城下町を歩く会で2月は唐人町筋を歩くことになったので今日はその下見に行ってきました。古川町、鍛冶屋町、中唐人町、西唐人町と歩きましたが、西唐人町の清永家で面白いものを見せていただきました。写真の商標がそれです。虎印石油とはエッソタイガースの和訳らしい・・この看板、今では骨董品としてヤフーオークションでは、26,000円くらいの値がついています。イヤ、そんなことを言いたいのではなく、いち早く熊本でこの看板を掲げて石油を売り出したのが清永商店だということです。それはいつ頃のことかと言えば、そこがはっきりしないのですが、石油ランプが熊本で使われるようになった時期な訳ですから、日露戦争の後くらいになるのでしょう。西唐人町は明治、大正の頃は清永商店の町といつてよいほどに、清永一族の商店が軒を並べていたといわれています。この看板はホーロー引きで手に持ってみるとどっしりとした重量感のあるものでした。
2月に「城下町を歩く会」があるので、その下調べのために唐人町通りを歩きました。久しぶりの好天で初冬の日差しが通りいっぱいに差し込み、街路灯柱が長い影を引いて人も車もその影を踏みつけて行き交っていました。
武蔵屋は明治から続く老舗の履物屋で、中唐人町にお店を出して今は4代目だそうですが、先代3代目のお話を聞きました。「親父は昭和19年に戦死したですたい、海軍の航空母艦に乗っていたから、骨も還って来んとですばい。」こちらから水を向けた訳でもないのに、3代目はこんな話を悔しそうにされました。「終戦の時は12才でしたたい。だけん母親が苦労したっです。その母を扶けるためにわたしゃあ下駄職人になったっですたい。」、「いま県下に下駄職人の方は他ににおりますか・・」これは私。「イヤおりまっせん。うちだけですたい。」、「下駄造りで1番難しかとはどこですか。」、「そりゃあ鼻緒のすげ方ですたい。足に合わせてスゲますばってんお客さんに気にいってもらうようにスゲるにあ年季の要ります。」こんな話をしているとお客さんが入ってきたので私はお店を出ました。
用があって西原村へ行く途中、柿がたわわに生っている農家風の家が目につきました。これが田舎だという風景。懐かしさのあまり車を降りて写真を撮りましたが、家の周りの田畑は荒れて雑草が生い茂っており農村のおかれている現実の厳しさを見せつけられた思いでした。
菜園の洗い場
大根を1本、二十日大根を6個、ホーレンソウを2株収穫しました。大根は今高いようです。これくらいの大きさで200円くらいするらしい。あと一ト月もおけば倍の大きさになるのですが、惜しみながら収穫しました。
大根の洗ひたてたる白さかな 礁 舎
上記のような句ができたのですが、オリジナルではないような気がしたのでネット上で検索しましたが、見当たりませんでした。したがってこれはわたしの作品です。
先月植えた白菜がずいぶん成長しました。中心部が丸まってきたので今年は巻いてくれそうです。去年は巻きそうにして巻かず、大葉が天に向かって開いてしまいました。それでも食用には差し支えないので、食べるには食べたのですが、やはり白菜には白菜らしく巻いてもらいたいですね。去年の失敗は多肥にあったようなので、今年は肥料を少なめにしています。さて、巻いてくれるか・・??。
明治29年(1896)4月13日漱石は五高へ赴任の途次、このアングルから熊本市街を俯瞰して「おゝ森の都だ」と呟いたらしい。漱石に同行者はなく、それは俥夫にむかって発せられたはずだが、そのいきさつは伝わっていない。爾来121年、今この景観を森の都と呼べるだろうか。わたしにはとても美しいとは思えない。統一を欠いた無秩序な空間としか見えない。たゞ往時に変わらぬものといえば正面に低く横たわっている立田山の山姿と、さらにその向こうに微かに見える阿蘇の山脈とだけであろうか。
久しぶりに市内中心部へ出ました。辛島公園のハナミズキが美しく紅葉していました。
燃えるような紅が目に浸みるようでした。
実がこれまた真っ赤に熟れていました。
こちらはサルビア、造園業者が請け負って手入れをしているので、さすがに奇麗に咲かせるものですね。
この季節楠も紅葉して落ちる葉があります。楠は初夏のころ嫰芽と入れ替わるときすべて落葉します。ですからいま落ちる葉っぱは病葉なのでしょうか。よくわかりませんが、美しく紅葉して落ちています。
今菜園はニラの花盛りです。花の咲かないニラも植えていますが、食用には花のない方を供しています。小花が円く寄り集まって円陣状に咲く単純この上ない花ながら、花のあるあたりが明るくなります。白と緑のコントラストが美しい・・。
ニンニクが芽立ちました。最高気温が30℃を超えない日が続くようになると芽を出してくれます。種はスーパーで買った3玉100円程度の中国産ですが、収穫すれば立派な国産物です。1列20玉あるので収穫時には60玉になる予定。
用があって熊本城内の加藤神社へ行きました。その帰りに監物台樹木園に立ち寄り、前から心当てにしていたトキワレンゲ(常磐蓮華)が咲いているのを確認しました。5月の連休の時にはまだ堅い蕾で、6月の初めに少し膨らみ、3度目の今回やっと写真に写ってくれました。大きさはビンポン玉くらい、モクレン科の可愛いらしい花です。
下の花も珍しいですね。これはイジュの木の花です。昨日の雨で落ちたのか地面にいっぱいに散り敷いていました。これはツバキ科の高木で自生木は沖縄以南にしかないそうです。でも、ここにはあるのです。ウメの花より少し大きいくらいです。
城彩苑から二の丸公園へ登る坂道のあじさいがきれいでした。
表記がおかしい!!??
「道のへの木槿は馬に食はれけり」というのが諸書にある表記ですが、ここでは「道はたの木槿は馬に」となっています。ミチノヘとミチハタ意味的に差違はなく、句としての優劣もつけられないと思いますが、なぜここではミチハタと刻まれたのか、そこに興味をそそられます。
11月に「城下町を歩く会」の3回目をやるのでその下調べのために往生院を訪ねました。
句碑建立の目的と建立者の氏名建立時期とが裏面に刻まれているはずですが、摩滅のために判読困難、わずかに建立時期のみ読み取れました。
于時安永十年辛丑春二月 東都
これは甲子吟行にある句。ずいぶん人口に膾炙した句でパロディまで作られました。
煮売屋の柱は馬に食はれけり
建立者が勝手に表記を変更するなど考えられないことですから、これは当初から併存していた句体と思われます。芭蕉が詠んだ時の原稿だったとも考えられます。
それにしてもこれほどの観光資源を案内板も出さずに放置しているお寺は現今珍しいのでは・・
加藤公殯處碑
加藤清正公之薨也去今三百年其初殯于赤尾口
遂葬于中尾山後建一寺于殯處號曰静慶庵庵廃
而其地属熊本大林区署今其域中有壟冢是其遺
跡也方今玆四月大行公追遠祭請大旅区署修其
遺趾建碑其上以示昆去爾
明治四十二年四月 清正公三百年会建之
上熊本駅前から京町へ通じる急峻な登坂道があります。その中程左側に九州森林局があり、その敷地内の木立の中に碑が建っています。
碑面は苔むしてとても読める状態ではないので森林局からタワシとバケツを拝借して清掃、文字を浮かび上がらせて写真に撮り、家に持ち帰って上記のように翻刻しました。
この碑文に述べられている事柄を分かりやすく説明すると次のようになります。今より三百年前、ここ赤尾口において公の遺骸を荼毘に付し、遺骨を中尾山に葬った後、ここに一寺を建て静慶庵と号した。庵は廃れて今は塚が一つあるのみだが、その塚(壟冢)が殯處の跡である。
※ 参考までに清正公年譜の終わりの一項を記載しておきます。
慶長16年(1611)3月29日、豊臣秀頼に付き添い上洛。家康との対面に立ち会う(二条城の会見)。5月熊本へ帰る船中で発熱し、同月27日熊本へ帰着する。6月24日熊本城において逝去する。
横井小楠率いる肥後実学党は反対派学校党に抑えられて、藩政の表舞
台に登場する機会はなかったのですが、明治になって小楠が参議として政
府に参与したことから藩政においても実学党が実権を握ることになります。
下の文書はその実学党の政治理念を端的に示すものとして注目されま
す。この触書は領内各所に張り出されましたが、これを見た領民は狂喜し
たことでしょう。現に隣の岡藩などでは不公平感から藩内に暴動が起きたと
か、起きそうになったとか伝えられています。
村々小前共江
今度我等知藩事の重任を蒙候ニ付而は
朝廷之御趣意を奉し
正四位様厚き思召を継て管内の四民うへこゞえの
うれへなく各其處を得さしめむ事を希
ふ中にも百姓ハ暑寒風雨もいとはず骨折
て貢を納め夫役をつとめ老人子供病者
にさへ暖に着せこゝろよく養ふことを得ざるは
全く年貢夫役のからき故なりと我ふかく恥おそ
る いかにもして此くるしみしミをとゞむとおもへとも今直に
本免をくつろぐることを得ず先左之通
一 上米 一 口米三稜 一 会所並村出米銭
右稜々を差ゆるしぬ はた又壱歩半米ハ凶年
損毛償の為に備をきしことにさむらへとも向
後をさむるに及ばず 是迄の請免を仮の定免
とこゝろへいよいよ農業に精をいれ老幼
を養育しあまりあるものハ親類組合等
の難渋をすくひ相互に人たるの道を
つくすへきもの也
七 月 知 事
さて、上記触書を立案したのは誰であるかですが、山田武甫ではないかとわたしは考えています。以下に鈴木喬著『熊本の人物』を引用しておきます。
実学党の熊本県参事
山田 武甫
山田武甫(たけとし)は天保二年(一八三一)藩士牛島家に生れ、五次郎と称し、安政二年(一八五五) 山田家を嗣いだ。横井小楠の塾に学び、その才能を認められて明治元年 (一八六八)には藩政に参与するようになった。
明治三年に細川護久が熊本藩知事になると小楠門下の実学党系の人々が藩の要職につき藩政の大改革が行われた。武甫は権少参事試補として民生局の事務を担当し、それまで農民の生活を圧迫していた雑税と津止法の廃止を藩庁に建言して採用されたので、領内皆これを徳としたという。また洋学校・医学校を創立して外人教師ジェーンスやマンスフェルトを招いて新教育を実施するなど、熊本藩の維新に大きく貢献した。
四年の廃藩置県後も、熊本県(翌年白川県)参事として県政を掌握し、諸種の改革を行った。その行政があまりに進歩的すぎて保守的な留守内閣に嫌われ、六年参事を免職となったが、大久保利通にその手腕を認められて内務省に入り、同八年敦賀県権令となった。翌九年同県が廃されると官界生活に見切りをつけて帰熊した。西南の役の後、戦後の人心の荒廃をおそれて共立学舎を創設し、教育事業に手を染めたが、十三年には県の師範学校長に任命されている。また彼は殖産興業の国策に合せて十四年蚕業会社を創立し、実業界での活動も行っている。
同年熊本にも政治結社として紫撰会が結成され、武甫ら実学派もこれに参加したが、その保守性に反撥してこれを脱退し、公議政党を組織した。さらに九州各地の穏健派の進歩党と会合を重ねた末、九州改進党の結成に成功した。武甫は明治二十三年、第一回の衆議院議議員に当選し、第三議会では議長の候補者に推されたが、第四議会に病を推して出席して危篤に陥り、二十六年二月なくなった。
佐久間伸一バスリサイタルに招待され、県立劇場まで夫婦で観に行
きました。いやー実に素晴らしい音楽会で妻ともども感激、感激でし
た。
本格的なバスを聴くのは初めてです。こういう世界的レベルの歌手が
熊本に居住していることを始めて知りました。「熊本シティオペラ協会」
というのが30年前から熊本に存在し、その中心人物が佐久間伸一な
のです。バスというのを始めて聴きましたが、なかなかのものですね。
ズシン、ズシンと腹に堪える音域でど迫力です。
この素晴らしい音楽会の招待券をプレゼントしてくれたのは最近俳句
教室と古文書の会に入会されたばかりの松村さんという男性です。
松村さんは「熊本シティオペラ協会ヴェルディ合唱団」の団員でオペラ
の曲を2曲披露してくれました。こういう方がわたしの会にいるのですか
ら、なにか不思議な気がします。