これ何の幼虫でしょうか・・
久しぶりに雨催いの涼しい日になりました。庭の山椒の木の枝先に大きな幼虫がいました。山椒の葉が好物と見えて近くの葉は食べ尽くして体型が露わになっています。蛾の幼虫だと思いますが、どんな蛾になるのか楽しみに見ていきたいです。
これ何の幼虫でしょうか・・
久しぶりに雨催いの涼しい日になりました。庭の山椒の木の枝先に大きな幼虫がいました。山椒の葉が好物と見えて近くの葉は食べ尽くして体型が露わになっています。蛾の幼虫だと思いますが、どんな蛾になるのか楽しみに見ていきたいです。
5月6日(土)、8時30分、熊本森都心ビル広場集合の「近代日本熊本を歩く」に参加しました。
朝目覚めたら雨が降っているので、今日は中止か、と残念に思いましたが、7時ごろには雨は止み、これなら出来るだろうと7時半に健軍終点から市電に乗り込みました。
たくさんの人が受付にならんでいました。前もって参加登録していたので参加費500円を支払いコースの説明書をもらいました。その時受付名簿を覗いたら当日受付の人数も含めて百10人ばかりの名前が書いてありました。この催しは年々発展しているようです。
白川橋を渡る。この橋もひさしぶりだなあ・・
白川橋から下流旦過ノ瀬を望む。ここは天正8年頃御船の甲斐の宗運と隈本の城親賢との戦のあった古戦場です。戦いは御舟川や緑川の水練で鍛えられていた宗運軍の大勝利に終わったと伝えられています。
石光真清生家。真清についてはリンクを参照ください。
画像をパソコンに落として拡大すると文字が読めるので興味のある方はどうぞ。
本山神社。元弘2年(1332)領主詫麻氏によって創建。領主の子の詫麻宗直が高熱におかされ、領内が洪水で困っていたとき、大亀を神前に供え祈祷しその亀を白川に放流したところ、たちまちにして高熱が引き、晴天となって水が急速に引いたと伝えられている。それ以後氏子たちは亀をお供えし、亀を食することを禁じたので、村はますます栄えたと神社の由緒書にあるとか。
長六橋を左岸から右岸へ渡る。この橋の下流右岸は下河原と称し、江戸時代は罪人の処刑場がありました。
散策コース全行程。
森都心広場→石光真清生家→本山神社→日新堂跡→薩摩屋敷
跡→放牛地蔵→御舟口→長六橋→加治屋町→往生院跡→唐人
町通り→明十橋→富重写真場→船場橋→桜橋→坪井川沿い→城
塞苑 延長 約3.5Km
以下の文章は岡野允俊さんの日記です。岡野さんは「健軍三菱物語」の編集
で知られる方です。岡野さん17歳の日記です。往時を知る1級資料ではない
でしょうか。
昭和20年1月1日
決戦の年の始めを軍隊で迎へた。総員起こしと同時に1種軍装に着替へ朝比叡山麓に登る。雪が降ってゐた。手はちぎれる程冷たい。ご来光を仰ぎ戦勝を祈る。これが朝礼であった。
あさみどり 澄み渡りたる 大空の
ひろきを己が心ともがな
御製奉唱を終へ、すがすがしい気持ちで下山す。雑煮で新年を祝ふ。一人6個あてのダンゴのやうな餅であった。08:00軍艦旗掲揚、隊内神社に参拝す。10:00祝賀食、銀飯、大根、人参の煮付け、鯉汁、数の子、肉の煮しめ、タコの酢もの、ラッキョウ、ビスケット、みかん6個、婆婆ではとてもこんな食事は出来まい。
夕食後軍歌演習あり。
1月2日
初めての自由外出許可。09:00隊出発。坂本のクラブに寄る。佐藤医院といふところで中々感じのよいところであった。入隊以来初めてタタミに座りこむ。3ヶ月ぶりに大津の町に出る。町の人々と比べると我ながら逞しくなったやうな気がする。海仁会、映画館へ行く。映画「土俵祭り」を見る。15:30帰隊す。帰隊時刻に遅れたら禁固刑ださうだ。海軍では時間に遅れたら艦が出港してしまふからださうだ。金銭出納を報告する。
1月4日
課業始まる。3日間休んだので、また張り切って今年のスタートを切らう。
1月7日
半舷外出、早足で大津市内に向かふ。海仁会で昼食を済ませ大津市内を歩く。大津駅で代用うどんを食べ、その後映画「進め独立旗」を見る。電車で帰隊す。
電車賃10銭、映画18銭、うどん35銭、色鉛筆60銭、合計1円32銭也。
1月8日
積雪1尺余。朝掃除は雪かき作業。体操のときこの寒さの中、裸になれといふ。腿が針をさすやうに痛い。練兵場を廻って近江神宮まで駆け足。通信査定あり、100点なり。班長より特別にハガキ1枚を貰ひ早速家に出す。
1月9日
昨夜8班の練習生が自殺した。通夜に出る。軍艦旗に包まれた棺。その上に組まれた軍刀、軍帽。両親も放心したやうに同席してゐた。昨夜「巡検おはり」の号令を聞いて、隊内を走る江若鉄道の列車に飛び込んだといふ。
1月11日
敵リンガエン湾に上陸を開始せり。食卓番なり。朝みそ汁、人参、菜。昼、スイトン、福神辛責、夕、大根、イカの煮もの。陸戦、分隊戦闘訓練。さして苦痛なし。
1月12日
雪、小包受け取る。熊本からであった。発光信号訓練。辺りが真っ暗なので記録用紙の外に書き込み点を落す。喉痛し。終日頭痛あり。通信査定100点なり。3班97、87で分隊3位なり。
1月13日
夕べひどい地震があった。(註、三河大地震なり)隊内哨戒第二配備となる。運用の時間に結索法を習ふ。午後大掃除。
1月14日
外出許可、映画「雷撃隊出動」見る。午後警戒警報が発令されたので急いで帰隊する。
1月15日
満17歳になる。風速大。体操、新唐崎まで駆け足。のど痛し。分隊点検あり。
1月16日
寒稽古、縄跳びをやる。冷たい風が肌をさす。この寒さの中、まさか裸にされるとは思はなかった。手の冷たいことこの上なし。朝礼時気分が悪かったので診察を受ける。結果休業となる。
1月19日
診察の結果「全治」となる。通信査定100点なり。3班第2位なり。班長機嫌よし。飛行機雲多数現る。
1月21日
寒稽古、日吉神社まで駆け足。きつし。外出許可、クラブへ行く。暫く休んで大津に出る。使用金高、絵葉書45銭、切手15銭、下敷き21銭、計81銭なり。
1月23日
寒稽古、新唐崎まで駆け足、午前中形態適正検査あり。通信の時間に第一配備になる。遠雷の如き音が継続的に聞こえた。大阪の空襲がこんなところまで聞こえる筈もないが。昼、大根の煮詰め、たつくり、じゃこ、夕、かぶらの煮込み、タコ。
1月24日
昨日に続き形態適性検査あり。午後体位検査。身長155、4糎、体重46、胸囲77、肺活量など測定。
1月26日
寒稽古、縄跳び、手冷たし、清水練習生入室となる。 手旗信号、旗流信号、通信の試験あり。
1月27日
寒稽古止め。午後大掃除、短艇作業要因として行く。楽だった。班長機嫌よし。
昼、魚肉、玉子、味噌汁、夕、魚、肉、漬物。
ことしの大根は種まきのころ害虫の異常発生により3回も蒔き直すという憂き目に遇いましたが、なんとか収穫を迎えるまでになりました。その中でよく出来たものを撮りました。
青首の洗へは゛白き大根かな 礁 舎
三日に孫たちが一家で来た。毎年正月には来てくれるのだが、ことしは
珍客を連れて来た。鎌ちゃんという名の雄猫で生後11ケ月だそうだが
子猫には見えない。初めはおどおどして落ち着かぬふうであったが、
コタツに入ったり出たりしているうちに馴れてきたようで写真も撮らせて
くれた。
鎌ちゃんはいまや家族にとってアイドルで、鎌ちゃんを仲立ちにして家
族は結ばれているように見える。鎌ちやんどうも有難う。
写真のとおりの値段で売ってました。アーケードはここだけ人だかりがしていま
す。通常の値段を知りませんが、20円とは安いです。ご飯など生米より安いの
ではと思うくらいです。それぞれに賞味期限があるので、そこを考慮に入れて目
いっぱい買いました。数量に制限がないのもうれしいサービスです。
察するにこれは震災時の支援物資の残り品だと思います。販売経費のみいた
だきますという感じでした。
歳末や支援バザーの人だかり 礁 舎
もうすぐクリスマスですね。毎年この時期になると私はホームズを観たくなりま
す。分けても「青い紅玉」という一作はクリスマスへの英国人の思いがぎっしり詰
まった作品で、メリークリスマスと挨拶を交わすシーンがふんだんに出てきます。
日本人がお正月に「オメデトウ」と挨拶を交わすのにそっくりだし、また日本人が
雑煮を食べるように英国人はこの日にガチョウを食べるのですね。それが作品
に取り込まれて楽しい家庭的雰囲気を作り出しています。
盗んだ宝石の隠し場所をガチョウの胃袋に思いつくのも面白いし、そのガチョ
ウがちょっとした手違いから売りに出され、幾変転の末ホームズのところへ落ち
着くという筋立ても気の利いたセンスです。
警官のピーターソンがガチョウと帽子の処置に困ってホームズのところへ相談に来る。
届けられた帽子を観察しながら例によってホームズの推理が始まる。この部分のやりとりが面白いので抄録してみます。写真は帽子を掲げているワトスンと推理するホームズ。
ワトスン・・・そのくたびれた古帽子から何かわかったかね・・?
ホームズ・・持ち主はかなり知性のある人だろうな。そして3年前頃までは生
活もかなりゆたかな暮らしをしていたが、いまは落ちぶれてい
る。勤勉だったが今は以前ほどではない。落ち目になるに従っ
て精神的にもハリを失ったんじゃないのかね・・そして悪癖を身
につけた。恐らく酒だろう。細君との生活もうまくいってないだろう
と思うな。
ワトスン・・・ヘッ、言い過ぎじゃないか・・
ホームズ・・しかし彼は自尊心をすべて失ったわけじゃない。しかし今の仕
事は少なくとも肉体労働ではないと思う。歳は中年で髪は灰色
がかっていて二三日前に散髪をしている。整髪料はライムクリー
ムを使い、それにこの男の家には恐らくガスは引いてないんじゃ
ないかな。
このガチョウ24羽います。
ワトスン・・・ハッハッハッそこまで云ちゃあジヨークだろうが
ホームズ・・大まじめだよ
ワトスン・・・そりゃあ君の推理は尊敬してるがね。でもどうして知的な男と分
かるんだね・・?
ホームズ・・体積の問題だよ、ワトスン君。これほど頭が大きければ(帽子を
被る、ブカブカ)中身も大きいだろう。
ワトスン・・じゃあ落ちぶれたというのは・・?
ホームズ・・このツバは3年前の流行だ、これは当時の最高級品だよ。バン
ドは絹だし裏地も上等だ。3年前に買って以来これ1つ落ちぶれ
た証拠だ。
灰色の頭を持つ1羽に宝石を吞ませる。目印にした灰色の頭のガチョウは1羽でなく2羽いたことから、思わぬ方向へ発展・・
ワトスン・・・思慮深さや精神的退化の証拠は・・?
ホームズ・・(帽子を手に持って)止め紐は買うときはついていない、帽子が
風に飛ばないようつけさせたのは思慮深いが紐が切れたままで
付け替えていない。
ワトスン・・・なるほど今は投げやりだ。それでは夫婦仲がうまくいってないと
いうのは・・?
ホームズ・・ほこりだらけの帽子にブラシもかけてない。これで送り出す細君
では愛情はなくしているね。
ワトスン・・・家にガスを引いてないという証拠は・・?
ホームズ・・1~2滴ならともかく5滴もローソクの垂れ跡が、ガス灯は蠟を垂
れないよ。
今年三度目の忘年会を古文書の仲間四人でしました。場所は駕町通
りの居酒屋。わたしを除く三人はいずれも豊後大友家末葉の方々で
す。同じ飲み会でも趣味の会はいいですね。思いのたけを存分に語れ
ます。
話題は先の大戦の評価、定義づけに及びましたが、なかなか微妙な
問題だけにこれだという結論にはいたりませんでした。、ポツダム宣言
受諾という公式の規定に異論はないのですが、戦中から戦後にかけて
の社会論的評価はまた別ですね。ここには個人のさまざまな思いがつ
まっており、終戦までの昭和前期は日本史の中でも特異の時代であっ
たことは一致しました。
キューバ革命の父カストロ将軍が亡くなりました。90才でした。ご冥福
を祈りたいです。キューバ革命が起きたのは1959年、われわれ世代
は青春真っ盛りでした。その時日本では岸内閣による警職法改悪のく
わだてに反対する闘争が盛り上がっていましたが、国会では自民党が
強行採決で法案を通し、反対世論の沸騰を引き起していました。自民
党のやり口は今も同じですね。そして歴史的な60年安保が戦われ、革
新勢力は高揚期を迎えることになりますが、キューバ革命はそこに肯
定的な影響を与えました。いろいろのスローガンの中にキューバ革命
に連帯しようというのもありました。
キューバ革命を一口に語ることはできませんが、その本質を見事に
描いたアメリカ映画があります。それは「ゴッドファザーパートⅡ」です。
マイケル・コルレオーネはマフィアのボスですが、キューバにカジノを出
す計画を持ってハバナへ行き、そこである光景を目撃します。政府軍に
捕まったゲリラが路上で射殺されるとき口々に「フィデル万歳・・!」と叫
ぶのです。これを眼にしたマイケルは「革命軍が勝つのでは・・」とつぶ
やきます。同乗していた現地の案内人は「こんなことは10年も前からつ
づいている。政府軍にはアメリカがついているから大丈夫だよ」と説明
しますが、事態はマイケルが予感した方向へ急展開します。
大統領招待のレセプションにマイケルもアメリカの投資家として招か
れ大統領の歓迎挨拶を聴いているその席に重大ニュースがもたらされ
ます。鎮圧に向かった筈の政府軍が反乱を起こして革命軍に寝返り逆
にハバナへ向かって進軍中というのです。たちまち会場は大混乱、大
統領をはじめ政府要人は先を争って空港へ向かいアメリカへ亡命して
しまいます。
暗黒街に生きる人間ののし上がるために発達した嗅覚、鍛えられた
自己防御の本能的能力があったから事態を予感できた、と映画は言っ
ているようです。そうだ、そうに違いないと私も思いました。
太宰府天満宮参道はお祭りのような賑わいでした。梅ヶ枝餅のお店には行列が
出来ています。11月は七・五・三などのために参拝客が増えるそうで着飾った親
子連れが目立ちます。雑踏の中に托鉢僧が低くお経を唱えながら立っていまし
た。これは雲水とは違うと思いますが衆生に喜捨を求める行為は同じですね。若
い人が喜捨するのを見かけました。わが国は仏教国なのですね。九州国立博物館では鳥獣戯画展をやっていました。
拾った蹄鉄のことを先日の記事に書きましたが、全くの偶然からこの蹄鉄
に意外な可能性の存在することを発見しました。ミステリアスでなかなか面
白い経緯があります。
先ず拾った所ですが、荒木宮という村社クラスの神社の境内です。この神
社は狛犬に人気があるらしくネットの書き込みも多いです。蹄鉄は4月の
地震で鳥居が落ちてその後片付けの際に掘り出されたらしく楠の根方にさ
りげなく置いてありました。第一発見者のその処置はなんとなく分かります。
元の場所に埋め戻すのも芸のないこと、と言って持ち帰っても仕方のないこ
とで、とりあえずそこに置いたものと思います。
それを私が拾い持ち帰ったのですが、私の場合も蹄鉄に特段の意義を見
出した訳ではないく、子供時代の記憶を呼び覚まして懐かしく思っただけで
した。
社名が分からないので由緒など調べようもなく、二度目の訪問になりまし
た。私が調べたかったのは境内にある五百年記念碑でした。碑が建立され
たのは昭和8年とあります。これは何の碑だろうというのが疑問で地元の人
に聞いてみようと思ったのです。
発見場所 左下隅楠の根方の窪みの前に立てかけてありました。
地元の人来ないかなあと神社の前でまっていると、まことにうってつけの
おじいちゃんが犬を連れて通りかかりました。先ず社名を訊きました「荒木
宮」と判明、五百年碑は創建五百年ということでした。「今年は583年になり
ます」とその人。「わたしは昭和8年生まれですから」なるほどとナットク。
神社の周りに住宅はなく田んぼの真ん中に建っている。楠6本、銀杏3本が市の指定樹木になっています。雰囲気のある杜ですね。
いろいろ質問する中で蹄鉄のことを言ってみました。「戦時中この神社に
は比叡部隊という軍隊が野営していて、10数頭の軍馬がいた。その馬の
蹄鉄じゃなかろか」というセリフが出ました。「親父は区長をしていて軍の世
話もしていたためか、終戦になったときその部隊の馬を1頭もらいました。」
この人は終戦の時12才になっていたからこの記憶は信用できます。
それで軍馬についてネットで調べました。その結果「日本釧路種」という馬
種にたどり着きました。この馬は昭和12年(1937)に改良品種として完成
します。体高148cmと小型でありながらパワーもあり耐久力に優れ将校の
乗馬用あるいは輜重運搬用として大活躍をしたらしい。軍歌「愛馬進軍歌」
などに描かれているのはこの馬だと思います。
この蹄鉄を手にしたとき「小さい・・」というのが私の印象でしたが、小型種
と判明すればそのことが腑に落ちます。比叡部隊が編成されたのは昭
和20年4月沖縄戦を目前にしてさらに本土決戦に備えるためでした。兵員
は20,000人それが続々と京都から熊本入りをしている最中に終戦となりま
した。
この蹄鉄がその時のものである可能性は非常に高いと思います。第1の
理由は蹄鉄が小さいこと。第2は農耕馬は蹄鉄を着けないこと。第3は馬車
牽き馬は鍛冶屋で打ち替えるから神社などに蹄鉄を持ち込むことはまず考
えられないこと等です。何気なく拾った蹄鉄に意外な背景のあったことに驚
いています。
写真は拾った蹄鉄です。拾った場所は田園風景の中にある小さな神社ですが、神社のことは別の機会に掲載します。ここでは村の鍛冶屋について漱石の「二百十日」の冒頭部を引用して子供時代を懐かしみたいと思います。
一
ぶらりと両手を垂げたまま、圭(けい)さんがどこからか帰って来る。
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を歩行(ある)いて来た」
「何か観るものがあるかい」
「寺が一軒あった」
「それから」
「銀杏の樹が一本、門前にあった」
「それから」
「銀杏の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常
に細長い寺だった」
「這入って見たかい」
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」
「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」
「なるほどそうだね」と圭さん、首を捻る。圭さんは時々妙な事に感心す
る。しばらくして、捻ねった首を真直にして、圭さんがこう云った。
「それから鍛冶屋の前で、馬の沓を替えるところを見て来たが実に巧み
なものだね」
「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそん
なに珍しいかい」
「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」
「幾通りあるかな」
「あてて見たまえ」
「あてなくっても好いから教えるさ」
「何でも七つばかりある」
「そんなにあるかい。何と何だい」
「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす鑿と、鑿を敲く槌
と、それから爪を削る小刀と、爪を刳る妙なものと、それから……」
「それから何があるかい」
「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいに
は驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」
「爪だもの。人間だって、平気で爪を剪るじゃないか」
「人間はそうだが馬だぜ、君」
「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど呑気だよ」
「呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗だ
ね。ぴちぴち火花が出る」
「出るさ、東京の真中でも出る」
「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛
冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」
初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、
淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと
鉄を打つ音がする。
通りに立て看板を出してもらいました。
膝栗毛は7人の読み合わせ会ですが、今回は14人の参加があり盛会でした。写真右端が清田先生。
世話人の今村さんの奔走で講演会を開催しました。出席者は14名、講師は清
田家住宅の当主で江戸時代の貨幣制度に詳しい清田泰興先生におねがいしま
した。
【講演要旨】
15世紀大航海時代が興り、新大陸の発見等世界はグローバル化への一歩を踏み出した。日本ではザビエルの来航を機に南蛮貿易が勃興、通貨問題(金銀銭の交換レート)が意識されるようになる。そういう経験を経て慶長14年(1609)徳川家康によって通貨が統一され、小判1両=銀50匁=銭4,000文という交換レートが定められた。これを慶長の幣制という。
この三貨制が江戸時代270年間に亘って機能した制度であった。しかし幕府の経済的基盤の弱まりが徐々に進行し慶長幣制の品位を保てなくなった。全期を通じて9回に及ぶ貨幣の改鋳が行われ改鋳の度に金の含有率が下がり、質の低下は覆うべくもなかった。そして混乱の幕末期を経て明治に至る。
講演の要旨はおおむね上記のとおりですが、個別には金銀vレートの変動と二重構造の問題、銭価の著しい下落、幕末に起こった金の大量流出、更には藩札の普及など大変興味深いお話で、質疑応答ではレベルの高いやりとりもありました。