
一 朝議ニ交易御許之御沙汰ハ千萬有之間敷
道理とハ奉存候へとも此義ニ付愚生別段心配仕
是迄取調置候義を左ニ申上候
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