古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

熊本城こぼれ話 棒庵坂の狸

2018-08-27 21:03:30 | 日記

 熊本新老人の会の会報に表記小文を載せて頂いたのでここに転載します。同文はわりと評判がよくて、またお願いしますと編集部から云われています。持ちネタが少ないので連載といわれても困るのですが、3回程度ならなんとかなります。それ以降はこれからネタ探しとなりますが、まあ、なんとかなるでしょう。

棒庵坂

 熊本城は茶臼山の頂上に築かれたのでお城に登るには必ず坂道を登らねばなりません。法華坂、薬師坂、御幸坂等々名前の付いている坂が31もあるそうです。名前など付いていない坂を入れたら、それこそ数えきれない数になることでしょう。その中で人の名前のついている坂が3つあります。棒庵坂、慶宅坂、槙島坂です。
 今回は棒庵坂についてお話しをいたします。「棒庵坂」の由来はこの坂の下に下津棒庵という2千石取りの侍の屋敷があったことによります。

 棒庵は毎日この急な坂道を登って登城していた。ある年の夏のこと、梅雨明け後の強烈な日差しが、鬱蒼と繁茂する樹木をとうして深い木下闇を作り、蝉時雨のかしましい坂道を、いつものように登って行く棒庵の前方を天秤棒を担いだ若い男が走るような脚捌きで登って行くのが見えた。 その衣装(なり)から男は魚屋と分かるが、担いでいる天秤棒に底の浅い桶がぶら下がっていて、桶の中には生きた鯉が跳ねている。
 
「はて面妖な、ついぞ見かけぬ顔だが坂の上のご家老のお屋敷へ鯉の届け物と見える。」
 
と訝しんでいるうち、鯉が桶から飛び出して今度は坂の上で跳ねている。魚屋はそれに気づかず、どんどん登っていくので、

「オイ、落とし物だぞ」

と下から大声で声をかけたが、魚屋は振り返りもせず登りきって姿が見えなくなってしまった。
 棒庵も今は走り出して、鯉を拾い上げ両腕に抱えて追いかけ、坂を登り詰めて付近を見回したが魚屋の姿はなく、「さてはご家老のお屋敷か」と見当をつけて家老屋敷の門内へ飛び込んだその途端、ずしりと重かった鯉が急に軽くなって、たちまち1枚の朴の葉に変じてしまった。
 
 棒庵坂には狸が棲んでいて通行人をよく化かしたそうです。


小泉八雲の試験問題

2018-08-25 18:46:37 | 日記

熊本の小泉八雲旧居館に「八雲の試験問題」という冊子がありました。明治26年(1893)作成の八雲自筆の英作文問題です。

 上の画像は冊子の表紙とその中に収められている問題のコピーなのですが、正は英文それを翻訳した和文も収めてあります。八雲自筆の英文もあるのですが、ここには印刷したものを出しました。
 下に和文のほうを文字を大きくして掲載します。

英作文
 Ⅰ
1893年卒業生クラス用課題

 カーライルは学生から「何を読めばよいのでしょうか。」と質問され、「永久なるものを読みなさい。」と答えた。この出来事についてコメントを述べ、良い書物における「永久なるもの」とは何かに関し自分の意見を述べなさい。なお、この時「永久なるもの」という語は、人類文明の全歴史、並びに予想される未来のみを言及しているものとして考えなさい。

 Ⅱ
4年生クラス(英語Ⅱ)用課題
『ティソナス物語』を教師が話したように。

 Ⅲ
予科クラスP・1・A・及びP・1・B・用課題
『1000年生きた男の物語』を教師が話したように。

 Ⅳ
予科クラスP・2・A・及び2・B・用課題
シェイクスピア作『ベニスの商人』の中の3つの箱の話を教師が話したように。

「試験問題はこれで終わり」という意味の小泉八雲オリジナルのサインです。

  印 櫻井房記
     小泉八雲五高在任当時の教頭

  印 佐久間信恭
    小泉八雲五高在任当時の主席教授

 上記の中、「卒業生クラス用課題」について学生たちの答案を翻訳した和文が別の冊子にありましたので、その一部を掲載します。往時の五高生のレベルは低くはなかったようです。

1.「真理と不滅とは、おなじものである。この二つのものは、漢語のいわゆる『円満』をつくるものである。

2.「人間の生活と行為のうちで、宇宙の法則にしたがうものは、すべてみな、そうである。」

3.「愛国者の生態、及び、世界に至純な格言を与えた現代人の教え。」

4.「孝行と、それを教えた人の教義。秦の時代に、孔子の書は焚かれたが、その効はなかった。孔子の書は、今日では、文明世界のあらゆる国のことばに翻訳されている。」

5.「人名と科学の真理」

6.「善悪は、ともに不滅なものであると、中国の或る聖人が言った。われわれは、善なるものだけを読むべきである。」

7.「われわれの祖先の、偉大なる理想と観念。」

8.「十億世紀のあいだ、真理はねいぜんとして、真理である。」

9.「あらゆる倫理学の学派が、ひとしく認める正邪の観念。」

10.「宇宙の現象を正しく説明する書物。」

11.「良識のみが不滅である。したがってね良識にもとづいた人倫の書物は、不滅である。」

12.「崇高な行為にたいする理念。これは時劫のために変わることがない。」

13.「できうるかぎり最大多数の人々――すなわち、人類に、できうるかぎり大きな幸福をもたらす、最もよい道徳的な手段を書いた書物。」 

14.「中国の五大古典である五経。」

15.「中国の聖賢の書と仏典。」

16.「人間のおこないの、清廉至直の道を教えたものは、すべてみな、そうである。」

17.「七たび生まれかわって、朝敵と戦わんと言った、楠正成のはなし。」

18.「道徳的情操、これがなければ、世界はただ一大穢土、あらゆる書物は、反古にひとしい。。」

19.「孝子道徳経。」

学生達の答案を読んで八雲は次のような感想をかいている。

「1893年(明治26年)の夏期考査のおりに、わたくしは、卒業組の作文の題に、『文学における不滅なるものは何か?』という題を出してみた。この問題については、それまでに生徒たちと、まだ一度も討論したことがなかったし、それに、西洋思想に関する学生の知識という点から見ても、たしかにそれは新しい問題だったから、わたくしは、ひそかに、生徒たちの独創的な答案がえられるものと期待していたのであった。果たせるかな、その答案のほとんどぜんぶが、おもしろいものであつた。例としてここには二十の回答を選び出して、お目にかけることにする。たいていは、ここに掲げる文句のあとに、長文の議論がついているものが多かったが、中には、本文の中に具体的に云いあらわされているものも、二、三あった。」

 


戦国期の武将気質  清田五郎太夫のこと

2018-07-27 19:44:14 | 日記

 熊本市指定文化財「清田家住宅」の12代当主清田泰興氏から清田家の先祖附きを見せて頂きました。コピーをいただいて一読したのですが、これがなんとも面白い古文書でした。以下に一文を記載します。

 文中2行目「義統(よしむね)落去之刻一同ニ落去仕候」の一節があり、これは文禄2年(1593)朝鮮の役の時大友軍に重大な失敗があって秀吉の怒りを買い改易になった事を指しています。この事件を境に大友一族の流浪が始まり、清田五郎太夫も牢人の境涯を余儀なくされます。

 
 主家が滅べば家臣たちは仕官の口を求めて奔走することになりますが、ある年のこと五郎太夫の目覚ましい働きが黒田如水の目にとまりました。4行目から5行目にかけて「人を誤り欠落仕候者御座候に付御城下にて首尾よく討ち放ち申候」とあり、これは奴隷商人に売り渡されようとしていた日本人奴隷を五郎太夫が見事に解放した働きと思われます。その働きを城内から如水が見ていたというのです。ちょっと芝居がかった話なのですが、そのくだりが古文書にしてはおもしろいのです。

 
 ここで我が国における奴隷貿易について簡単に説明をしておきます。鉄砲伝来以来ボルトガル商人には西洋文物の持ち込み等肯定的評価がある反面、同時に「雑兵狩り」といわれる否定的な裏面のあったことが近年の研究で明らかとなりました。つまり雑兵として戦場へ駆り出された農民が負け戦の結果奴隷としてポルトガル商人などに売りつけられていたことが明らかとなったのです。
 
 雑兵狩りをするのは勝者側の雑兵でその楽しみがあるので戦場に出て来るのですが、負け戦となれば自分が雑兵狩りに合う訳ですから、雑兵にとっても、それは賭けであったわけです。また、領主の側はその事をけして良しとしていたのではありませんが、それを禁じたら雑兵が集まらないという事情があつたようで、見て見ぬふりをしていたのでしょうね。

 
 豊臣秀吉は自国の民が九州において大規模に奴隷として売買されていることを大変不快に感じ、1587年7月24日にイエズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人、タイ人、カンボジア人に日本人を買い付けて奴隷にすることを中止するよう命じていますが、これくらいのことで奴隷貿易がなくなるはずはなく、それが消滅するのは我が国の鎖国制度が完成するまで待たねばならなかったのです。

 
 城内より使者が来て五郎太夫は如水の許へ召し寄せられ、盃を賜り仕官の約束も取り付けて己れの幸運を喜んだことでしょう。下がって沙汰を待つようにと言われ、連絡を待ちますが、五郎太夫のところへ如水からの使者は来ませんでした。「はて面妖な・・」と訝しみながらも、仕方なく豊前手拭町の住居へ帰ります。五郎太夫の面白いところは自分の方から催促がましい事を一切言わなかったことです。こういう潔さが戦国武将の気質なのでしょうね。
 
 終わりの5行にその顛末の説明があります。なんと如水は五郎太夫との約束をすっかり忘れていたというのです。後日そのことに気付くのですが、そのとき五郎太夫は既に城下を立ち去っていました。逃がした魚は大きいと言う、「探せ・・!」ということになったのでしょう。やがて、森与三兵衛という武士が「千石之折紙と白銀拾貫目」を携えて五郎太夫を尋ねて来ました。その時の会話の遣り取りを想像すると一席の講談を聞くような心地良さを感じますが、意外にも五郎太夫はこの仕官の口を断ってしまうのです。ここがまた講談めいて面白いのてす。


※ 「千石之折紙と白銀拾貫目」について少し説明します。「折紙」というのは手紙のこと、千石というのは当時博多の町に「千石屋」という紙問屋があったと言われ、そこの和紙に書いた手紙と解釈されています。また、白銀拾貫目というのは銀貨の事で贈答に遣う場合は銀と言わずに白銀と言ったようです。拾貫目というのは銀の重さで、37.5Kgあります。これを金貨に換算すると200両になります。金200両は懐へ収納できますが、銀貨の場合は袋に入れて馬にでも載せて運んだことでしょう。

  
 黒田如水召し抱えの良縁を蹴った剛勇の武士がいるという噂は豊前城下にも伝わり細川忠興の耳に入りました。細川家と黒田家、いずれも関ヶ原合戦の論功行賞で領地の大加増を果たした大名家です。細川忠興は丹後田辺18万石から豊前国一国と豊後杵築を合わせ39万9千石に、中津藩黒田家は12万3千石から筑前53万9千石にこれまた大加増。両家とも急増した領地経営のために家臣団の補充が必要でした。五郎太夫のような豪傑は両家にとって垂涎の人材だったのです。

 
 細川忠興と黒田長政はともに東軍として働いた同僚武将でしたが、長政は忠興の恨みを買う事を仕出かします。国替えの時長政はその年の年貢を持ち去ったのです。そのためにあとから入国した忠興には年貢の徴収ができなかったのです。食い物の恨みは深いといいますが、両家の仲が悪かったのはそのためだと言われています。忠興には長政の鼻を明かしてやりたいという対抗意識があって、そのためにも五郎太夫を意地でも召し抱えたかったのでしょうね。 

 
 寛永9年(1632)細川忠利は加藤家改易の跡を襲って熊本藩54万石の太守となりますが、清田家も主家に従って肥後に来ました。

 五郎太夫は正保5年(1648)病死しましすが、その時何歳になっていたか文中に記載がないので分かりません。第12代当主の清田泰興氏にお尋ねしましたが、70歳代の高齢になっていただろうと言われるだけで正確な年齢は分かりません。墓所は坪井流長院にあります。


熊本の夏

2018-07-19 18:17:30 | 日記

 通町筋電停から熊本城を撮りました。気温37℃超、熊本の夏です。熊本の夏が暑いのは日中の高温だけを云うのではありません。日没後の蒸し風呂のような暑さが余所と違うのです。それは西側に金峰山山系が屏風のように立ちはだかって有明海の海風を遮っているからです

  炎帝にまみえて白き天守かな  礁 舎


日光の棚田

2018-06-27 09:57:54 | 日記

 鮎帰西福寺へ一向宗文書を見せてもらいに行った帰るさ、近くにある日光の棚田を観てきました。5/27というのは田植えにはまだ早い時期で棚田にはネギなどの野菜がわずかにあるだけでした。棚田の面積は2町歩あるそうです。

 前にアップした西福寺の一向宗文書に「日光村 杢右衛門 摩之丞」という門徒世話人の名がありましたが、恐らくこの人たちのころから棚田の築造がはじまったのだろうと思われます。


八代高田御蜜柑  宝暦十一年「覚」

2018-05-07 19:09:17 | 日記

 古文書のサイトらしく今回は宝暦年間の高田蜜柑の栽培村名、栽培面積、蜜柑成木本数等の記事をアップしました。あまりに専門にわたる記事で、高田蜜柑の概略の説明になっていません。それについては「津々堂のたわごと日録」に格好の記事があるのでそちらをご覧ください。津々堂さん、勝手な引用ですみません・・。

八代郡 高田御蜜柑床畝数改帳之写 宝暦11年覚

はねつる
一、三畝拾弐歩       奈良木村
      御蜜柑成木拾弐本  外ニ壱本苗木植付申分

南正寺
一、壱畝九歩     御蜜柑成木弐本

寺ノさこ
一、六畝御蜜柑成木拾三本  外ニ五本苗木植付申分

仮屋
一、三畝九武御蜜柑成木三本  外四本苗木植付申分

同所下ノ木
一、壱畝弐拾七歩  御蜜柑苗木壱本

遙拝
一、壱反六畝九歩  御蜜柑成木弐拾弐本  外ニ拾七本苗木植付申分
    合 三反弐畝六歩  六ケ所
        木数五拾三本  成リ木
        同弐拾七本      苗木植付申分

いみやう
一、六畝        上豊原村
         内 高八斗三升六合引高 四畝弐拾壱歩
        御蜜柑成木五本  外ニ拾壱本苗木植付申分

結左衛門木
一、壱畝九歩 御蜜柑成木弐本   外ニ壱本苗木植付申分
    合 七畝九歩 弐ケ所
        木数七本 成木
        同弐本    苗木植付申分

左京木
一、 壱畝六歩      下豊原村
        御蜜柑成木三本

茶園木
一、三畝拾弐歩 御蜜柑成木六本    外ニ壱本苗木植付申分

道上
一、弐畝九歩 御蜜柑成木五本     外ニ三本苗木植付申分

道下
一、壱反七畝 内  高壱石壱斗四升六合引高 七畝
              御蜜柑成木弐拾八本  外ニ九本苗木植付申分、弐本久年母成木

七助木
一、八畝九歩  御蜜柑成木拾七本    外三本苗木植付申分、壱本久年母成リ木

大工小屋
一、弐畝拾弐歩 御蜜柑成木五本   外ニ壱本苗木植付申分
    右接木床壱石八升 引高
一、六畝拾弐本   苗木植付申分

八幡
一、壱畝拾五歩 御蜜柑成木三本

芝原上ノ木
一、三畝拾歩 御蜜柑成木五本

芝原下ノ木
一、御蜜柑成木六本 

天福寺
一、五畝拾八歩   御蜜柑成木五本      外七本苗木植付申分

平山
一、壱畝九歩   御蜜柑成木壱本 

天福寺
一、四畝  但御蜜柑床之内 宝暦八年より接木ニ被仰付候

合 五反八畝弐拾四歩  拾三ケ所
      木数八拾三本    成リ木
      同三拾六本            苗木植付申分
      外ニ三本      久年母成木
 

御常
一、壱畝九歩      東本野村
     御蜜柑成木三本  外壱本苗木植付申分

草場
一、三畝六歩       西本野村
    御蜜柑成木五本

池田
一、六畝九歩  御蜜柑成木五本   外四本苗木植付申分

合 九畝拾五歩     弐ケ所
     木数九本   成リ木
     同四本         苗木植付申分

権之兀前
一、弐畝弐拾四歩     西高下村
    御蜜柑成木四本 外ニ四本苗木植付申分

孫之兀前
一 、壱畝弐拾四歩    御蜜柑成木三本   外ニ壱本苗木植付申分

久夫喜
一、弐畝九歩         御蜜柑成木三本

合 六畝弐拾四歩   三ケ所
    木数拾本     成リ木
    同五本           苗木植付申分

大福寺大木           大福寺村
一、九畝二拾四歩      御蜜柑成リ木壱本
 

大福寺小木
一、三畝拾歩         御蜜柑成木三本   外ニ壱本苗木植付申分
 

四郎左衛門木
一、四畝             御蜜柑成木八本   外ニ壱本苗木植付申分
 

合 壱反七畝六歩  三ケ所
     木数合拾弐本    成リ木
     同三本          苗木植付申分
 

植柳御仕立床        植柳村
一、壱反三畝弐拾七歩     御蜜柑成木八本   壱本久年母成木

弥三左衛門木
一、壱反             御蜜柑成木四本   外ニ六本苗木植付申分

合 弐反三畝弐拾七歩  弐ケ所
    木数拾七本     成木
  同弐拾四本          苗木植付申分
    外ニ壱本久年母      成リ木

敷河内        敷河内村
一、壱畝拾八歩          御蜜柑成木壱本

畝数合壱町五反八畝弐拾壱歩  三拾ケ所
  内
  高三石六升弐合六才
  畠畝数壱反七畝弐拾壱歩
    此高畝数御免帳外引高ニ成居候分其外之畝数は前々より之御蜜柑床高知不申候分
  御蜜柑成木合百九十五本
  外ニ
  百拾弐本    但御蜜柑床高明地  苗木追々植付申分
  四本    久年母

右者八代郡高田手永御蜜柑床畝数木数相改相違無御座候 以上 

宝暦十一年己四月
      御蜜柑支配所定          松岡仙之兀
      御惣庄屋                 高田富右衛門
      御内検         市村齊助
      御横目         福嶋加兵衛


「城下の歴史街道を歩く」に参加しました

2018-05-05 19:05:10 | 日記

主 催  第14回熊本城坪井川園遊会実行委員会

案 内  熊本地名研究会・一新まちづくりの会

開催日  平成30年5月5日(土)

7本の大楠の若葉がうつくしい・・

 樹齢千年を超す楠が同じところに7本も群生しているのは、ここ熊本城藤崎台だけだそうです。右側上部には藤崎台球場のセンターボードがかかっていて、RKK旗の高校野球があっていました。午後になると大楠の陰が外野席に伸びるので観戦者は陰の中に寄り集まってまって観ています。

 肥後の毒消し丸で有名な吉田松花堂の入り口。衝立は余りにも古びて何を描いてあるのか判りません。また奥の襖絵は梅と鶏のようですが、これも古びています。畳は新しくきれいですね。

 これが毒消丸。400円、600円、1,000円の包みがあり、形は仁丹に似てますが、薄荷は使ってなく味は美味しいとはいえないものの、舌に含んでいると口中に満足感のようなものが広がる感じです。旅行に出るときは必ずこれを携行する人があるとか。また昔は戦地に向かう兵隊さんが背嚢の奥にこれをしのばせていたそうです。原材料は企業秘密・・・。


神風連遺跡 鎮台指令長官種田政明襲撃の跡

2018-05-04 17:24:25 | 日記

「怖ろしき一夜」に出てくる中二階

 この中二階は、明治五年に建てられました。明治九年十月二十四日の夜、徳富家では母の久子と病気の長女常子と健次郎(蘆花)の三人でした。突然近くで戸障子の倒れる音や人の悲鳴聞こえました。母の久子はおびえた健次郎手をひいて、ここの二階から雨戸をあけて外を眺めますと、あちこちに火の手があがつていました。神風連の変だったのです。このことを健次郎は後の小説「怖ろしき一夜」の中に書いています。

 種田は鹿児島出身の陸軍少将で、東京在任中はその派手やかな行状から「花の左門さま」と呼ばれていた。明治九年十月二十四日、熊本鎮台在任中、神風連高津軍記の率いる一隊に襲撃されて落命。時に三十八歳。「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」はその時愛妾小勝が東京家に送った電文であった。(説明文)

蘆花はこの時8歳の少年であったが地図でみるとすぐ近くに居たわけである。


憲法記念日 街へ出たら

2018-05-03 15:25:39 | 日記

下通と新市街の交わる街路におばちゃんたちが横断幕を持って立っていました。側に寄って立ち話をしましたが「平和をつくるおんなたちの会」という名称で政党その他の背景もないようで、まったく自主的な女性の会のようでした。好感・・

 道行く人にチラシを配っていましたが食いつきはイマイチ、でもこういうアクションを起こすだけでも改憲反対の宣伝になり意義ある行動ではないか・・女性の行動力に敬意を表したい。

※ 次回は6月23日同所で 12時~13時 沖縄慰霊の日、宣伝予定。

血みどろの平和憲法記念の日  佐藤 茂 朝日俳壇 長谷川櫂選 一席


蓮台寺詣で

2018-03-05 18:33:21 | 日記

檜垣の塔 玉垣の門柱に二本木遊廓の楼名が彫りつけてある。苔むして判読困難。

 城下町を歩く会の5月例会は「二本木遊廓、蓮台寺コース」と決まったので、早速蓮台寺へ行って住持のお話などうかがつてきました。それらをまとめて説明文を作成したので下に記しておきます。

蓮台寺詣で
 蓮台寺檜垣の塔に玉垣が取り付けられたのは昭和11年のことであった。門柱にびっしりと刻まれている連名の施主名は二本木遊廓の楼名である。と言ってもこれは楼主たちが寄進したのではない。娼妓が金を出し合って建立したものであり、娼妓たちの檜垣信仰がいかに強いものであったかを裏付ける物的証拠でもある。
 いつの頃からか「蓮台寺詣で」ということが言われ、娼妓たちはその日を心待ちするようになった。この蓮台寺詣でがどのような要領で行われたかは不明であるけれども、娼妓の蓮台寺詣でを楼主は拒絶できなかったという。その代わりその日は「若い者」を見張りに付けて送り出していた。
 檜垣は貴顕に舞を披露して生計を立てる白拍子だったと言われ、いわば遊芸に生きる女性であった。一方娼妓たちには檜垣は自分たちの大先輩であるという尊崇の念があり、それが檜垣信仰の根本にあったことは容易に想像されることである。娼妓たちには蓮台寺の本堂で檜垣の像に額づき住持の読経を聴いてすごす時間が現世の苦しみを忘れる至福の時間であり、幸福感に満たされる時間であったろう。娼妓たちのお布施は一般の信者よりもはるかに高額であったという。